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俺のX 2024年4月①

3/19

手羽元とか手羽先とかをお弁当に入れていて、食べた後の骨をそのまま弁当箱にしまって持って帰って家で捨てていたけど、そんなことせずティッシュとかに包んで会社のゴミ箱に捨てればよくない? と気付いた。

そういえば弁当生活を始めたのはコロナ禍の頃で、弁当ごみは公共の場所には捨てづらいなと思って持ち帰ってたんだということも合わせて思い出した。

コロナ禍にやり始めて習慣化してしまって気付けていないこと、ほかにもあるんだろうな。

3/22

さむい! なんで!

昨日はお休みだったんで別の仕事してて夜になって、どっか飲み行くかーってなったんすけど結局いつもの馴染みのお店に行く感じで、こういうところでもなんというか体力がねえなーって思いました。新しい店とか探したり行ったりする体力がない。筋肉もねえなー。

身も蓋もないんですけど、あらゆるコンテンツが設定大喜利化しているのがしんどいのかもしれないなってちょっと思った。売れる要素(設定)のパッチワークというか。組み合わせ。

「○○な◇◇が▲▼する話」みたいな。それこそ生成AI的とでもいえばいいのか。好みの設定をプロンプトで指定してお出しされたもの、みたいなね。
何かしらの化学変化が起こって新しいものになってたとしても、構成元のあれやこれやに目新しさはないことがほとんどで、それが「なんか見たことある」っていう既視感につながって、見よう読もうとかって前向きになれないのかも。

新しいものを求めているのに、なんか違うんだよな~とか言いつつ、結局いつもの馴染みの店に行って似たようなクダを巻く感じはまああるよ。おっさんになったなー。

いうて最近のコンテンツにあんまり触れてないからトンチキなことを言ってしまっているのかもしれないけど。昔からそうだったじゃんと言われたらまあ確かにそう。

こういうのが見たい読みたいっていうときの「こういうの」ってくくり自体は別に昔からあったし、そういう取っ掛かりがないと作品まで辿り着けないし。ある種のジャンルコードみたいなもんですよね。そうそう。
それで結局、面白かったらいいじゃんっていうね。そりゃあもちろんそう。別にいいのよ。面白かったらいい。

ただ、若い頃の「バキーン!」ってハマるあの感覚は、なかなか訪れてくれないのかもしれないなという哀しみがあってね。いや本当、大喜利にノれない中年男性の、ただの繰り言ですよ。へへへ情けねえや。

そんで、実際に見たり読んだりしたら「えっ面白いじゃん」ってね。いやアホすぎる。「ほら見ろ!」「見てから考えろ!」って本当に思うよ。よう考えたら自分の創作のとっかかりもそうだもんね。この組み合わせでディティール詰めてったら面白いんじゃね? みたいなところから始まるんだから一緒よね。それが誰かにとっての「バキーン!」になるかも、もしかしたらなってるかもしれんわけやん。

先日ね、虎ノ門の大倉集古館に初めて行ったんですよ。仕事半分ではあったんですけど、スタッフの方からご厚意で館内パスをいただきましてね。

フーンって観てたんですけど、そこで久々に「バキーン!」を得ましてね。
横山大観の『夜桜』っていう屏風画だったんですが、自分でもびっくりした。「えっこれで?」「えっ今?」みたいにセカンド自分(Ⓒ榎本俊二)が驚いてるのもわかって。

そういうのも含めてすごく面白かったです。目が何かをとらえて、皮膚が何かを感じて、身体のほうに明確に素直にバキンっときていて。よかったなー。

こういうことってウンウン悩んでることと全く無関係に思いがけずあるもんだから、やっぱアンテナ立て損ってことはないんですよね。ただ、アンテナを立て続ける体力さえあればの話ですけどね。がんばれがんばれ♡

3/25

楽しみにしてたSwitchの『ユニコーンオーバーロード』なんですけど、発売日を過ぎてからようやく体験版を触りまして、「ちょっと俺の今では無理だ」となりました。今日もかなしいおじさんのお話です。

同じヴァニラウェアの前作『十三機兵防衛圏』が大名作だったので、やらいでか、と思っていたんですけど、そういえば『プリンセスクラウン』も『オーディンスフィア』もすごく大好きなんですけど終盤で投げてるんですよね。「無理だ」となってクリアできなかった。

すごく好きだがクリアできていない、というゲームってけっこうあって。理由としてはもちろん難易度がまずあるんですけど(ゲーム下手だから)、ここ最近は、なんか没入感が削がれると一気に萎えてしまうという傾向が強くなった。

ゲームの中の世界から抜け出してしまった、という感覚に一瞬でも陥ってしまうと、もう戻れなくなる。ストーリーがある作品であればあるほど顕著で、なんていうか自分事じゃなくなってしまうともうダメになる。魔王との対決もヒロインの救出も世界の平和も、なんだか「まあいいか」となって指先からコントローラーが遠のいてしまう。

なんか、APEXとか桃鉄とかスイカゲームとかはまだいいんですよ。用意されたお話が特にないから。あるっちゃあるけど、プレイそのものには影響ない程度でしょう。

「ストーリー=ゲームプレイのモチベーション」なんすよ。ストーリーをナラティブに感じられている間は「楽しい」を超えてもはや義務感みたいになっていて、ゲーム内のことが自分事になっている。それで、やらいでか、という気持ちで続けられる気がする。

そりゃ体力も使うよなーって思う。中学生の頃、CD買ってきてコンポの前で正座して聴いてたときあったけど、それくらいの真摯さで常にゲームと向き合おうとしているのかも。疲れるって。そりゃあそう。無理している。

思い出すよね。吉田戦車のゲーム4コマ『はまり道』の有名なやつ。

「ゲームはやりたいんだ」「やりたいんだけどおっくうなんだ」「買っていざやろうとしても、やらなくていいから安心なゲームはないかなあ」(うろ覚え)

自分がこの状態になるとは思わなかった。なんか、ゲームに限らず全部いまこれに近い状態になっているような気もするな。おっさんの繰り言とか泣き言ばっかりここに書いてるし。

よくないな。がんばれ♡がんばれ♡

3/26

雨いやだなあ

急遽組まれた社長との面談で、なんか不遜な態度を取ってしまったけど、ちょっとスッとしている。どうなっても知らねえぞ~~~(楽)

3/27

「自分だけが気付いていない」って怖いですねえ。

日々を過ごす上でまったく違和感なく、自分としてはごく自然なところ。実はみんなからは自分がこう見えている、みたいなこと。「あいつまたあんなことやってるよ」なんて陰口になるようなこと。いやだねえ。

それとはまた別に、ハタからみたらどう考えてもヤバい状況で「あいつあんな調子で大丈夫か? 休んだほうがいいんじゃないか?」みたいに思われてる、みたいな、優しいバージョンの「気付いてなさ」もあるよね。何だ優しいバージョンって。

自分では普通のつもりで、異変に気付いているのは周囲だけ。その状況を「心配してくれる」人たちがいるっていう、そういう優しさですね。優しいバージョン。

優しいだけで、別に教えてくれたりっていうことはないから、自分にとってはどうでもいい。というかもちろん気付きに至ることはない。心配はされてるのかもしれないけど、それだけ。自分だけが気付けない、知らないまま。
優しいけど優しくない。教えてよって頼むことすらできない。

そういうの気付きたいけど、気付くのもまた「自分だけ」を直視することになるわけだから、それもまた怖いよね。

なんとなく流れで、最近すばる文学賞をとったという大田ステファニー歓人さんのインタビューを読むに至って、まんまと影響されている。
あーいいな。やっぱいいよね、となった。久々に小説を買ったよ。

お仕事として小説というかノベルを書くようになって、完全な自分発のものからは遠のいていたけど、脳幹に手をねじ込んでひねり出すあの作業もまた恋しくなってきた。バイ貝とかつぶ貝食べるときの、爪楊枝でズルっと引っ張り出すあの感じね。

読み返し読み返し書いていくんで、けっこう気付くと時間がたってる。小説とかに限らず、今書いているスタイルでもそうで、書いている内容とリズムが絡み合ったり合わなかったりするのを、ハマるまでけっこうコチャコチャとやっている。それがノッているとすごい楽しいのよ。いいの。

文章を書くのはいいぞ。

3/28

インターネットに聖痕を刻む
(ネット黒歴史を増やす)

昨夜なんか眠れなくて、大長編ドラえもんの『のび太と夢幻三剣士』を読み返した。30年ぶりくらいか。当時はコロコロ本誌で追っていた。小学校高学年だったはず。

それまで「ドラえもん」については好きというよりも「ある」ものだったけど、のび太と同い年になったことで認識に変化が起きたようで、自分からすすんで読むようになったのはその頃からだった。これだけの長寿作品なのに、現在進行形でしっかり今のコンテンツなのだということが、なんだか嬉しかったのだね。F先生もご存命だったし、映画もその原作も毎年出ていたし。

中でも好きだったのが『夢幻三剣士』だった。コロコロコミックで原作を途中まで読んで、めちゃくちゃワクワクしていたが、予算の都合で原作を完走できなくなり、そのまま映画のビデオレンタル化まで読み返すことなく過ごした。

ビデオで映画を観てたいへん興奮した。ファンタジーやゲームの要素がふんだんに散りばめられ、小学生にちょうど良い程度のほの怖さを下敷きにした展開に、これはよいものだ、と思うに至り、好きなドラえもん映画の話になるとこの作品名を挙げるようになった。


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