愛を語るのであれば彼や彼女らを「透明」にしてはならないのだ。

『私たちは「やさしくしなければならない対象」に対してはやさしいが、そうでない対象にはとことんまで冷たい。~──人は「やさしさがない」ことによって苦しむのではない。自分と他人を比較して、「“自分のもとに”やさしさがない」ことを知って苦しむのだ。自分のもとには「やさしさ」が与えられていないのに、少しよそに視線をやると、「やさしさ」が当たり前のように交換されている光景を目にする。大勢の人からの「やさしさ」を当然のようにかき集めている人を目にする。人間は、絶対評価をあまり重要視しない。他人と比べて相対的に自分がどんな位置にいるかを測ることによって、幸不幸を感じるものだ。それが社会的関係性を築くことで生き延びてきた、私たち人類という社会的生物の宿命でもある。他者との相対的な関係で自分のことを考える私たちは、この世のどこかに「掛け値なしのやさしさ」を享受している人がいるのに、自分にはそれが与えられないことを知ると、とてもつらく感じる。~人は「やさしさの不在」ではなく「やさしさの偏在」によって深く傷つく。時として「やさしさ」が自分に与えられないことを恨む。~私たちは、自分にとって「やさしさ」を配るに値しないと感じる人には、有限で貴重な「やさしさ」を分配したくないと願ったからこそ、「自由で平和で安全で快適で個人的な社会」を選んだのではなかっただろうか。私たちは「自分のやさしさを分配するに値しない相手」にはとことんまで冷たくし、それによって自分の便益を最大化することに、もはやためらいを感じなくなっている。もし容疑者のような人間に「踏みとどまる何か」を与えたいと思うのであれば、「自分の好きな相手にだけ、自分のもつ有限のリソースを与えられる」という自由な社会の美徳を、一部諦める必要があるだろう。「この世のどこかには掛け値なしのやさしさがある」というメッセージを見ても、それを「ただしそのやさしさは、お前には生涯だれからも与えられることはない」と読み込んでしまい、恨みを募らせるような人を少しでも減らすには、「やさしさの偏在」そのものを突き崩していくほかない。しかしながら、「やさしさの偏在」がいかに人を苦しめ、時として社会全体に大きなリスクをもたらすかということを理解する人は少ない。「誰にやさしくするかは、ひとりひとりが自由に決めてもよい」 ──このような規範に疑問を感じないのも当然だ。個人のレベルにおいては、なんの悪意もない行いでしかないのだから。「やさしさ」を与えられず、だれからも顧みられず、この社会で透明化されている人は大勢いる。そんな人びとがみな、必ずしもこの容疑者のように、社会や人びとに対して歪んだ復讐心を抱いているわけではない。むしろ彼ら彼女らは、だれも見ていない場所で、ただ静かに祈っている。その祈りの存在に目を向けるべき時が来ている。』

このテキストにおける「透明化された人びと」を約40年前の1981年「The people on the edge of the night(夜の淵に立ちすくむ人々)」と指摘している歌がある。「UNDER PRESSURE/QUEEN AND DAVID BOWIE」である。愛を語るのであれば彼や彼女らを「透明」にしてはならないのだ。

回復した京アニ放火容疑者は、なぜ「優しさ」についてまず語ったのか
凶行から垣間見える「やさしさの偏在」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68498

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