個人主義社会におけるヒューマニズムの敗北
何かを書かねばと思った。
いま、私は何かを書いておくべきだと。そしてその何かは、正しく私が書くべきものでなければならない。
そう、例えば----個人主義社会におけるヒューマニズムの敗北。
ただ単に思いついた言葉だ。意味はまだない。でも、何かすごいことが書けそうな雰囲気だけは感じる。ポテンシャルの高さ、エネルギーの大きさ、この題名にはそれらが備わっている。
社会は主義を定めあぐね、判断は民衆に委ねられた
個人主義社会という言葉が出ているのだから、社会がどのような主義を求めてきたのか書いておくべきだろう。きっとそうだ。だから私は社会について考える。しかもゴールは個人主義社会と決まっている。オーケー、ゴールが決まっているなら走り出すだけでいい。
かつて人間は、まだ社会というものを持っていなかった。恐らく。私にはその当時の記憶がないので、推測でしかないが。まあたぶん、猿が進化した生物が集団を形成してはいたものの、実力主義だったに違いない。
いや待て。「実力主義」と書いてしまった。つまり、その集団とは実力主義社会だったのだ。なんてこった。社会は生まれてしまった。うっかりしたことを書いたばかりに。
生まれ落ちた実力主義社会を、ゴールである個人主義社会に向けて成長させなければならない。
こういうのはどうだろう。
当時の実力主義社会は、力の強さ、声の大きさによって成り立っていた。暴力さえまかり通っていた。猿の集団が定住し、農耕や畜産を始めたことで強さの基準は変わっていった。富を持つ者が強い、資本主義社会の誕生だ。
ちょっと待てよ、資本主義社会の誕生が早すぎやしないか。
生まれてしまったものはしかたがない。認知しないまでも、存在を否定できるものでもない。資本主義社会は生まれた。オーケー、そのセンで先に進んでみよう。
資本主義社会は未熟だった。持つ者が生き残り、持たざる者は絶える、実力主義社会の延長でしかなかった。一方で、定住して農耕や畜産をするには、人手が必要だ。富という力を持った者は、弱者を働かせて自らの懐をさらに潤すことにした。ブルジョワジーとプロレタリアートが生まれ、格差が生まれ、妬みが生まれた。
プロレタリアートの妬みは、ブルジョワジーへの反発を生み、やがて共産主義として結実した。みなが平等に持っていれば、貧富の差も格差も妬みもブルジョワジーもプロレタリアートもなくなる、そんな夢に熱狂した人々がいた。熱狂した人々はマルクスを信奉し、信奉によりマルクスに富が集まり、共産主義社会は格差を取り戻した。
そしてソ連が崩壊した。
唐突だけど、途中が思いつかないのでしかたない。ソ連はまだ生まれてもいなかったけど、崩壊してもらうしかない。
あれ、社会主義が生まれていないぞ。そもそも共産主義と社会主義の違いがわからない。違いがわからないということは、きっと双子だ。共産主義と社会主義は一緒に生まれた。ソ連は滅びたけれど、中国やベトナムに社会主義や共産主義は生き残っている。
そういうしている間、資本主義の方はずーっと資本主義をやっていた。共産主義とかのライバルが現れて、慌てて「冷戦、はじめました」などののぼりを掲げてみたものの、そのライバルは尻すぼみ。いかん、敵がいなけりゃ始まらないとばかり、資本主義を押し売りする戦争なんかしてみたものの、資本主義自身は何も成長しなかった。そこを個人主義に突かれた。
社会主義では、個人より集団の利益が優先される。一方の資本主義はといえば、こちらも富を支える人間を十把一絡げに扱う方が効率がいいので、やっぱり個人より集団の利益が優先されるのだった。つまり、資本主義は社会主義だった。ライバルだと思っていたのは、ドッペルゲンガーだったのだ。
資本主義がドッペルゲンガーと戯れて目を離した隙に、個人は社会主義からも資本主義からも抜け出そうとした。個人を尊重する社会をつくるべきだと声を上げ始め、その声に賛同者が集まり、結局個人は集団になった。集団になってしまった。
おかしいな、個人主義は遠いぞ。少しワープしよう。
そして----個人主義社会が誕生した。
世の中は、個人主義社会へと突き進んだ
なんだかんだで1700文字も書いてしまった。
駄文だ。
言葉は多く、意味は少なく、恥の多い駄文だ。このままでは駄文で終わってしまう。とっておきの技を使うしかない。
逆張りの理論だ。
ヒューマニズムを支えていたのは格差だった
ヒューマニズムという言葉から、人と人とのふれあいや優しさを思い浮かべるだろう。強者も弱者も平等であるべきだ、そんな幻想をぶち壊そう。実は格差こそがヒューマニズムの源泉だということにしてみよう。
欧州には、ノブレスオブリージュという考え方がある。富を手にしたものには、弱者に手を差し伸べる義務がある。ほら、やっぱり格差があるから、ヒューマニズムも生まれるのだ。
個人主義社会とは違って、ヒューマニズムは簡単に生まれてくれた。安産だ。もちろん、認知はしない。
「格差」からダイバーシティへの意識変容がヒューマニズムを殺す
ちょっと強い言葉を使ってみた。どきどきする。殺す。殺す。殺す。どきどきどき。
逆張りしてみたので、その方向から主題を回収しなければならない。しかし、ことここにきて、案外簡単だとも感じる。だって、格差がなければヒューマニズムは生まれないということは、もうわかってしまった。だから、個人主義社会を突き詰めると格差がなくなるという話をすればいい。
しかし、個人主義社会とはいっても、貧富の差がなくなるとは思いにくい。つまり、格差は簡単には死なない。ではどうするか? ここでパラダイムシフトを起こすしかない。
個人主義社会は、個々人の多様性を許容する社会だ。物事の判断基準が貧富、上下という軸から離れ、ダイバーシティへの許容度が新たな軸となる。そう、格差は死なないが、注目してもらえなくなるのだ。長年、資本主義社会で偉そうにしていた格差は、死んではいないのに、支持を得られなくなるのだ。栄枯盛衰。おごれる者の久しからずや。
みんなちがってみんないい。みすゞとみつをがもてはやされ、格差の人気はあっという間に地に落ちた。
格差を気にすることがなくなったら、「私はあいつらより裕福で恵まれている。だから施してやらねば」という思いを持つ者もいなくなる。施す人がいなくなり、施されるべき人は次々と倒れる。ヒューマニズムのかけらもない、そんなディストピアが、個人主義社会の成れの果てだ。
シン・ヒューマニスト宣言
弱者が倒れて、はい大団円とはいかない。やっぱり後味が悪い。そこで、個人主義の元に格差が敗れ去ったのちの、新たなヒューマニズムについて最後にふれておきたい。
別に、ヒューマニズムに生き残って欲しいから書くのではない。なんか後味が悪く、もっといえば文章として締まりがないから、最後にもっともらしいことを書こうということだ。
格差に基づく、言ってみれば人間の社会的上下を前提とするヒューマニズムは、さっき殺してしまった。じゃあ、その後に残った人間たちにはまったく希望がないのだろうか? さすがにそんなことはないだろう。いつだって自分をヒーロー、ヒロインと思い込みたがる人たちはいるし、そんな人たちの存在を許容するのが個人主義社会だ。バットマンもアイアンマンも山本太郎もいたっていいじゃないか、にんげんだもの。
そういった人たちは、自らの富とは関係なく、弱者に救いの手を差し伸べるだろう。いやバットマンとアイアンマンは金持ちか。例えがよくなかった。えっと、ガンジーとかでどうだろう? ガンジーとか山本太郎とか、そういう人ってことにしよう。
そういった人たちは、自らの富とは関係なく、弱者に救いの手を差し伸べるだろう。これこそが本来人間が持っているはずの優しさの体現であり、新しい時代の新しいヒューマニズムだ。個人主義社会においてヒューマニズムは敗北したが、そこにはシン・ヒューマニズムとでも呼ぶべきものが生まれるに違いない。無論、一足飛びには難しいかも知れない。序、破、Qなどのステップが必要かもしれない。それでも、私たちは人間の持つ可能性を信じて疑わないものである。
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