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なぜ東京大学でなく、早稲田大学だったのか(その2)

わが母校(高校)、いまだ大して変わらないのがうれしい。築50年くらいになるのかな?

長岡藩は福沢諭吉先生と非常につながりが深いものでした。
長岡高校の先生は転勤で来るので知らない人も多いのです(笑)
江戸時代の慶應義塾の塾生の大半は、長岡藩、紀州藩、中津幡の藩士でした。
早稲田の学生だった私か、敢えて福沢諭吉先生と呼ぶのは、長岡高校の前身の長岡洋学校の設立には福沢諭吉先生が関わっているからです。
最初の校長は三島億次郞公ですが、当時は柏崎県の参事という役職で、学校の教育に携わったのは慶應義塾出身者、教頭は藤野善蔵でした。藤野善蔵は長岡洋学校の教頭を辞した後に慶應義塾塾長に就任します。慶應義塾と長岡洋学校は兄弟みたいなものです。

私のおさな馴染みで、小さいころから一緒に剣道塾に行っていたM君は慶應義塾大学に進みました。

私は高校1年生の時の模擬試験で、それも受験者の少ない模試で、現代社会が全国上位(一ケタ)になった時、出身高校が全国の名だたる名門私立高校、志望大学は、東大、京大というなかで、私だけ「早稲田大学」と書いてありました。
運の悪いことに、そのリストにもう一人長岡高校の生徒がいて、その人は後日、医学部に進学するのですが、学校にバレてしまいました。
「アイツ志望大学が早稲田大学だって?」「実は俺も」「大学ラグビーが好き」なんて話で、結構早稲田大学が好きな仲間たちがたくさんいたのです。

体感的にも、当時は第一志望を早稲田大学にする生徒はたくさんいたのを覚えています

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