立憲自由民主主義か、抑圧的権威主義か。

自民党を拠点とする政界右派に政権を任せ続けてはいけないのはなぜでしょうか。

端的に言えば、日本の政界右派は国や公共を政府や政権(権力者)と同じにしようとしていて、憲法や法律を「権力が従うべきルールや制約」から「権力の道具」に変えようとしているため、政権を任せるには危険すぎるからです。

まず今回はこの記事から見ていきましょう。
共同通信『文科省、国立大に弔意表明求める
故中曽根康弘氏の合同葬』2020/10/14 19:49
https://this.kiji.is/689052474676790369?c=39550187727945729

権威主義体制は儀式や行事に国民を動員することでできあがっていく、というセオリーを着々とたどってますね。まず大学や学校を動員の対象にするというのもあえて狙ってやっている。さすがに今のところ天皇はまだ露骨に利用しにいくいので中曽根大勲位でリハーサルということでしょう。

もっとも、今回限りであれば、とりあえず中曽根さんに頭を下げておくかとやり過ごす人も多いでしょうし、亡くなった人にみんなで黙祷して哀悼を祈るってすげえ素敵なことじゃんと考える人もいるかもしれませんが、こうした指図や動員は今回にとどまらず、ルーティン化していく可能性があります。

その場合にどういう国になるのかというと、政府や政治指導者の指示や指図によって国民が一斉に同じ動作や行為をする国になります。

中曽根康弘氏の合同葬に合わせて皆で一斉に弔意を行為によって示せよという国家の指図に異論を言う人が少なければ、やがて総理と陛下の写真を飾れとか、毎朝毎晩国旗掲揚奉納式をやるから君が代が流れる間直立不動の姿勢をとれ、斉唱すればなお良し、などと言い出さないとも限りません。

これは別に荒唐無稽な話ではなく、実際に1987年ぐらいまでの韓国や台湾はそのような国でした。

中曽根さんに弔意を表せと言ったぐらいで何を大袈裟な、と思う人もいるかもしれませんが、これは政府権力者が国民にこう振る舞え、こう考えろ、こう感じろ、こう言えといちいち指図する領域にまで踏み込んできたという点で、見た目のくだらなさから感じるよりもはるかに深刻な問題を含んでいます。

さらにこちらの記事を見ると、「都道府県教育委員会にも、加藤勝信官房長官の名前が入った同様の通知が参考として送付された。」とあり、公教育機関までも中曽根氏への弔意表明儀式に動員しようとしていることがわかります。この政権、かなりたちが悪いです。

「思想統制」「国民目線とずれ」 中曽根元首相の合同葬巡り教育現場から批判 - 毎日新聞 https://mainichi.jp/articles/20201014/k00/00m/040/351000c

行政機関が司法機関に指図をするのはまずいでしょう。台湾や韓国だってそういう状態は30年くらい前に卒業したんですよ?

弔意表明を最高裁に依頼、内閣府 中曽根元首相の合同葬 | 2020/10/16 - 共同通信 https://this.kiji.is/689423672536876129

司法と立法、教育、法的権利規則や人権が行政に従属するような戦前スタイルの抑圧的権威主義国家が敗戦なく発展していたら、という「ある種の理想」を追求しているのが自民党なので、そういうものが良いと思う人以外は自民党を勝たせないようにした方がいいでしょうね。

天皇への崇拝や賛美が下火になった代わりに、安倍前首相や菅現首相を崇拝したり賛美しながら「敵」を攻撃するツイートがやたら拡散されたりしているし、安倍前首相はこの間産経新聞のインタビューで「私が戦後を終わらせた」と言っていましたよね。

第一次安倍内閣(2006~2007)が教育基本法を変えたときに「教育は、不当な支配に服することなく、国民に対して直接責任を負って行われるべきものである」を「教育は、不当な支配に服することなくこの法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり」にしたのにも意図があります。

今の政権与党がやっているように、司法と立法を行政、特に政権の総理大臣や一部高官や幹部に従属させ、国民主権を骨抜きにしていけば、「この法律及び他の法律」はむしろ不当な支配の道具になります。

現に日本学術会議会員任命除外問題では、日本学術会議法第7条と17条は政府による恣意的な運用を防ぎ学術会議の政府からの独立を守るための法令であるにもかかわらず、現政権はこの法律を政権の恣意的な任命や除外、選り好みを正当化する根拠として主張しています。

いま政権を取っている政界右派の人々は、憲法や法律を「権力が従うべきルール」や「権力に対する制約」から「権力の道具」に変えようとしていますし、彼らにとって法や国家とは「守るもの」ではなく「使うもの」です。

日本政治における右派や保守派は、自分たちを日本国憲法体制・戦後体制に対する挑戦者だと位置付けていて、日本国憲法体制・戦後体制を終わらせれば「本来あるべき国の姿」が実現できると空想しています。その空想を国家意思に格上げし、「戦後レジームからの脱却」を果たすためには、政界における彼らの根城となる政党が政権を持ち続ける必要があるので、自民党は「叩き上げ」「庶民出身」「ビジネスエリート」「政府方針に理解を示す教授や准教授」などの人材もスカウトしながら勢力の維持と拡大に励んでいます。

革新、リベラル、進歩派「なのに」日本国憲法や戦後体制のことは守ろうとしているというのは決して恥ずべきことではありません。守る側がいなければ、「憲法や法律は権力の道具ではなく、権力が従うべきルールや権力に対する制約である」という最低限の原則すら壊されてしまうからです。

日本国憲法や戦後体制じたいが気に入らない人たちが政界や言論界のかなりの割合を占めている限りは、私たちは抑圧的権威主義か立憲自由民主主義かという体制選択を問われ続けています。

それは、「私たちが戦後を終わらせた(終わらせる)」と豪語する人たちに日本国の運営を任せるのか、それとも今年2020年は戦後75年であり、これからも、来年も、再来年も、戦後76年、戦後77年と続けていくのだという決意を選び続けるのか、という選択でもあります。

私は、後者を選ぶ人が増えていき、ますます強固なものになることを願っています。戦後日本、日本国憲法の立憲自由民主主義を確立した中で健全な競争が行われる国であってほしいと思っています。

立憲的改憲や建設的な改憲論議の話は、「新しい戦前様式」に向かう道を断ち切ってからにしましょう。

そのためには何が必要でしょうか。まずは国や公共を政府や政権(権力者)と同一視し、憲法や法律を「権力が従うべきルールや制約」から「権力の道具」に変えようとしている政界右派がなぜ国民の相当数から支持されているのか(選挙で多数を取るのか)を考えてみる必要がありそうです。

これは、私と国(のえらい人)が認識される一方で、公共や社会という意識が希薄であることに大きな原因があります。

私と国(のえらい人)が認識される一方で、公共や社会という意識が希薄だとどうなるでしょうか。

国民にとっては、「自分でなんとかするしかない。なんとかできなかったら自分のせい」(自己責任)か、えらい人が善政を敷いてくれたら助かる(救済の期待)しかありません。それは国民といっても、主権者や市民としての側面が非常に薄いバラバラの民衆です。

「私がなんとかするか国が善政を敷いてくれる」という意識では、政権与党が国の「運営」、「公式」です。そして公共や社会の意識が薄ければ、公共圏や社会圏にあって国政の問題点を取り上げ追求し、改善を求め、必要とあれば代わりに国政を担おうとする野党やその支持基盤となる組合や社会運動は認知されないか、「文句ばかり言って邪魔をする人たち」と誤認されることになります。

私と国(公式・運営・えらい人)という抽象的な図式であれば、自分たちの国のことについて具体的に知る必要も批判的に考える必要も認識されません。タイムラインや画面にフィードされる情報に気が向いたら反応すればいいし、関心がなければスルーすればいいのです。そもそも関心を持つ理由やきっかけがなかったのですが。

一方で、権力や財力を持っている人たちにとっては、国は私益・自己利益を最大化するための場に過ぎません。彼らが掌握している行政機構や政党、企業はそのための道具として使用され、私営(「民営化」「民間委託」という名のもとに)されます。竹中平蔵さん、パソナ派遣、電通、カジノなどはその例です。

そのような人たちにとっては、上記のように公共や社会という意識が希薄で、主権者や市民としての側面が乏しく、権利や行動の主体としての個人という意識も確立していないバラバラの民衆はとても都合がよいのです。人間すら十把一絡げに道具として使えるからです。

そのとき、権力や財力をもつ人たちは、国民や市民、有権者に対して説明責任をもって向き合い応答するのではなく、ただひたすら豊富な権力と財力を利用して民衆から自分たちにとって都合のいい反応を引き出せるような刺激を行き渡らせるためにあらゆる手を使ってくるでしょう。

一例:『学術会議めぐり広がる大量の誤情報、まとめサイトが影響力。政治家やメディアも加担…』
https://www.buzzfeed.com/amphtml/kotahatachi/gakujutukaigi4?utm_source=dynamic&utm_campaign=bfsharetwitter&__twitter_impression=true

逆に言えば、公共や社会、主権者や市民という意識を強く持った権利や行動の主体としての個人が協力していけば、国や法律、行政は一部の人が私益を最大化したり独り善がりな願望を実現するための道具ではなく、個人一人一人やみんなの尊厳や生活、生存環境を守るための共通資本にすることができます。

それこそが日本が選ぶべき道ではないでしょうか。

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