純粋理性批判


純粋理性批判における中心課題は、ふたつある。

(1)「主観による認識の客観性」の再建
(2)「よく生きるには何が必要か」

カントは、ふたつの課題に対してどのような答えを出したのだろうか。

「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」

ひとつめは、「主観による認識の客観性」の再建について。

まず、時代背景には、宗教改革を経た後の新たな価値観、常識として自然科学の飛躍的発展がある。例としては、ヨハネス・ケプラーによる天体の運行法則の発見、ガリレオ・ガリレイによる物体落下の法則性の解明、ニュートンによる物体運動の法則性の解明等があげられる。

その中で浮上した問題の中のひとつが、「主客一致の問題」である。
科学に客観性や信頼性があることは疑いようはないが、その客観性や信頼性はどこにその根拠をもっているのか、認識結果を捉えるのは主観であるが、主観はどうやって客観的世界に一致する知を獲得できるのかという問題である。


カントによる「主観による認識の客観性」の再建をする上での基本戦略は、以下の2つである。

(1)主観が主観の外に出て客観世界そのものに一致することはできない、ということを積極的に認める。

(2)どの主観も一定の共通規格をもっているので、認識の基本的な部分については共通認識=客観的認識が成り立つ。

主観による認識の仕組みは、「感性」の働きにより、空間・時間という枠組みの中で事物を捉え(「直観」)、多様な感覚を概念で整理する「悟性」の働きにより、明確な「判断」を作り出すというものである。
カントは、人間の認識をこのように捉え、どんな主観にも共通する規格があると考えた。そこで、「主客一致の問題」に対して、主観と客観を一致させるのではなく、主観同士を一致させるという形で解決した。認識の客観性は、主観の外に出ることで可能になるのではなく、主観が他者と共有されることで可能となると発想を転換させたのである。

このエッセンスを抽出すると「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」というフレーズに集約される。

「汝の意志の採用する行動原理が、つねに同時に普遍的立法の原理としても妥当とするように行為せよ」


古来、哲学が論じてきた答えの出ない問に対して終止符を打ち、そのうえでよく生きるには何が必要であるかについて答えを出すことが第二の中心課題。

答えの出ない問とは、神の存在、死後の魂、宇宙の始まりなどがある。なぜその問いに答えは出ないのか、人間はなぜ答えの出ない問の底なし沼にはまるのか。

カギをにぎるのは、「理性」である。「理性」は、「推論」という働きをもっている。悟性も理性も考えるという点においては同じであるが、理性は直観に結びついておらず、推論を重ねることで、認識できる範疇を超えた究極の真理にまで行き着こうとする本性をもっているとカントは述べている。

答えの出ないことを求めて暴走しかねないのが理性である。これらに基づいて、「理性」を徹底的に吟味「批判」することで、これらの問自体を不可能なものとしようとした。手法としては、有限説と無限説をそれぞれ否定することでどちらも成り立たないと証明した。また、そもそも答えの出ない世界について、なぜ人間は知ろうとするのか。その問いに対して、カントは理性のもつ二つの関心によって答えた。

それは、「完全性」と「探求心」である。世界の全体を知ることで自分や現在を位置づけることができるため、安心ができ(完全性・有限説)、過去を知ることで、限りなく遡ろうと問い続けることとなる(探求心・無限説)。

次によく生きるということについて、カントは道徳的に生きることを最高の生き方とし、道徳的に生きるところにこそ人間の自由があるとしている。

理性の完全性ゆえに、道徳的世界が最高の善い生き方を全うして生きよと命令してくるとしている(これにはニーチェが生の充実と高揚は、恋愛や音楽、アートなどの場面にあらわれると反論している)。

つまり、人間は他者を尊重しながら、社会の一員としてふさわしい道徳的行動を考え、選択することができる。こうして理性的判断に基づいた道徳的行動にこそ人間の自由があるとしている。

さらにカントによれば、「自由に生きる」とは、人のいいなりにならず自律して、主体的で理性的な判断に従って、道徳的に行為することである。

以上より、カントの中で道徳が自由と結び付いていることがわかる。反論もあるが、時代背景として、宗教改革後これまでの拠り所であった宗教の求心力が失われつつある中で、新たな拠り所、生の目標を示す必要があったということを念頭においておく必要がある。人間が範とすべきものを、宗教から切り離して、人間自身の理性の働きから基礎づけようという試みである。

道徳的にふるまう上での道徳法則のうちもっとも有名で代表的な表現は、「汝の意志の採用する行動原理が、つねに同時に普遍的立法の原理としても妥当とするように行為せよ」という純粋理性批判の中の一節である。

端的に述べれば、だれでも自分なりのルールがあるが、それが自分勝手なものになっていないか、絶えず吟味しつつ行動しなさいということである。

カントは人間の理性を三つに集約した。

それは、①何を知りうるか(理論理性の働き)、②何をなすべきか(実践理性の求める道徳的行動)、③何を望んでよいかである。

③をカントは、道徳的に生きることは何に値するかと言い換えており、その答えを「幸福」に値するとしている。つまり、道徳的に生きることを手段とするのではなく、道徳的に生きた結果として、幸福があると考える。ここで一つ問題が浮上する。それは、「道徳的に生きたとしても幸福には恵まれないかもしれない」という問いである。
カントはここで再び「神」と「魂の不死」を登場させたのである。道徳的に正しく生きることを支えてくれるのが、神への信仰としている。思うようにならない現実に配慮してくれる最高善として神の存在を信じるからこそ人は頑張ることができるのである。

また、「魂の不死」については、みずからを道徳的存在として完成させるためには、死後も修練しなければならないため、魂の不死を信じざるを得ないと述べている。


まとめ

「自然科学の信頼性はどこに由来するか」という問いも、「道徳など生きる上での価値はどこに由来するか」という問いも、ともに人間の主観を起点として考えなければならないというカントの発想はとても重要なものであるといえる。

もちろん主観は人によって異なるが、そこに共通する構造を見出すことで認識の信頼性や価値の根拠にこたえようとするというのがカントの戦略であった。

これらは古びたものではなく、これからさらに発展する可能性をもったものだともいえる。また、「人々が納得できる合理的な共通理解はどうやったら可能か」と考える姿勢をカントは示唆している。自分が正しく、相手が間違っていると思い込むことによる対立を「共通理解に至るために何が必要か」と発想を転換することで、緩和し克服していけるかもしれない。また、カントの哲学における最大の難点は、道徳を議論不可能な領域においてしまった点である。

カントの道徳論について、何を根拠にして賛成したり批判したりすればいいのかわからないということである。さらには感性や悟性といった認識の構造についてもそれが妥当であるか確かめる方法についてもカントは明確にしていない。これら問題を継承し、道徳を議論可能なものとものとしたのが、エトムント・フッサールである。

雑感

現在のコロナ禍という未曽有の事態に世界中が対面している。非常時に本性が出るとはよくいうが、個人間であっても、国家問であっても、自分本位が全面に出すぎているのではないか、という場面が多々見られる。

本書では、共通規格によった主観的認識を共有することで、認識に客観性をもたせることができる。また、「汝の意志の採用する行動原理が、つねに同時に普遍的立法の原理としても妥当とするように行為せよ」という道徳原則が述べられている。

非常時にあって、冷静な判断を下すことが難しい場面に出くわすこともあると思うが、そんな時こそ独りよがりの主観的判断になっていないか、ということを立ち止まって考えるようにしたい。