コミュニティの循環

著名人によるオンラインサロンはいま熱を帯びている。
なぜ、多くの人にオンラインサロンというコミュニティが求められているのだろうか。

『100分de名著 オルテガ 大衆の反逆』

『WE ARE LONLEY BUT NOT ALONE 佐渡島傭平』
の2冊を引用しながら考えてみる。

不自由だが安心、自由だが不安

まずは、コミュニティの定義を確認すると、

〘名〙 (community) 村落、都市、地方など、地域性と共同性という二つの要件を中心に構成されている社会のこと。特に地縁によって自然発生的に成立した基礎社会をいう。住民は同一の地域に居住して共通の社会観念、生活様式、伝統をもち、強い共同体意識がみられる。地域社会。共同体。

精選版 日本語大辞典

とある。
地域性と共同性という要件を踏まえたコミュニティの例としては、学校、会社、町内会など日常生活に密接なリアルなものが挙げられる。

これまで、リアル(アナログ)なコミュニティは、そのコミュニティ内でのルールという制約があるために、不自由であるものの安心を享受できた。

しかし、

インターネット社会で情報量が増えて、リアル(アナログ)なコミュニティに完全に縛られることがなくなり、自由になることで、不安が生まれた。

そこで、自由な中で安心を享受できるデジタルな社会に対応したコミュニティが求められるに至った。


違う側面から考えると、情報量が増えて自由にアクセスできるようになったことで、情報自体が一方通行の「納品主義」から双方向の参加型で形成される「アップデート主義」に変容し、双方向に情報をアップデートするうえで、既存のアナログのコミュニケーション方法は機能不全に陥り、コミュニケーションが活性化しやすい新たなコミュニティが求められたともいえる。

オープンな共同体

『大衆の反逆』では、以下の通り、数の暴力により健全な民主主義が失われていることを述べている。


庶民の大衆化により、トポス(環境、過去の歴史からの制約)を失って、
数の力による社会となっている。それが現在の民主主義であり、そこには、多様性の寛容を意味するリベラリズムはない。


これからは、オープンな共同体に所属することで、誰しもがトポス(社会的包摂)を得られる。そうすることで、大衆は多様性を寛容できるようになり、健全な民主主義となる。

つまり、
制約を失ったままでは、コミュニティの健全さは保たれず、
新たな制約、つまり双方向のオープンなコミュニティがあることで、
健全さは担保されるということが言える。

息苦しさを感じた人々が求める居場所

2冊の本から共通して言えることは、
制約の多い垂直的なコミュニティのもと担保された不自由な安心が、
情報量の増加、情報や人へのアクセス容易性により、自由は得られたが
心の拠り所となっていた制約条件を失ってしまうことで、不安をもたらし、不健全な社会になってしまった。
それを解決する手段として、
制約の少ない水平的なコミュニティのもと担保された自由と安心を実現するオープンコミュニティが求められている。
しかし、そのようなコミュニティはリアルな世界には当然なかったが、
デジタルな世界でそれを実現するオンラインサロンが生まれ、息苦しさを感じた人々を受容し、熱気を生んでいるのではないだろうか。

デジタルとアナログの境界

最後に、デジタルな世界コミュニティは現在、アナログな世界にも波及してきている。そこで危惧されることは、オンラインサロンがある種の宗教化することで、本来オープンな共同体のはずが、非寛容な共同体となり、社会の分断をもたらしてしまうことである。
そうなると、不自由な世界となり、オープンなはずの共同体のなかでしか安心を得られなくなり、オンラインサロンは息苦しいさを感じるコミュニティと化してしまうのではないか。
共同体の抱える問題は循環し、また新たな形の自由と安心を両立させうるコミュニティがその時代に合わせてつくられていくのかもしれない。