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日本の夢に懸けた画家 〜ファン・ゴッホ〜

この絵は、ゴッホ研究家の第一人者である圀府寺(こうでら)司教授の文庫本「ファン・ゴッホ」の最初の方のページにある「恋人たちのいるラングロワの橋」を再現したもの。現在、実物は背中を見せて、橋の方へ向かう恋人たちの一部分しか残っていない。悪天候のためゴッホがアトリエで仕上げようとしたが失敗作と認め、断片が残るのみである。

ファン・ゴッホという人間の生きざまを端的に知ることができるとても素晴らしい教本とも言える本です。ゴッホの性格、苦悩、そして絵に込められた彼の思想、精神、境遇などが切々と読者に訴えてきます。後年、なぜこれほどまでにゴッホの絵が愛され、ファンが多く、そして脈々と書き連ねられ、人々を捉えているのかは、最後の「おわりに」の章を読むことで深く理解できます。それほどにこのあとがきは秀逸です。


「ジャガイモを食べる人たち」1885年

オランダのハーグ~ニューネン時代の絵は暗い色調のものが多い。特に好んで農民を描いていました。自然主義文学作家ゾラをよく読んでいたようで、その影響がうかがえるようです。ジャガイモの湯気がにおい立つようであり、農民たちは労働した手でそのジャガイモを切ったり、取ったりしており、彼らの生活の真実が描き出されています。


「開かれた聖書のある静物」1885年

オランダのニューネンにいるときにゴッホは実父の訃報を知ります。牧師であった父に準じてゴッホも聖職者になろうとしました。元々気難しい性格であったため、父親の勧めで最初に入った画廊での仕事も長続きせず、その後に聖職者の道を目指しました。しかし、この仕事も途中で挫折、そして絵の道を選ぶことになるのです。
そんな折に父親が急逝します。その半年後に描いた絵が「開かれた聖書のある静物」です。この開かれた聖書とその下にある黄色の表紙の小さな本はどんな関係があったのだろうかと思わざるを得ないほど対照的に描かれています。小さな黄色の本は、ゾラの「生きる歓び」です。そして開かれた聖書は亡くなった父親の持ち物であったらしく、古きキリスト教の時代と別れ、来るべき新たな生きる歓びに満ちた世界を対照的に描いたのではないか、とされています。まさに父との別れと聖職者としての仕事への決別が表れており、ゴッホが画家として生きていく決意とも取れます。

「アニエールのレストラン」1887年

ニューネンにも人間関係のもつれから居づらくなり、その地を離れて当然パリへ行き、テオの住まいに押しかけます。この変人の迷惑千万の兄をテオは受け入れ、その後2年間のゴッホのパリ生活が始まります。しかし、弟と同居していたため、この2年間のゴッホの手紙はほぼ存在しておらず、画風に大きな変化のあったこの時代の彼の心情は封印されたままとなってしまいました。
パリ郊外にある「アニエールのレストラン」を描いたこの絵には、オランダ時代と違って印象派の影響を受けたと思われる明るさがあります。しかし印象派とは違う泥臭さが残っており、印象派と一線を画した作品が多く描かれました。またパリで日本の浮世絵に接したゴッホは大きな影響を受け、その後日本を意識した絵を数多く残すことになりました。

タンギー爺さんと広重の亀戸梅屋敷の模写 1887年

パリ時代に浮世絵に出会ったことでゴッホは大きな影響を受けたようです。模写も何点か残されていますが、その中でも亀戸梅屋敷は太い輪郭線によって本作同様力強く描かれており、その後の作風にも現れています。画家たちの優しきサポーターであったタンギー爺さんは、西洋の人物画には珍しく真正面から左右対称に描かれており、背景には憧れの日本の浮世絵が描かれています。パリの2年間でゴッホの作品は大きな進展をしたようです。その後、南フランスのアルルへ移住、ゴーギャンとの共同生活も経験します。

「夜のカフェ」1888年

アルルの「カフェ・ド・ラ・ガール」の深夜を描いた。酔いつぶれているお客や、立ちすくむ白い衣装の男など、居酒屋の退廃的な様子を描いた。

「ラングロワの橋」1888年

ラングロワの跳ね橋の風景を、ゴッホは手紙の中で、アルルの地がいかに透明な空気と明るい自然色に満ちた地であるかと書いています。浮世絵の中で見るのと同じような感覚で見ており、日本のような美しさであると書いています。オランダやパリでは目にすることのなかった鮮やかな色彩の前に心を動かされていたようです。


「坊主(ボンズ)としての自画像」1888年

数多くの自画像を描いているゴッホですが、この絵が日本を意識して描かれたものということは私も知りませんでした。それも僧侶の顔で。
その理由は、この絵を描いた頃のゴッホの手紙に書かれています。「素朴な自然を愛し、兄弟愛に満ちた共同生活をする日本人こそ真の宗教を信仰する人たちである」。そして自身の顔を日本の僧侶に似せた顔として描いたのです。

「アーモンドの花咲く枝」1890年

アルルを離れ、サン・レミに居たときに、ゴッホの後見人とも言える弟のテオに男の子ができました。名前は自分と同じフィンセント。この赤ん坊のためにゴッホは瑞々しい白い花の絵を描きました。ゴッホの作品の中でも異例なタイプの絵であり、生まれたばかりの新しい生命にふさわしい、この上ないプレゼントとなりました。

「ガシェ博士の肖像」1890年

ゴッホの病気はだんだんと悪くなり、療養所もサン・レミからオーヴェール・オワーズに移っていました。主治医のガシェ博士は、自ら絵も描き、画家との交友関係も広く、ゴッホとはすぐに意気投合しました。美術好きのガシェ博士との交流は、ゴッホを孤独から救いました。少したれ目の優しそうな表情を持つこの医者の存在は、孤独と病気と闘うゴッホにとって大きな心の支えとなったことは間違いないと思います。

「オーヴェールの教会」1890年

町にある小さな教会。紫色の夜空と屋根、そしてステンドグラス。教会の前の道は、まるで蜂の巣の周りを飛ぶハチのように整然と描かれています。石造りの教会は、ゴッホの太い輪郭線と相まって、冷たい肌触りと鮮やかな色使いで私たちに迫ってきます。

「鴉の群れ飛ぶ麦畑」1890年

ゴッホの絶筆ともいわれる絵で、麦畑の上を鴉が飛んで行く。「ゴッホの手紙」の中で、小林秀雄はこの絵の前でしゃがみ込み動けなくなったと書いています。キリスト教では、収穫前の熟れた麦畑は、死を間近に控えていることを暗示するようです。自分と同じ名前の新たな生命が誕生し、もはやこれ以上テオ一家に迷惑をかけられないと自身が邪魔者であると分かり、プツンと糸が切れてしまったのかもしれません。1890年7月29日ゴッホはこの世を去ります。そして弟テオも後を追うようにこの世を去ります。残されたテオの妻ヨーによってあの膨大な書簡集が編纂がされ、作品が管理されてきました。

最期に圀府寺(こうでら)教授が「おわりに」で書いているゴッホの存在について引用いたします。
「ファン・ゴッホを他のどの画家とも違う特別な存在にしているのは、その才能でもなければ、「耳切り事件」や「自殺」でもない。彼以上に才能のある画家は山ほどいるし、自殺した画家も少なくはない。ファン・ゴッホを特別な存在にしているもの、それは彼の手紙である。~~現存するものは全部で約900通にのぼる。重要なのは数だけではない。ひとつひとつの手紙は長く、内容も濃密だ。人生に起こった出来事、作品についての考えなどが綴られている。もしファン・ゴッホの手紙が1通も現存していなかったとしよう。私たちはこの画家が何を考えてひまわりや農民や星空を描き、日本について何を思い、家族や友人、知人たちとどう付き合っていたかといったことについて何も知ることができない。ある自画像が日本の僧侶として描かれていることも全く知らないまま、ただ奇妙な顔をした自画像として的外れな解釈をされていたかもしれない。~~1人の人間についてこれほど濃密な情報が得られる資料が残っていること自体、ほとんど奇跡に近い」。

私たちがゴッホの絵を見ることで心動かされるのは、その手紙を長年にわたって編纂してきたヨーにはじまる数多くの関係者の努力があってのことなのです。彼らの努力によって、現代の私たちはファン・ゴッホという人物とその作品を深く理解し、永遠の感動を得ることができていると思います。この文庫本「ファン・ゴッホ」は私たちにそれを教えてくれています。

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