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私を作ったもの、はじめに。

40歳を2年ばかし超えた、今、、遅咲きの狂い咲きとでも言うのか、やっといろんなことに挑戦したくなったり、ちょっと先のことが考えられるようになった。相変わらずマイペースで、日々金欠だし、不安はいつでもつきもので、ただ少しだけ先のことを考えれば考えるほど、過去を掘り返したくもなる。

「間違っていなかった」と証明でもしたいのか? 人間って本当に理屈が好き。過去が今を作って、今が未来を作る。

分かってはいるけれど、いざ目の前にあって、それに集中出来るまでは何かしらのキッカケや集めてきたエッセンス、不確かであっても自信がないと前には進みにくいから。言葉にしてちょっと整理して前に進むための時間を作ってみました。

変な話だけれど今まではずっと「自分の居場所」のことばかりを考えていたなぁ、とか、ふと思ったので。ずっと生きることに必死で、お金を稼いだり、自分の存在価値だったり、、家族構成が歪だったり、まぁ擦ったもんだな幼少期だったので、誰かの目の色を伺っては、その期待に応えられる自分でいようと必死だったな、とか、忙しかったんだよね。

ひとりで生きようと強がってもひとりじゃ何も出来なかったし、もちろん、人間ってひとりじゃ生きられないし、それでも誰かと居ることに安心出来る時もあれば、自分にとって(今思えば)大きなストレスでもあり、共感とかそういうものを綺麗事だと否定しつつ捻くれていたことも事実。

正直に生きていくって体力がいる。だけどそれしか出来ないから、やるしかない、仕方ないからやるけれど、正直な自分が好きなので、諦めるしかない私の人生、、何のこっちゃ?だよね。

5人兄姉妹の4番目。幼くして母を亡くし、ベロベロチュッチュな愛情の思い出もなく、愛されていなかったとは言わないけれど、親心にあまり触れることなく大人になってしまったなぁ、と言うのは事実。

あまりストレスを感じる性格ではないのだけれど、たまに来る「波」に負けそうになるのを堪えている自分がいる、みんなそうなんだろうけれどね。

ややこしくてすみません。

きっとバンコク に来ていろいろ解放されたからかも。娘であること、嫁や妻という縛りや、先生や経営者という肩書き。鎧みたいなものが外れた自由さは、新しい自分?正直に生きていく第2の人生?そんなスタートなのかもしれない。今までの自分を誰も知らない。これって意外とストレスフリーだよ。新しく始めれば良いだけだから。そんな自分の心に少し余裕が出来た、そんな感じ。

さて、本題へ。私を大人にしてくれたのは周りの友人たちです。なので、大きな大きな感謝を伝えたく、ちょっと思い出してはぽろっと泣きつつこれを書いています。

私を作った、上京物語みたいな、青春時代から。

自分の意思とは関係なく、学校やら親の期待もあって入学をしたそれなりの進学高校。結局は高校2年生のときに出会ったHIPHOPに夢中になり、ダンスの月謝を払うために、夜遅くなるからと原付バイクの免許を取ること、アルバイトをすること、ダンススクールに通うこと、初めて自分の「やりたいこと」に対して父に泣いてお願いしたことが今の自分の始まりだと思う。ここで思うことは、納得させるためのプランニングをちゃんとしている訳です。そして、「ダンス用の靴を買うお金をください」とまで、お願いしている自分が居て、思い出すと我ながら笑っちゃう。

父は私に「教師」になって欲しかったらしく、兄や姉がその時代の”ド”ヤンキーだっため、私には道を外れて欲しくなったそう。もちろん反対されたけれど、なんとか納得してくれて、今に至る訳です。お父さんありがとね。

ヨガの先生にはなれたので、あながち父の予想は外れていなかったのかもしれない。

その時代の流行りとでも言うのか、ちょうど時代がダンスブームに。たまたま同じダンススクールに通っていたメンズたちに誘われてダンスチームを作って、それに入れてもらってブレイクダンスなんかもやったりしました。ダンススクールでは必ず一番前の列を陣取ってレッスンを受ける、休みの日はフロアマット担いでストリートで踊ったり、雑誌のスナップに参加したり、ゴールドのネームプレートネックレスを作って、ダボダボなファッションを楽しんだり。

タイミングと自分の勘は外さない!流れに乗ることは多分得意なので、この時この瞬間に生きていたことが今でも自分の武勇伝でもある。ちょうど25年前、、みんなどうしているのだろうか?この時一緒に過ごし楽しい思い出をくれた友人たち、ありがとう。

そこから私はとにかくダンスが続けたくて、すべての誘いを断って高卒と言う選択をすることに。そこからの大進撃はさらに面白くて、そのとき付き合っていた彼氏を都内の専門学校へ行く様に唆す訳です。住むところを確保するため、家賃を浮かすため、卒業式の次の日には東京にいました。もちろんその彼のことが大好きだったし、彼のご両親にも好かれていたと思うし、結局は4年くらいお付き合いして何だかんだあって、お別れしちゃうのですが、彼にはとてもお世話になったし、それはそれは優しかったし、私を好きになってくれてありがとう、と、今でも偶然に会えたら良いな、というひとり。私はこの彼とお付き合いしている期間はずっとパチンコ屋さんでアルバイトを。18歳の私には時給が良かったし、どうやって就職したら良いか分からなかった。パチンコ店の同僚たちや上司も面白い人たちばかりで、お客さんもめちゃくちゃ個性的で、この期間のことだけでも面白い記事が書けるかもしれない。ちょっとだけパチプロ時代もあります。何やってんだ、私。。。のちに、「ありがとう」を自然に口にする優しいお姉さんにちょっとだけ偽装した職務経歴書なんかの書き方を教えてもらって、さらに時給の良い派遣社員となるのですが、東京で出会った友人たちは本当に優しくて良い人ばかりだったのです。出会いはご縁だと思っているから、神様にも感謝しているのですが、引き合わせてくれた友人や、そのまた友人、遠くても近くても、たくさんの友人たちに生きていくルールや常識を教えてもらって、その時の自分は無知で可愛かったな、と思っています。20年以上経った今になってもお付き合いがある友人たちは、とにかく多大なる影響を与えてくれたカッコ良い人ばかりだし、一緒に過ごし、彼らを真似て優越感に浸る自分が居たこと、、今日これを書こうと思ったのは、これからもここにどこまで書き切れるか分からないけれど、私はずっと「ありがとう」の最上級以上の言葉があればそれをそんな友人たちには言い続けたいな、と思ったから。離れていてもずっと想っています。割愛が酷いけれど、気持ちは120%フルであります。

出逢えたみんなが私を作った。 いつも応援してれてありがとう、私も応援していますね。

とにかく20代はいろいろ、あった。あ、30代もかな?まだまだ書き足りないのです、本当に。私の面白い人生、、やれやれ、なんですよ。

そんな訳で最悪であり、未だにどうにもならないお金の価値観について、をまた次回に。ちょっとネガティブな内容を書いてみようと思います。

20代のイケイケな時期に、きちんと就職することもなく自由にお金を稼いでいた私の金銭感覚は崩壊していました、、派遣社員とホステスでそれなりのお金を手にしたもんだから、、、大変でしたね。あまり裕福でない家庭だったし、働いたらお金が稼げると知ってしまったから、大きな声では言えないけれど、若かったし、詐欺まがいもあった。まぁ、今でも崩壊は正せていない。。。(ため息)、、、思い出したら泣きたくなることもあるんだけれど、長くなったので、次回にしようと思います。自分勝手に書くと決めたから良いよね。

では、また。

Y.

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