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杉浦譲顕彰碑 風景印と記念碑

 初代駅逓正を務めた杉浦譲の顕彰碑の小型印をご紹介します。山梨県甲府市の甲府(こうふ)郵便局で1971年(昭和46年)4月20日に使用された「郵便100年杉浦譲顕彰記念」という記念の消印(小型印)です。風景印とは違って、期間限定の消印です。

 日本における郵便事業を起案したのは1円切手にも取り上げられている前島密ですが、1871年の郵便事業実施時のトップはこの杉浦譲でした。前島は英国への出張を命じられていたのです。

 杉浦譲(すぎうら ゆずる 1835-1877)は、杉浦七郎右衛門良尚の長男として甲府に生まれ、幕府の役人に抜擢されます。明治維新後は徳川家に与えられた静岡藩に移ったものの、1870年に新政府に呼ばれ前島とともに郵便創業に携わりました。1877年(明治10年)に内務省で地理局長という立場で地租改正後の調査に奔走し、41歳の若さで病没しています。

 残念ながら杉浦や顕彰碑を取り上げた風景印はありません。

 顕彰碑は昭和46年6月19日に郵便事業100年を記念して、山梨県甲府市の遊亀公園内に建てられています。したがって小型印使用時にはまだ石碑は完成していなかったことになります。

https://kaz794889.exblog.jp/15058762/

 杉浦譲の墓は東京都の谷中霊園にあったそうですが、現在は撤去されています。

https://kasatetu.exblog.jp/9799843/

碑文

 写真より書き起こしましたが、誤り等ありましたらご指摘いただければと思います。

初代駅逓正
杉浦譲顕彰碑

杉浦譲先生はわが国郵便制度の創業に功があった本県出身の偉材である 先生は天保六年九月二十五日甲府城下に生れ 父蘐水は甲府勤番同心として能吏の聞えがあった 先生諱は譲 字は子基 温斎と号した 資性英悟にして文武に長じ 文久元年 江戸幕府に抜擢されて外国奉行支配書物出役となり 遣欧使節に随って渡仏二回に及んだ 明治となるや 一時 旧主徳川家の静岡移封に従い静岡藩庁に仕えたが 新政府の人材を集むるに際して民部省に出仕して駅逓権正となり地理権正を兼ねた たまたま 明治四年三月一日東京大阪間の郵便開設に当つてこれをよく指揮して功をおさめしめた ついで内務省の創設となるや 明治七年一月 内務大丞に仕し 戸籍頭兼地理頭となり 内務卿大久保利通の下で内務行政の基礎確立の枢機に参した 地位はすすんで内務大書記官地理局長となり 精励恪勤 一日として職を空しうしなかった 良吏の範として信望を厚くしたが不幸にして病み 明治十年八月二十二日 職に殉じてたおれた 享年四十三 東京都谷中天王寺の塋域に葬る 盟友田辺蓮舟が先生のために墓誌銘を書き その人となりについて左の如くのべた 真に先生を知るの言葉というべきであろう

 尽瘁鞠躬 生死これを以てす 下に民望に副い 上に所知に報い 命
 の永からざるは 君みずから期するところ はたまたなんで悲しまん

 郵政大臣 井出一太郎題額   大久保利謙撰文 碧堂荒井龍一書

地図

甲府中央(旧甲府郵便局)

 この小型印は現在は使用されておりません。

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