最初から持っていないvs持っているものを失う

私は経済的な話においてほぼ完全にゼロスタートだったわけだが、ゼロから頑張ってイチを作ることに十年くらいの情熱を持つことができた。
しかし、今少なくともゼロを脱却したわけだが、もしもう一度ゼロに陥ったら同じような情熱を持って、現時点まででも頑張ろうと思えるだろうか?と疑問に思う。
なかなか、いわゆる「普通」の暮らしをしていると、ずっとゼロのまま自転車操業(労働賃金の大半を消費する生活)になるので、イチの話というのはピンと来ない人が多いと思う。
その辺の考えをまとめてみたい。

そもそも私が情熱を持ち続けられた理由は、人生の目的は「お金持ちになる」であり、その目的を達成することこそ生きる理由であったためだ。
一方、思い描くお金持ちというのは、高級車に乗っていたり10万や20万のブランド品を持っていたり、あるいは持っている家具がお洒落だったりという低次元のものだった。まぁ多くの人にとって分かりやすい「お金持ち」というのはこの程度の小銭持ちなのだが、実際のところ、お金持ちというのは際限がない。

超お金持ちというと、前澤氏や、孫氏、ビルゲイツなんかが思い浮かぶかもしれないが、このレベルは芸能人のようなもので、雲を掴むような抽象的なイメージになってしまう。というより、彼らがどれほどの金を持って使っているか一般人が具体的に想像できてしまったら騒ぐ人も多いだろう。
ちょうど、王様の生活を農民がそれほど具体的にイメージしていなかったために、農民は生きる最低限の条件さえ満たしていれば反乱が起きにくいことに似ている。
現代でも、政治家の何億円という横領は珍しくはないが、簡単に風化してしまうのは何億円で何をしているのかということが具体的にイメージできないからだ。庶民にとって何億円という金は統計であり、使うならスーパーカーとかその程度しか思いつかないものである。

話は逸れたが、小銭持ちくらいには私はなれたわけで、想像上の目的はおおよそ達成した。「まだ見ぬ世界」と言うが、まさに見たことのない世界に一歩踏み入れると途端にモチベーションとしては機能しなくなる。
例えば、アメリカに憧れていた学生が留学して数か月も経てばそれが日常になり、いくら憧れのアメリカに住んでいても朝起きるのは気だるいし学校に行くのは面倒くさくなるようなものだ。

私が情熱を持ち続けられたのはこのようなまだ見ぬ世界への憧れが忘れられなかったという点が第一であると思う。
そして、今は更なる金持ちの世界ももちろんモチベーションであるが、より経営者らしい経営者を目指して多彩なビジネスをしたり、同列の人と関わったりということがモチベーションになっている。

二つ目が本題なのだが、ゼロであったということが大きい。
ゼロである以上よほどのことがなければマイナスになることはないし、ゼロが継続したとしても、その現状もそれなりに楽しんでいたということもある。
本当に何もかも「ゼロ」な人を「無敵の人」と言うことがあるが、少なくとも経済面では多くの20代が一種の無敵の人である。
実際、ゼロであればその後の選択肢の幅は広い。就職を選んでも構わないし、フリーターになるのも構わない。スキルを身に付けて、フリーランスで気楽に稼いで、あとは趣味に没頭するという選択もできるし、完全に自由だ。
そのようなどうなってもいい的な一種の気楽さがゼロの状態にはある。

しかし、イチになると途端に失う恐怖との生活が始まる。
多くのイチ以上にいる人間が自認しているように、ステップアップすることには運の要素が付き物だ。いくら優れていても運次第ではゼロのままであることもある。そもそも上昇志向を持っていること自体も偶然の要素であり、育った環境によってはいくらでも上を目指せる能力を持っているのにゼロのまま何の向上心も持たず生きているひともいる。(それが不運だとは言い切れないが)

イチ以上の人間は、そのような運の要素を認識しているかどうかに関わらず、失ったあともう一度幸運にも上昇できるかどうかという不確定要素に怯えている。
大抵イチを成すには人の助けが必要だ。偶然にも声をかけてくれた人や支えてくれた人、偶然舞い込んだ大きな取引など、足掛かりは多くの場合偶然訪れる。という話は他の記事でも書いた。

はっきり言って、第一の理由である憧れ的なものはもうモチベーションにならない。高級車に乗っていると多少の自尊心は満たされるが、もはやそれは私にとって当然のことであり、結局私は私であるのだ。そして高級車に乗っていない私というのはグレードダウンした私であり、それは私の強い上昇志向からすると非常に屈辱的なものであると思う。
また、想像上の金持ちに比べて、経費計上を意識するとあまり自由にお金を使えないということもある。個人的な収入が2千万を超えると税金で半分持っていかれるし、配当金(税率20%程)として会社の利益を手に入れても、次は会社にとって配当金は経費にならないのでどの道合理的であるとは言えない。
だから世の中の派手な金持ちは叩けばいくらでもホコリが出るので、目立ち過ぎるのはよくない。高級時計なんて、時計屋さん以外経費にならないので、1億円の時計を買おうと思えば役員報酬4億円は欲しいところだ。それでも2億円しか手元には残らないので手取りの半分を時計に使うことになるわけだが。

よって、金持ちというのは際限がないものの、出来ることには制限が多いという現実を知ってしまうと、金自体がモチベーションになるというフェーズは私の中では旬の過ぎたものであると言わざるを得ない。
ただ、このような思考は本来社会主義国にありがちな問題で、資本主義国であるはずの日本で経営者をしている私がこう思ってしまうのは庶民である官僚の経済感覚で制度を作ってしまった日本の過ちであるのは言うまでもない。
とはいえ、金はあればあるほどいいので、モチベーションの一つではある。要は大きく稼げばいい話なのだ。

そして二つ目については結局イチである今がベース(ゼロ)であるので、イチ以上になれば「マイナスになる可能性がある」ということだ。
このような恐怖心は一種の原動力になる。ビジネスは最初こそ運次第だが、基本的に再現性があるので、とにかく懸命に仕事をすれば不運(コロナやリーマンショック)に見舞われない限り大抵報われる。
一方、マイナスからゼロ(本来のイチ)を目指そうと思うと大変厳しい。そもそも前者のモチベーションを失っているのであれば尚更である。

私は多分、ここからマイナスに落ちた場合、本来まだいくらでも選択肢のある20代であると言われても前者については「ある程度目標とする世界を体験できた」という一種の理由付けができるし、後者についてはマイナスのまま生き続けるのはトータルの効用を損なうと考えられるので、普通にサラリーマン的な人生をそこから選択して生き続けるのは難しいだろう。
まぁそもそもマイナスに落ちる以前に稼げという話なのだが、要はプロスペクト理論は正しいなという話である。



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