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「鬱ロックとは何か」という問いに対する自分なりの答え

最近人に「鬱ロックとは何か」をよく問われる。正直自分も分からなかったので解答に困っていたが、今日自分の中で答えが見つかった気がするので記しておく。
自分が思うに鬱ロックとは、「二分法から逸脱した概念」である。
happinessとsad、光と闇、熱と冷気、loveとhate、あらゆる二項を結ぶ直線の外に位置する概念。
演繹的かつ個人的な考えであるが、鬱ロックに付随する概念であるものを取り上げてもそうであると考えられる。アンドロイドの少女は生命と非生命の呪縛から逸脱するし、dull coreは明暗の区分を無に帰す。鋼鉄の手触りに冷熱は無い。また、鬱ロックにおいてメジャーコードとマイナーコードの区分は無意味だ。

つまり自分自身が鬱ロックになるには、上記のような対立から自分自身が「逸脱」していく事が必要なのだ。その先にあるのは孤独、しかしその孤独はきっととても表面的な孤独だ。その孤独は悲愴では無く、前向きな孤独だ。
誰の手を借りることも無く(誰の、どのような環境の影響を受けることもなく自立した精神で)、例えばloveとhateを結ぶレールから逸れていく。言い換えればloveとhateという感情を自ら一度手放し、その間にある双極性の鎖を絶つ。そうしてレールの外から、純粋な視点から、loveとhateのありのままの姿を捉え直すのだ。対岸にhateが存在しない状態での、ありのままの姿としてloveを捉える(その逆も然り)。
それが鬱ロックという概念の正体なのではないだろうか。つまり鬱ロックとは結果物ではなく手法であり、手続きであり、姿勢なのである。
外見的にはそれが事例によってニヒリズムや無機質な叙事や中道的な思想、或いは二律背反的に映って見えるだろう。
既に上述しているが、誰の、どのような他人や環境の影響を受けることもなく自立した精神で、というのが肝要だ。環境のノイズが入ってしまっては逸脱は困難だ。これはただ他人や環境を信用してはならないという意味ではなく、他人や環境の個としての存在を認識して尊重するというニュアンスに近いと思っている。確かな個として他が存在しているのだから、その干渉があれば己の鬱ロックに雑念やピントのズレが生じるのは自然だ。「あの子」や「少女」という概念を歌詞の中で捉える上で、他の不特定な誰かの目線ではなく自分の目線で確かに捉えるのと同じ原理だ。

長くなってしまったが、簡潔にまとめると鬱ロックとは、自立した精神で二項対立の鎖から事物を解き放ち、個々の純粋な姿を捉え直す営みであり、それを実現するためのプロセス/姿勢である。

追記
・今日幼児がバーバーポールを見て母親に「このうずまきはどこから来ているの?」と質問している様子を見て稲妻のように本文の考えが浮かびました。天啓だと思いました。
・上の画像はあずまんが大王の大阪というキャラクターです。彼女の瞳や思考は正に「逸脱」を体現していて、とても純度の高い鬱ロックであると思っています。

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