見出し画像

競争と共存、原始時代の社会

2020年8月18日

人類が誕生したのは700万年前。文明が誕生したのはたかだか数万年前。人類の歴史を考えると、そのほとんどは原始時代なんですね。
感情というのは、原始時代の長年の人間の経験の蓄積により形成されたものだと言われてるから、我々が文明的な思考よりも、感情に流されがちなのも納得できますね。

原始時代の集団と文明から生まれた共同体の違いについて考えてみました。
原始集団が主に行うのは狩猟。天然資源である獲物を消費するだけのものと言える。対して文明共同体は、農、工、商などを行って、食料や物を新たに生産するもので、持続的に富を再生産できる。だから原始集団どうしは、限りある獲物を奪い合う生存競争をかけた敵であるが、文明共同体どうしは(競争という要素もあるけど)、共存共栄することによって全体の生産を増やすことが出来るので、利益を共有する仲間と言える。
しかし昨今の日韓関係などを見ると、現代の日本という共同体は、共存共栄をはかろうとせずに、潰し合いをする原始集団であるとも思えてしまいますね。

ーー
原始時代のことを考えていたので(暇な奴ですね笑)、その続きを。
障害のある者や能力の劣る者を排斥しようとするのも、原始時代の記憶から来ているように思います。
狩猟を主な生業とする原始集団においては、狩猟の能力に劣る者を受け入れてしまうと集団の獲物の獲得量が下がり自分の分け前が減ってしまいます。毎日が生きるか死ぬかの過酷な生存競争であった原始時代を思えば、有能な集団を構成、維持するというのは死活問題だったのでしょう。

しかし現代の人類の標準的価値観はこれとは大きく変わり「弱者や能力の劣る者を含め全ての人間が安心して幸せに生きられる社会の実現が必要」とされています。これは文明が起こって以降、人類が多くの経験から学び導き出した答えなのでしょう。

1つには科学技術が発達した現代においては、社会を生存競争原理だけにまかせてしまうと、ほんの一握りの強者が富や権利を独占して、残りの大多数は敗者となってしまうと言うことがあると思われます。
18世紀のイギリスで産業革命が起きてブルジョアと呼ばれる特権階級が富を独占するようになったことや、ナチスのような強大な独裁政権が他国を侵略したりジェノサイドを起こしたことなどへの反省があるのだと思います。

もし現代が競争原理至上主義の社会であったらどうでしょうか。アメリカにおいてはビル・ゲイツとウォーレン・バフェットが、日本においては孫正義と柳井正が全ての富を独占して、我々のような凡人は彼らに搾取されるだけの惨めな生涯を送ることになっていたのではないでしょうか。
それ以前にアメリカという超強大国家が軍事力によって他の全ての国を植民地に変えてしまうでしょうから、結局我々日本人は全てビル・ゲイツの奴隷になっていたことでしょう。ビル・ゲイツのようなひ弱なもやしっ子のコンピューターオタクが原始時代に生まれていれば真っ先に集団からハブられていたであろうことを考えると、文明と科学技術の発達というのは恐ろしいものだと思います笑。

大多数の人間が安心して幸せな生活を送れるようにするためには、全てを競争原理に任せるのではなく、社会がそれを緩やかに保つシステムを持つことが必要です。それが累進課税等のような強者から弱者への富の再配分であり、特に弱い立場であるハンディキャップのある者や能力の劣る者に手厚いセーフティーネットを用意することでしょう。セーフティーネットについては、身分制度があった江戸時代などと違い、現代では強者も事故や病気でいつ弱者に転落するかも知れず、その保険と言う意味合いも大きいでしょう。

つまり障害者などの社会的弱者が安心して幸せに生きられる社会の実現というのは、社会の公平性と健全性が保たれていることの証とも言えるのでしょう。