吉野拾遺 下 02 熊王発心ノ事

【熊王発心ノ事】
大夫判官赤松光範が津の国のかためありける時、左馬頭正儀に度々はかられけるを口をしくおもひこめて、過し侍りけるに、去ぬる住吉のたたかひに討たれて失せし、宇野の六郎といひしが子に、熊王といひけるが、まだをさなきとき、光範にいひけるは、「正儀は我が為にも親の仇にてさふらへば、いかにもしてうち侍らん。河内へこへて、正儀に仕へ侍らんにをさなく候へば、などか心をゆるし申さぬことのなかるべき。たとひこころをゆるすことのはべらずとも、七とせ八とせ程も仕へ候はば、そのうちには討ちぬべきたよりの、いかでなからむ。御いとまをこそ給はらめ」と涙をながせば、光範もいとあはれにおもひながら、「をさなければ、敵の国へやらむもこころもとなし。又は命にかはりてうたれしものの子なれば、かたみともおもふべけれ」としひてとどめ給ひけれども、「すこしおとなしくなりなば、よもちかづけ給はじ。をさなくありなん時、参りてこそ」としきりにのぞみければ、ちからおよび給はで、つねに身をはなち給はざりし刀をたまひて、「是にて本意とげよ」とて、阿倍野まで、人あまたそへてやらせけるに。それよりは我にひとしきわらはひとりを具して、赤坂の城にゆきて、そのほとりにたたずみてありけるを、兵庫介忠元が見つけて、いかなる人におはすらんと、たづねられて、「われは大夫光範のさぶらひにて、宇野の六郎といひけるものの小子に、熊王といへるものにて候ふ。父にて侍る六郎は、去にし時住吉のたたかひにうあれて候を、一門にて侍る備後守が、我をおひうちて、領地を奪ひ候へども、光範と心を合せ候へば、せんかたなくて、いかなる寺へもいり侍りて、僧法師にもなり、父のあとを弔ひ候はんがために、さすらへ侍り」といひけるを、あはれとききて、まづわがかたにともなひて、さまざまいたはりて後に、正儀にありつる事をかたりて、「をさなくは候へど、心のさかさかしくて」など申すに、あはれがり給ひて、めしよせ給へり。もとよりなさけある人なりければ、熊王も思ひえうきて、おやのあだをもわすれけるにや、よく宮仕へにいけり。十五程になりければ、河内の国にて、すこしなる所をしらさんといひけれども、「恥ある一矢をもひさぶらひてこそ」とて辞しにけり。あくる年の春、父が七めぐりにあたりけるに、思ひつきて、こよひ正儀を討って、父の手向にもし、光範の心をもやすめ奉らんとおもひたちてありけるに、その日お前にめして、「けふは吉日にてあるなれば、元服せよかし」とて、和田和泉守にもとどりとりあげさせて、和田小次郎正寛と名のらせ、吉野殿より給はせけるよろひを賜ひければ、なみだを袖にかけてよろこぶ。夜に入るまで正儀の御前に在りけるが、又ふとおもひ出でて、討ち奉らんならば、こよひこそとおもひて、ひざをおし直して、正儀にめをかくれば、年比の情け深かりしこと、けふの元服の事などおもひつづけて、いかで情けなく討ち奉らんとおもひかへして、こころをしづむれば、父の敵といひ、譜代の主君のあだといひ、一かたならんればと、おもひさだめれども、何心もなくわたらせ給ふありさまを見ければ、御いたはしくて、たへかねけるにや、広縁に出でて、声をあげてなきさけぶを、人々も正儀もおぼつかなくおもひ給うて、障子をひらき見たまへるに、ふししづめたるさまの、ただには見えずありければ、「いかにや」ととはせ給ひければ、ありつる心のうちを申して、「とにかくに君のため父のために、みづから死なんより外は候はず」とて、刀をとりなほせば、ありつる人ども、みな涙にくれてありながら、「いかでさはあらん」ととりつきて、はたらかせねば、力およばで、その刀でもとどりおしきり、往生院にて形をかへ、君より給はせる名なればとて、正寛法師とぞいひける。寺の傍に、草の庵をむすびて、もしも心のかはることのありもやせんとて、往生院の門の外へは出でずして行ひてありけり。光範より給はせける刀は、ありし有様をくはしく書きそへてかへしけるとかや。いとあはれなりける事にこそ。

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