歴史千夜一夜(5) 壬申の乱と南北朝

 継体天皇の北陸勢力が奈良勢力を滅ぼした紀元500年前後から、100年以上時が経ちます。大化の改新を経て、日本は日本を二分する闘いに突入します。それが壬申の乱です。重要な戦場も関ケ原であり、日本は戦国時代の関ケ原の戦いと壬申の乱の2度もこの地で、後の政権を決める戦いをしたことになります。

 学校の授業ではあまり触れられることのない話なので、どういう話だったのかを説明します。大化の改新で政権を手に入れた中大兄皇子は、紆余曲折あったものの天智天皇として政権を取り、中央集権国家の国造りを進めます。しかし、白村江の戦いで歴史的な大敗を喫して、都を近江に移し、やがて亡くなります。

 その後継者争いをするのが、天智天皇の息子である大友皇子と、弟であった大海人皇子、後の天武天皇であり、その戦いが壬申の乱と呼ばれています。戦いの経緯は、謀反を疑われないように吉野に出家していた大海人皇子が、反旗を翻すのです。

 吉野を脱出した時の人数が20人程度、侍女たち数十人を入れても50人弱の勢力です。吉野を抜けたのが6月24日、伊賀で人数を集め、さらに伊勢に出て人数を集めます。そして27日には、数万の大軍が不破の関に集まります。わずか数日で数万の大軍を集めたのです。そして、近江の大友皇子を破り、自らが政権を掌握して天武天皇を名乗ります。

 日本の歴史を決めたのが同じ関ケ原であり、家康の伊賀越え同様に、天武天皇も伊賀を超えていることは不思議な偶然としかいえません。ともかく、この戦いが日本の新しい流れを作ったのは間違いないことです。

 天武天皇は、天智天皇の中央集権の思想を引き継ぎ、藤原京という都の創建や新しい身分制度の整備などを行います。また、飛鳥浄御原令という法律を制定し、その中で国名を「日本」と呼ぶことや、君主を「天皇」とすることを定めたといいます。また、壬申の乱の時に戦勝を祈願した伊勢神宮を最高の神社と位置付け、天照大神を最高神と位置付けます。そして、天武天皇の妻であった持統天皇が伊勢神宮を造営するのです。

 話は戻りますが、なぜ大海人皇子は短期間に大軍を集めることができたのでしょうか。それは吉野に出家したことに秘密が隠されていると思います。吉野は、この後も歴史にたびたび登場します。山間地で生産力も人も少なく、兵力もあてにできない吉野がです。それはなぜでしょうか。

 現代の歴史観ではあまり理解されていませんが、奈良勢力と北陸勢力との争いが紀元500年前後にあったとすると、ある仮説が出てきます。当時の天智天皇と大海人皇子の兄弟は北陸勢力に所属していたけれど、大海人皇子が生き延びるために奈良勢力と手を結んだという説です。

 天智天皇が北陸勢力なのは、北陸勢力の中心地であった近江エリアに都を移したことからも明らかです。たぶん、兄弟である大海人皇子も同じ勢力だったのでしょう。しかし、彼は大友皇子に対抗するために奈良勢力と手を組んだのだと思います。

 奈良勢力は、トップである奈良王朝が敗れたとしても、当時それなりの力はもっていたと思います。そして奈良勢力の中心が奈良を逃れて、吉野に住み着いていたのではないでしょうか。そして、この奈良勢力だけでなく、東国、当時は尾張氏をはじめとした東海勢力だと思いますが、それを取り込んで挙兵したからこそ、天武天皇は短期間に巨大な兵力を集めることが可能だったのではないでしょうか。そうでないと、吉野に出家した意味も、短期間で兵を集めらえた理由も理解できません。

 東国の話は、これ以降、尾張氏が表舞台から消えるなど別のストーリーがあるのですが、奈良勢力や東国の取り込みの象徴が伊勢神宮ではなかったかと思います。伊勢神宮を祭ることにより、自分が北陸勢力ではなく、奈良勢力や東海勢力を代表する新しいリーダーだと示したかったのではないでしょうか。

 そして、歴史は奈良勢力と北陸勢力の政権争いを引き摺っていくことになります。後の世、南北朝という時代があります。京都を中心とした天皇と、吉野を中心とした天皇が両立した時期です。先程も説明したように、吉野という土地は戦略的にみて何らメリットのない土地です。国力は低く、人も少なく、ゲリラ戦なら可能ですが、まともに政権を取れる見込みのない土地です。そこを拠点に南朝が起こり、日本が二分される時期が続きます。二分されるといっても、北朝が中心で一部に南朝勢力があるといったレベルですが。

 私たちは普通に北朝と南朝といっていますが、それは中国の南北朝になぞらえて南北朝と呼ばれているそうです。でも、本当は北陸の勢力という意味の北朝という意味ではなかったのでしょうか。当時の人々は、実はそれを理解して「北朝」と呼んだのではないでしょうか。当時の人にとって、京都は日本の中央でした。それは現代の京都人の発想の中にも強いといわれます。中央対南でも良いのになぜ北だったのでしょうか。天子南面す、と言われるように天子は北だから、北朝だったとも考えられますが、南朝と呼ぶからには、その解釈は不自然です。それよりも、本当に北の朝廷だという意味の方が理解しやすいと思います。

 あとは想像の世界になりますが、天武天皇の当時、助けてもらう代わりに何らかの密約を奈良勢力、たぶん奈良王朝の末裔たちと行ったことにより、南朝、すなわち吉野の勢力との関わりが出来た可能性があります。ちなみに、天皇家は持統天皇以降伊勢神宮には参拝せず、一時宇佐神宮を重視しましたが、そのあとは吉野にたびたび足を運んでいくようになります。

 もちろん、都からの距離という話もあるのですが、持統天皇以降において伊勢神宮は何らかの意味で禁断の地になり、宇佐神宮も忘れ去られて、吉野だけが天皇家の参拝の地になっていったのではなっていくのです。

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