パラダイス・クリエイト(1)

1. 楽園創造を真面目に考える

(1)パラダイス・クリエイト(楽園創造)

世界が平和になったら、みんなが幸せになったら、豊かに生きられたら、等々、地上天国とか楽園を求める望みはいつの時代にもありました。しかし、人類は未だにそれを実現できていません。これは、そういうことを真剣に考えてみよう、という話です。

結論的な話をすると、だれも真剣にそういうことを考えていないのが問題なのではないか、というのが私の答えです。ですから、そういうことを考え、議論することが大切であり、答えを出すことが重要ではないと思っています。

神は神に似せて人を創ったと言われます。神に似せてということは、人は創造が出来るのです。しかし、だれも真面目に地球を天国とか楽園にすることを考えていなければ、いつまでたっても実現されるはずがありません。そういう意味で、この話は問題提議でもあります。

こういうことを考え、議論することを、「パラダイス・クリエイト(楽園創造)」と呼びたいと思います。宗教とかスピリチュアルをやっている人や、政治をやっている人々は、そういうことを真面目に考えているのではないか、という意見も出そうですが、私は少し違うと考えています。

たとえば宗教の信者の人は、たぶん自分の宗教以外の方法で世界が平和になったとしても、きっと不本意でしょう。政治の人もそうだと思います。自分の政治思想以外の方法で貧困がなくなったとしても受け入れにくいと思います。

パラダイス・クリエイトは、方法論とかアプローチにはこだわらず、世界が平和になったらいい、世界から貧困がなくなったらいい、と思って考え、議論し、活動することです。自分の宗教や政治思想を捨てても、そちらの方が実現しやすければ、それを積極的に受け入れるという感じです。

今から、私なりの実現方法アプローチを述べますが、私もこれにこだわっている訳ではありません。考えや議論のヒントになればという話です。壮大な話でもあり、実現不可能に思える話かもしれませんが、こういう話を真面目に考える、それが最も大切だと思います。

(2)唯一の仮説

宗教であれ、思想哲学であれ、科学技術であれ、何かを考えるにあたっては、その前提条件が必要です。楽園を建設するにあたり、唯一の仮説から始めたいと思います。それは、

「人類の集合無意識が世界を創造している」

ということです。心理学的な学説である集合無意識が本当に存在するかどうかは検証の方法がありませんが、少なくとも潜在意識が人間の行動や状態を作り出していることは、心理学的だけでなく、経験則的に既知の事実といっても過言ではないと思います。

では、今の社会を作り出している主要なものは何でしょうか。私が考えているものの最大のものは、「人間は悪い存在である」というものです。いわゆる性悪説というものです。また「人間は地球にとって害をなす存在である」というものの同じだと思います。

もし、こういう強い想いが集合無意識の中あったとします。集合無意識はこの内容を実現しようとして、人間が悪いことをしたり、地球に害をなしたり、始める訳です。ですから、どんなに良い社会システムを作りあげても、結局様々な問題が起きてしまうのではないかと、私は考えています。

「人間は悪しき存在である」→「人間は素晴らしい、善き存在である」

キリスト教では原罪といって「人はもともと悪しき存在である」という発想がありますが、多くの宗教にその発想が見られます。悪しきとは言わなくても、人は、成長しないといけない、教育しないといけない、管理しないといけない、という発想は、裏返せば「人は悪しき存在である」という話でしょう。

逆に言えば、人がもともと素晴らしい存在であるという発想をベースとすると、成長させないといけない、教育しないといけない、管理しないといけない、という発想はなくなります。こう考えてみれば、現在の社会システムがいかに「人は悪しき存在である」という発想を前提にしているかが分かります。

(3)集合無意識の書き換え

もちろん、それはそれでリスク回避的な良い面もあるので否定はしませんが、しかし集合無意識の中にある「人は悪しき存在である」という想念が、問題を引き起こしている可能性はご理解いただけると思います。もし、それが真の原因であるとしたら、いかに社会システムを作り変えようと無駄ということになります。

人類は、様々な社会システムを作り出して来ました。封建主義、資本主義、社会主義、共産主義等々です。しかし、未だに平和な世界が実現できていません。この辺でそろそろ違うアプローチを考えてみたらどうでしょうか。そして、それが集合無意識から考えるというアプローチです。

集合無意識にある、「人は悪しき存在である」という想いが、「人は素晴らしい、善き存在である」に書き換えることができたら、人はそういう存在に近づいて行くでしょうし、世界は理想世界、楽園に近づいていくでしょう。ここではそういう提案と具体的アプローチ案を提示させていただきます。これは性善説とか性悪説という話ではありません。集合無意識の中のエネルギーをどう変えるかという話なのです。

● 「人は悪しき存在である」

→人は管理、教育しないといけない。

 ピラミッド型社会や組織、教育型宗教や思想等々

● 「人は素晴らしき善き存在である」

→人を管理する必要はない、教育する必要はない

 平等型(機会均等型)社会や組織、信頼型宗教や思想等々

こう考えてみると、現代社会は「人は素晴らしき善き存在である」という前提の社会を構築しようとしながら、実際は集合無意識に「人は悪しき存在である」という想いが強いために、非常に捩じれた形で社会が創造されている、と言えるかも知れません。大切なことは、集合無意識にあるこのエネルギーをどう扱うかです。

私は「シフティング」という手法をお伝えしていますが、その中に「デファイン・シフト」という手法があります。これで無意識や集合無意識の書き換えができます。

(4)社会と組織の変化

「シフティング」は、もともと意識の枠を外す技術として創り出したものですが、意識の枠が外れると、さまざまな可能性が広がります。その一つが「メタ知覚」です。「メタ知覚」という言葉は、汎用語としてはないのですが、適切な言葉がないのでそう表現させていただきます。

人には視覚とか聴覚という知覚があったり、直感的な知覚があったりします。「シフティング」で意識の枠を外すとその知覚が広がります。昔の人がいう霊視や霊聴、いまでいうチャネリングとかいう類いのものです。

そして、メタ知覚を使えば無意識や集合無意識を扱えるようになると思っています。人間、知覚できない世界は扱えませんが、知覚できるようになると操作することが可能になります。そして、いわゆる無意識や集合無意識の世界を知覚して書き換える手法が「ディファイン・シフト」なのです。

しかし、無意識や集合無意識を書き換えただけで世界が変わる訳ではありません。具体的な世界をどう変えたら良いのかの私なりの考え方を後で述べさせていただきます。意識の変化と現実の変化は表裏一体であり、どちらが抜けても片手落ちだと私は思います。

ちなみに「人は素晴らしき、善き存在である」という集合無意識をベースにすると、既存社会や組織、宗教はがらりと変化するはずです。管理しないといけない、という発想が崩れると、ピラミッド型社会は無意味というより、弊害になります。もっとも、全ての人がすぐに変わる訳でもないので、ピラミッド型の変形型になると思います。

よくたとえとして話をさせていただくのが、戦艦と戦闘機と空母の話です。戦艦はピラミッド型の象徴です。ひとつの船で全てを行おうとします。弾薬も燃料も豊富です。戦闘機は、個人や中小組織の象徴です。機動力はあり、戦闘力は高いものの、弾薬や燃料を多く搭載できず、単体では戦闘力を発揮できません。

そこで空母の登場です。空母があることによって戦闘機は、戦艦以上の戦闘力を有します。たとえば、クリエーターなどの個人や中小組織をサポートする新しい組織体ができるイメージです。ファイナンスや人材、そのたリソースをサポートする感じでしょう。そのうち、最初は企業から、そのうち国家レベルで組織の変化が起こっていくと思います。

(5)宗教とスピリチュアル

多くの宗教は、人が悪しきものであって教え導かないといけない、という発想から始まっています。また、スピリチュアルという分野も多かれ少なかれ、そういう発想がベースにあります。魂の成長のために地球という世界で学んでいる、という発想です。何か悪いことをしたら罰を受けるという因果応報、カルマと呼ばれる思想もこれに類似系です。

しかし、これはもともと人間というものが問題のある存在であって、誰かが教え導かないといけないという前提があることに気付いていない人がほとんどです。人間は神であるとか、人間は愛であるとか、人間は素晴らしい存在である、とかいいながら、やっていることは「私(私たち)が教え導いてあげる」という行為であり、潜在意識的には「人間は悪しき存在である」と表現しているようなものです。

善意でやっている分にはまだいいのですが、自己満足や権利の確保、現世的な利益のために宗教をやっている人も多く存在します。自由意志の世界なので、それ自体は否定しませんが、「人は悪しき存在である」と集合無意識にインプットするのは迷惑だと思います。

宗教の果たしてきた役割は否定しません。また、コミュニティとして、相互扶助的な役割としての宗教も否定しません。日本では宗教というと胡散臭いと思う人の方が多いですが、世界的にみると、宗教を信じていないというのは人としておかしいのではないかと思われるぐらい、宗教というものが大切にされている状況も理解しています。

また、既存の宗教団体を嫌い、スピリチュアルな分野に心の平安を求める人も多いでしょう。悟りや瞑想の世界で癒される人も多いかもしれません。さすがにカルト化して洗脳するような話でなければ、スピリチュアルという分野も悪いものではないと思います。胡散臭いと思っている人も多いかもしれませんが。

しかし、根底に「人は悪しき存在である」という思想があれば、宗教であれ、スピリチュアル思想であれ、良くない結果をもたらすと思いますし、不適切だと思います。このように、「人は悪しき存在である」から「人は素晴らしく、良い存在である」への転換は、楽園創造の第一歩であると私は考えています。

(6)学校モデルから楽園モデルへ

スピリチュアルという分野で、地球とか現世を「学校」と例えることがあります。つまり、魂は、この学校で学んで成長していくという発想です。メタ知覚を使って、昔の人が神々とか霊的存在と呼んでいた存在にアクセスしても、そういう発想をもっている存在が多いようです。

これを学校モデルと呼ぶとしましょう。しかし、学校モデルの根底には「人は悪しき存在であり、教え導かないといけない」という前提が暗黙のうちに存在するのです。そして、集合無意識にインプットしている限り、世界は平和にもならず、人々は幸福にもなれません。発想を変える必要があるのです。

「人が素晴らしく、良い存在である」という前提に立つとどうなるでしょう。この世は楽園になるはずです。そして、人は好きなことをして、楽しめばいいだけのはずです。魂を成長させると言われる苦行をする必要もなく、不適切な教育を受ける必要もありません。

もちろん教育は必要です。何もベースがなければ、好きなことも、楽しむこともできません。しかし、管理型や矯正型の教育は不要です。これも「人が悪しき存在である」という発想に基づいていますから。

特に日本は、明治になって富国強兵をする必要性から、労働者を量産するための管理型教育を行ってきました。そうでなくても、教育というのは権力機関が人々を管理しやすくするためのものになる傾向があるのに、輪をかけて管理型になった訳です。こういう管理型、矯正型の教育モデルは、少なくとも集合無意識に悪い影響しか与えないと私は考えます。

このように宗教やスピリチュアルという見えない世界的な視点からも、現実の教育という面からみても、「学校モデル」という発想は弊害が大きくなっています。それよりも、個々人が、好きなことをして、幸福に生きられる「楽園モデル」に発想の転換をしていくことが、最も大切なことではないかと私は思っています。

こういう話をすると、「人間は甘やかすと堕落する」とか、「私たちは今まで散々苦労してきたのに」とか、様々な意見が出てくると思います。色々な想いはもちろんあるとは思います。しかし、世界を平和にして人々を幸福にする、という視点から考えてみていただけたらどうかと、私は考えます。

(7)自己価値

戦争や紛争の時にも言及しますが、様々な問題の根底に大きく関わっているのが、自己価値の問題です。色々なところで説明していますが、自己価値の低下は、現代病だと思っています。では、なぜ自己価値が下がると戦争や紛争につながるのでしょうか。

人間は、自分の自己価値が低くて耐えられない時、自分の外に自己価値を求めようとします。自分の民族や自分の国家です。そして経済などが悪くなるほど、自分が貧しくなるほど、自己価値は低下して行きます。第2次大戦前のドイツや日本のように。そうすると人々は、右翼化していきます。そして、右翼化すると他の民族や国家を敵視しはじめます。全部がとは言いませんが、余裕があるリベラル層は左翼化して、余裕がない低所得者層は右翼化する傾向にあり、それを上手く利用したのはヒットラーでした。

つまり多くの人の自己価値を上げないことには、戦争や紛争の可能性はたかまり続ける訳です。自己価値をあげるには、意識の面と物質的・経済的な面からあげる必要があります。意識の面でいうと、「シフティング」の「ビューシフト」を使うというアプローチがあり、物質的・経済的な面からいうと「ベーシックインカム」というものがあります。

先に自己価値が低いのは現代病だと言いました。それは、現代は価値が多様化して、レベル差が広がり、かつメディアの普及により、多くの人が比較対象になってしまった、という理由があげられます。昔なら、勤勉とか真面目とかそういう尺度で人は評価されましたが、現代なら、様々な面で比較されます。同じ英語が得意といっても、レベルもピンからキリまであります。さらに比較対象が全国、全世界になり、昔なら村一番でも凄かったのに、今なら県で一番程度でも、誰も凄いと思わないでしょう。

ということで、自己価値を他人からは評価されにくい時代になっています。かといって、自分で自分を評価しても、むなしい面もあり、自己価値は下がるばかりです。だからこそ、現代病なのです。そして、合理化やAI化に伴ってこの傾向はさらに強まっていくでしょう。

自己価値が低いことが戦争や紛争の真因であるのなら、ここにきちんと向き合うことは、現代の人々の喫緊の課題だと言えます。


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