歴史千夜一夜(4) 宇佐神宮と道鏡事件

 皆さんは、道鏡事件をご存じでしょうか。弓削道鏡という人物が孝謙天皇の病を治したことから出世して、一時天皇になろうとしたとされる事件です。一般には、女性である天皇を道鏡がたぶらかしたと思われている事件ですが、ここで面白いのはこの問題の決着をつけたご神託が、宇佐神宮から発せられたことです。

 このご神託があったため道教は天皇になれず、孝謙天皇の死とともに失脚するのですが、注目すべき点は、宇佐神宮の信託が天皇の即位を左右する重要な神社だったという点です。ちなみに一般に伊勢神宮が皇室の重要な神社だと思われていますが、持統天皇以降明治天皇まで参拝された天皇はありません。どちらかというと天皇家は吉野に行っているケースが多かったりします。しかし、この時は天皇家の生末が宇佐神宮にゆだねられたのです。

 実は宇佐神宮の正式の創建が725年となっています。もともと祭神である八幡大神(応神天皇の神霊と言われる)が宇佐の地に現れたのは571年とされていますが、現在の地に社を建立したのは、725年になります。そして道鏡事件で神託が降りたのが、769年なのです。

 なんと当時、創立50年足らずの神社の神託で天皇の即位が決定されたのです。それ程、宇佐神宮の影響力は当時大きかったのです。不思議とは思いませんか、これには何か重要な背景があったはずです。

 700年当時といえば、日本が中国を模倣し、中央集権化を進めている時期にあたります。中国と同じように政府や制度を整備し、歴史をまとめていた時期にもあたります。古事記の完成が712年、日本書紀の完成が720年ですので、宇佐神宮はちょうどその時期に創建されたことになるのです。つまり、当時の政府にとって宇佐神宮は、古事記や日本書紀と同様に国家の正当性を示すために建てられたということです。だからこそ、天皇家の即位について口出しできたのではないでしょうか?

 つまり自分たちの祖先が来た地が九州であり、始祖とされる神武天皇のゆかりの地である宇佐を聖地と定めた、という話ではないかと思います。ちなみに、神武天皇を祭るといわれている橿原神宮は、実は明治23年に民間有志の懇願を受けた明治天皇が創建したものです。実は、日本という国は始祖と呼ばれる神武天皇を祭る神社をこの時まで持っていなかったともいえます。

 こここからは私の仮説ですが、もともと宇佐神宮は神武天皇を祀る神社として建立され、何らかの政治的配慮から祭神の名前が変わったのではないでしょうか。宇佐神宮は、全国に約4万6千社にあるといわれる八幡神社の総本山です。八幡神社は、日本で最大の数を誇ります。なのに八幡神社がどういう神かも、なぜ日本で一番多いのかも、未だに分っていません。

 もし、本当は宇佐が神武天皇を祭る神社であり、神武天皇が何らかの理由で八幡大神にすり替えられ、それを信仰した神社が全国に広まっていたと考えると話が通ります。では、だれがそれをすり替えたのでしょうか。

 道鏡事件の前に、藤原仲麻呂の乱というものがあります。たぶん、貴族勢力と天皇+仏教勢力の勢力争いだったと思います。動乱を生き抜いている女性天皇ですから、色恋沙汰みたいな甘い話ではなく、力をつけて専横を欲しい侭にしていた貴族勢力に対抗するのに仏教勢力と手を組んだのだと思います。その仏教勢力の中心が道鏡だった訳です。

 藤原仲麻呂は破れましたが、貴族勢力が負けた訳ではありません。貴族勢力は仏教勢力に対抗するのに陰陽師集団と手を組んだのだと思います。いや、もともと貴族の背後が陰陽師集団だったのかもしれません。

 そして、陰陽師集団の期待を担って和気清麻呂が宇佐に出向いて神託を受けることになります。この和気清麻呂、あとで天皇に睨まれて足の腱を切られて追放されますが、天皇の死後復活して、平安京を創ることになります。風水都市として有名な平安京の設計時は彼が描いたとされているのです。

 もちろん、和気清麻呂が陰陽師だったという公式の記録は残っていません。でも、彼が陰陽師集団の中心人物だったと考えると筋が通るのです。今も宇佐神宮には和気清麻呂の碑が立っています。それは、たぶん道鏡事件の神託に関して立っていると思うのですが、実は他に意味があるのかも知れません。

 なぜなら、宇佐がもし神武天皇の神社であって、それをすり替えることが誰かがやったとしたら、彼しかいないのです。では、なぜ彼が神武天皇のことを隠したのでしょうか。たぶん、それは平安京の造営にかかわる話なのだと思います。

 平安京の霊的背景は比叡山にあります。たぶん、最長が延暦寺を創る前からそうなのだと思います。比叡山は後で仏教の仮面をかぶりましたが、本質は天皇家の霊的な聖地です。だから、別に霊的な聖地があると問題があったのだと思います。もしくは、北陸勢力と九州勢力のバランスの問題だったのかも知れません。そのため、宇佐神宮の祭神を神武天皇から八幡大神(応神天皇の霊)に変えてしまったのではないでしょうか。

 八幡という地には白山神社があり、部落があったという説があります。部落ということは日本の先住民族の人々であり、中央政府から迫害された人々のことです。しかし、奈良王朝と北陸王朝の政権交代があったと考えると、迫害された人々は、実は奈良王朝以前の人だけでなく、滅ぼされた奈良王朝の人々もそうであったのかも知れません。

 そして、八幡神は武士の時代になって、武士の守り神となり復活します。当時の人々が分かっていたかどうか分かりませんが、八幡神が神武天皇であり、日本を創建した英雄だとしたら、武士が崇めるのにふさわしい対象だったのかも知れません。

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