歴史千夜一夜(3) 継体天皇と陰陽師


 万世一系と言われる天皇家ですが、最新の研究によって何回か王朝交代の話があったという説が有力になりつつあります。その中でも継体天皇の時代に王朝交代があったという説は有力です。歴史の授業などでは全く言及されることのない天皇ですが、現在の天皇家の始まりは、実はこの天皇ではなかったかともいわれています。

 継体天皇は、第26代の天皇で在位期間は507年から531年と言われています。なぜ、王朝が交代したといわれているのかというと、その前の武烈天皇がなくなって世継ぎがなく、仕方なく応神天皇から5世の孫の継体天皇を越前(福井県)から迎えて、天皇になったとされます。ひと世代、30年と計算して5代前といえば150年前。今の感覚でいうと江戸時代に姻戚関係だったといっているようなものです。いくら後継者がいないからといっても、そういう人間をわざわざ呼び寄せて天皇にするでしょうか。

 それから、その世継ぎがなかったといわれる武烈天皇の記述も不自然です。武烈天皇は、古事記ではさっと触れられているものの、日本書紀ではかなり悪く書かれています。自分たちの先祖の話を書くのであればいい話を書くはずですが、武烈天皇は暴虐な天皇として描かれています。わざわざ必要もない暴虐の記述をするということは、先の天皇を悪くする必要があったのではないでしょうか。それはたぶん王朝交代があって、それ以前の政権を貶める必要があったということではないかと思われます。また、継体天皇の即位は大阪で行われています。奈良には入れなかったのです。これも、奈良勢力と継体天皇の北陸勢力が戦争状態にあったとすればうなずけます。

 ここからは推測になりますが、初期の奈良王朝は大陸から九州経由で来た勢力だったのに対して、新興勢力は大陸から朝鮮半島を経由して直接北陸に来た人たちではなかったかと考えます。大陸から朝鮮半島、対馬とわたって九州に来るのは距離的にも近く、最初はその流れで来た人たちが多かったのでしょう。しかし、九州に強固な勢力ができると、それを避けて、山陰や北陸に直接行く人たちも出てきたのだと思います。今での、北朝鮮の小舟で北陸に来れることを考えるとあながち間違いではないでしょう。

 要は、大陸から渡ってきた初期の勢力は九州に地盤を固め、東進して奈良に王朝を築き、そのあとの勢力は九州を避けて、山陰や北陸に移住して、北陸で力をつけた勢力が奈良の勢力と衝突したという話なのです。そして、継体天皇の勢力が現在の天皇家の元になりました。この時に血のつながりを残したかどうかは不明ですが、九州勢力ではなく、北陸勢力が日本の中核になったのは事実だと思います。

 ここに少し宗教的な視点を加えてみたいと思います。北陸は実は陰陽師と深く関係しているのです。有名な安倍清明の神社も敦賀にあります。また、あまり検証できない話ではありますが、霊的な処理をすると陰陽師の話が多く出てくるのです。

 陰陽師といえば、最近映画とかにもなり、多くの人が知るようになりましたが、朝廷の中央に仕えて、まじないや祈祷、星読みなどをした人々です。しかし、陰陽道はもともと朝鮮半島の宗教です。それが日本の朝廷の宗教となっていたということです。つまり、日本はどこかで朝鮮半島の宗教をメインにした転換期があったということなのです。

 皆さん、不思議に思いませんか、古神道ではなく陰陽道が政治の中心にあったことを。日本の古来の宗教ではなく、朝鮮半島の宗教である陰陽道が政治の方向を決めていたことを。そして神主などの神道関係者ではなく、陰陽師と呼ばれる人たちが、朝廷の重要な日や方位を決めて、儀式を行っていたことを。

 昔の戦争は、部族と部族の戦争だけでなく、その背後の宗教と宗教、霊的概念と霊的概念との戦争でもありました。そして、戦争で勝った方が負けた方の背後の宗教や霊的概念を封印しました。それは祟られないためであり、その封印システムが神社や寺院だったのです。そういう意味からすると、ある時、陰陽道を背景とする政治勢力が日本の主権を握ったことがあると考えた方が適切だと私は考えています。古代において政治は祭りでしたから。そして、そのターニングポイントが継体天皇の王朝交代だったという訳です。

 北陸勢力は、福井を中心に敦賀や若狭湾を経由して、琵琶湖西岸を通り、大阪から奈良に入りました。当然、その沿線に重要なポイントがあったはずです。当時のものはたぶん残っていないと思いますが、それが後年にあらたに整備されたものは見ることが可能だと思います。それは比叡山です。

 比叡山は、長らく日本の仏教の中心地でした。仏教というと高野山を連想される方も多いかもしれませんが、日本の仏教の中心は比叡山です。それはつぎの2つの点から明らかです。ひとつは、ほとんどの日本仏教の開祖を比叡山が輩出していること、もうひとつは皇族が出家すると必ず比叡山に入ることの2つです。

 平安京が整備されて比叡山も整備されましたが、平安京を設計した陰陽師たちが、単に北東の鬼門抑えという意味でだけではなく、自分たちが来た北陸からの交通の要所に霊的に重要な施設を作ったとは考えられないでしょうか。そして、その重要な施設は陰陽道ではなく仏教という宗教の顔を変えますが、その後、千年以上の時を経ながら、継体天皇を始祖とした天皇家を霊的に守護していくことになるのです。

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