歴史千夜一夜(6) 天海僧正と関東
最近、風水の話が一般にも伝わったので、江戸は京都とならぶ風水都市だと思われている方が増えています。鬼門という方角に日光東照宮や寛永寺などを立てて徳川300年の歴史を守ったということになっていますが、その設計者は天海僧正と呼ばれる僧侶だとされています。
この天海僧正、謎の多い人物で、若いころの経歴があまり明確でなく、晩年、豊臣秀吉の没後表舞台に現れます。そして、家康、秀忠、家光の3代に仕えて、徳川幕府の礎を築きました。前半生が不明なために明智光秀と同一人物ではないかという説も根深くあります。明智光秀の子孫の方が近年明らかにされている本能寺の変の話でもそれを示唆するような話もあり、また神道界の巨人、出口王仁三郎もそういう内容を話したということが伝わっています。
天海僧正が明智光秀だった説に関してはネットなどにも多くの情報がのっているので、ここでは簡単にしか触れませんが、天海僧正は徳川幕府を語る上ではずせない一人であり、そういう意味で、天海僧正と関東に関して少し書いてみたいと思います。
僧侶というと本来は仏教の知識や修行がメインなのですが、なぜか天海は鬼門などの方位を操ります。これらは陰陽師系の知識やノウハウです。また、髪の毛を埋めるなどの呪術的な手法も良く使っています。もともと、骨や髪の毛といった遺品を使って呪術を行う手法は古くから行われてきました。それは、人の遺品には霊力がやどると考えられたからです。
仏教では仏舎利といって仏の骨を収めた塔が重要な意味を持ちますし、例えば鞍馬寺では髪の毛が収められていたり、藁人形に髪の毛を入れるなど、様々な呪術で使われてきました。実は上野公園には、天海の髪の毛を祀った場所があります。上野公園は江戸城の鬼門にあたりますが、その場所にわざわざ自分の髪の毛を供養しているのです。こういう呪術を行うのは陰陽師か陰陽師に類する人々だと思われます。
天海は、陸奥の国、東北に生まれたといいますが、比叡山で修行しています。比叡山は、北陸王朝系の陰陽師集団の拠点でした。そして、その場所に明智光秀の所領である坂本もあったのです。天海と明智光秀は、同一人物説が出るほど共通点はあるのですが、年齢面で同一と考えるには無理があり、現時点、同一人物とは見なされていません。しかし、この比叡山にいた陰陽師勢力の近しい仲間だったらどうでしょう。色々な共通点が理解できるようになると思われるのです。
明智光秀と天海僧正が同一人物とされる理由に、日光に明智平という地名があったり、日光東照宮に桔梗紋があったりします。天海僧正が明智光秀と同一人物でなくても、明智一門みたいな意味合いだったら理解できます。また、家光の乳母である春日局と天海があったときに「お久しぶり」と挨拶しているのです。初めて合う人間に「お久しぶり」と挨拶することはないと思いまます。春日局は、明智光秀の重臣斉藤利三の娘なのですが、この斉藤利三は本能寺の変で全軍の指揮を取ったといいます。その春日局と旧知の仲とすれば、明智一門であればいいわけです。
あと明智光秀と天海の筆跡が極めて似ているという話もあります。もし、その明智一門というか、明智グループが、似たような筆跡をもってグループで活動していたとしたらどうでしょうか。陰陽師集団が最初は光秀を表にだし、途中で殺されたと見せかけて表舞台から降ろして、途中から天海という僧侶が表舞台に立ったという形です。
この陰陽師集団、明智グループというか天海グループは、ひとりや二人ではなく、もっとたくさんいた可能性もあります。よくある忍者集団のようなグループだったのではないでしょうか。天皇家を守る忍者という話は、小説とかのモチーフにありますが、その陰陽師や僧侶版みたいな人たちです。もちろん天皇直属というより、天皇の取り巻きの藤原氏などの貴族のエージェントみたいな存在だったのかもしれません。
もちろん、当時は貴族も金銭的に困っていたので、そういう集団が上からの指示というよりも、自分たちの利害関係で動いていたのかもしれませんが、とにかく、そういう集団がいたと考える方が自然だと思います。その後、徳川家は天皇家や貴族階級に接近していくことになりますが、織田信長が室町幕府や朝廷折衝のために明智光秀を重用したように、徳川家康も同じように天海を裏で朝廷工作に使っていたのかも知れません。
そして天海は徳川家康の信任を得て、風水都市江戸の設計にかかります。当時、陰陽道というより、仏教という形態はとっていましたが、呪詛的なものを多く利用しています。鬼門封じだけでなく、上野公園に髪の毛を祀ったり、平将門の首や骨を祀ったりしています。首や骨なんてものは、普通はあんな形で祀られる訳がありません。平将門の首塚なんて江戸城の大手門のすぐそばにあります。ああいう気味の悪いものは、普通は将軍に不敬だといって、遠くに置くのが普通でしょう。実際、江戸整備の時に場所を移された神社は数多くあります。わざわざ江戸城の近くに置くのであれば、呪術的意味合い以外にないと思います。そして、その都市設計を指揮したのは天海、もしくは、明智グループ、天海グループという集団だったのだと思います。
ちなみに、江戸には不動明王や明神といった仏が多く祀られています。日本の仏教の流れからすれば、奈良仏教から、平安時代の密教を経て、鎌倉時代に浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、禅宗という流れになっています。密教の寺院は関西、それも京都中心にもかかわらず、江戸にはなぜか不動明王とか明神という仏が、いわゆる結界的な要素として祭られています。これは天海グループが、比叡山集団の一員であり、そのノウハウを利用したと考えると筋が通ります。そして、関東の地霊というか地元の人間たちが信じていた関東の神々を、不動明王とか明神とかに変えて、封印していったのかもしれません。
比叡山の北、高島市に水尾神社という神社があります。現在でも社長とか、長のつく人の参拝が多い神社だそうですが、ここに徳川家が寄進しているのです。江戸とか徳川家のゆかりの土地ならいざ知らず、琵琶湖西岸の歴史的にもあまり知られていない土地にある神社に、なぜ徳川家が寄進しているのでしょうか。もし、徳川家の霊的ブレインである天海グループが、呪術的な意味で徳川の繁栄を祈る場所を比叡山の近くに作ったのかも知れません。
比叡山の陰陽師グループは、その後、江戸300年の歴史の闇に消えていき、再び表舞台にたつのは明治維新以降となるのです。
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