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5-3 赤ちゃんと母

 話は戻るが、アロマスクールの特別講座で、産婦人科医の池川明先生と「胎内記憶」の話を知った私は、自分自身の妊娠が分かると胎内記憶の本を読み漁った。当時住んでいた地域の図書館にあった池川明先生の著書は全て借りて読んだ。夢中だった。それと同時に、母のために自然療法の勉強もして、アロマの勉強もしていたから、本当に自分自身、妊娠しながら一体どうやって時間を回していたのか不思議である。多分、家のことはほぼ旦那がやってくれていたのだろう。記憶がなくて、ごめん、旦那。ありがとう、旦那。

 池川明先生の本には、現代科学では到底説明できない胎内記憶の話が、筋道だって分かりやすく、ある意味理論的に書かれていた。非科学的なことを理論的に説明しようとする本も何冊か読んだことがあるが、どれも途中で理論は破綻しており、最後は力技で「だって私はこう思うんだもん」と結論が出されており、がっかりすることがよくある。でも、池川先生の本は、私には、最後まで筋道だった説明がなされているように感じた(非科学的ではあるけれど)。だから、私は、「これは本当の話なのだろう」と思った。旦那も一緒に本を読んだが、同じ意見だった。


 「赤ちゃんがお腹の中のことを覚えている」と分かると、気になるのは当然お腹の中の我が子。この子も、今、お腹の中から外を見ているのかしら。何か感じているのかしら。「お母さん、大好きだよ」と思ってくれているのかしら(笑)。そう思うと、愛おしさ倍増である。「お腹の中でも外界の音は聞こえており、妊娠中お父さんがお腹に向かってよく話しかけてくれた赤ちゃんは、お父さんの声を覚えて生まれてきて、お父さんにもよく懐くケースが多い」と知った旦那は、毎日寝る前、お腹の中の我が子に向かって子守歌などを歌っていた。おかげで、我が子に懐かれ過ぎて、くたびれ気味である。

 ちなみに、第二子妊娠中は、当然お腹に向かって歌を歌ってやる時間などなかったが、それでも生まれてきた息子は父親に懐きまくっている。第一子の時、あんなに頑張らなくても良かった。

 私はお腹の中の赤ちゃんが可愛くて可愛くて、おしゃべりしたいと思うようになった。「胎動のキックで、胎児と会話ができる」という話を知り、挑戦もしてみた。最初は全くタイミングが合わなくて、「本当なの?」と疑ったが、段々タイミングが合うようになり、「私の話に合わせてお腹を蹴ってくれたとしか思えない」ということが増えてきた(親ばかフィルターがかなりかかってます)。

 性別は何となく、「女の子かな」という感じがしていた。旦那も、そんな感じがしていたという。「そろそろ性別が分かるかな」という頃の検診で、超音波検査を受けると、お腹の赤ちゃんは股を広げて見やすい状態でいてくれた。まるで、「私、女の子だよ」とお知らせするように。それがまた、コミュニケーションが取れているようで嬉しかった。


 「お腹の赤ちゃん、女の子だよ」と教えると、母はまた喜んでくれた。いや、男の子でも間違いなく母は喜んだのだが。お腹の赤ちゃんが女の子だろうが男の子だろうが、父親似だろうが母親似だろうが、母はいつでもその成長を喜んでくれた。しかし、お腹の赤ちゃんの成長と反比例するように、母は衰弱していった。

 生まれようとする命と、消えようとする命。

 私はその両方に、寄り添っていた。

 毎日、「大きくなったね」という喜びと、「弱くなったね」という悲しみの連続だった。

 それはまるでジェットコースターのようだった。私の感情は、毎日喜びでてっぺんまで登ったり、絶望でどん底まで落ちたりした。

 「妊婦は穏やかな気持ちで毎日を過ごしたほうが良い」と言われ、なるべく平常心を保とうとしたけれど、それは土台無理な話だったのだ。


 私は「母に孫を抱かせてあげたい」ということしか頭になかった。恐らく、「孫が大きくなるところを見せる」ことは無理だろうとは分かっていた。でも、赤ちゃんをその胸に抱かせることはできるかもしれない。その希望にすがらないと、私は自分の気持ちを保つことができなかった。

 そのため、私は自宅アパート近くの産院ではなく、実家に一番近い産院を予約した。普通里帰り出産は、母親に産前産後を助けてもらうためにするのだろうが、私の里帰り出産はそういう目的ではなかった。一刻も早く、産院から母の入院する病院へ直行する勢いで、産むのだ。当時の私は、もうそれしか頭になかったので、産後の生活の大変さとか、想像することもできなかった。まして、「産後鬱」なんて…。もちろん、「母が出産前に亡くなったらどうするか?」なんて可能性は、頭からはじき出されて考えもしなかった。

 産院も予約した。予定日が2月頭だったので、年末年始あたりに帰る予定でいた。少しずつ、赤ちゃんグッズも揃えていった。楽しみだった。母も、私が「母乳で育てようと思う」などと言うと、「それはいいねぇ」と嬉しそうだった。


 出産予定日を三か月後に控えたある日、検診に行ったら、赤ちゃんのそれは見事にまぁるいお顔の写真が綺麗に撮れた。まるで、「見て見て。私、こんな顔してるんだよ」と見せてくれているようだった。私は嬉しくなって、母にその写真をすぐに見せたくなった。旦那も賛成してくれて、その検診の翌日に急遽有給を取ってくれて、二人で母の病院へ向かった。旦那も、何かを予感していたのかもしれない。

 母は写真を見て、「顔がまぁるいねぇ。優しい顔立ちねぇ」と嬉しそうにニコニコ笑ってくれた。その日はずっと動いていなかったのに、タイミングよく胎動も起こり、母が私のお腹に手を当てた時、「ぽこっ」とお腹を蹴ってくれた。母は「動いとるね」とお腹をなでてくれた。写真も胎動も、後から思えば、娘のばぁばに対する、いや、「母を喜ばせたい」と思う私に対しての、プレゼントだったのかもしれない。

「また来るね」と私たちは席を立った。「気を付けて帰りなさいよ」と母は手を振ってくれた。

それが母と交わした、最後の会話となった。

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