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その日、わたしはカーディガンを持ってきていなかったのに、橋本さんはエアコンの温度を下げた

その日、ギターケースに書かれた「SE」の文字 に、ほんの一瞬だけ橋本さんが唇を動かしたのを、私は見逃さなかった。おそらく笑いを堪えたのに違いない。

PRS(ポール・リード・スミス)のSEシリーズだ。

彼女はいま、私の背中のギターケースの中で、名家のお嬢様のごとくお行儀よくしている。SEカスタム24。何を隠そう私のファーストギターである。

SEとは「スチューデント・エディション」の略で、PRSのラインナップ中では廉価モデルに位置づけられる。PRSのギターはどれも高価で、安くても30万円を超えてしまうのだが、カルロス・サンタナの「学生でも買える価格帯のギターを」との要望に、創設者のポール・リード・スミスが応え、誕生したのがSEシリーズというわけだ。

私はこれをリサイクルショップで手に入れた。2015年製のシリアルナンバーをヘッドの裏側に刻んだそれは、税抜価格で5万8千円。隣にはフェンダージャパンのストラトキャスターが、4万2千円で鎮座ましましていたが、いつだって私は親がすすめるいいひとより、少しだけ残念なひとを選んでしまうんだ。彼女がPRSの皮を被ったカスだったとしても、走り出した心はもう誰にも止められない。

「PRSって、クルマでいうとマツダだよね」

よく聞き取れない声で橋本さんは言った。

「はあ」

そうだとするなら、ギブソンがトヨタでフェンダーが日産ということになるだろうか。いや、逆か。というか、ホンダとスバルはどうなんだろう。思ったけれども返さなかったのは、橋本さんの声があまりに小さすぎて、ひとりごとのようにも受け取れたからだ。

橋本さんとはミュージック・スクランブルを通じて知り合った。インターネットのメンバー募集の掲示板だ。2年前、みんながflumpoolやRADWIMPSや和楽器バンドを出すなかで、橋本さんはマイ・ブラッディ・ヴァレンタインとスロウダイヴとライドを挙げていた。ギター歴は20年だが、5年程ブランクがあるという。ライドの下にはスワーヴドライヴァーとキャサリン・ホイールの名前もあった。

最初は簡単な曲をコピーしながら、ゆくゆくはオリジナルをやっていきたいという。日本のバンドではCruyff in the bedroomとLuminous Orangeとスーパーカーを挙げていて、ドラムとベースとボーカルを募集していた。私が少しだけギターも弾けることを伝えると、それならギタボにして、2台のギターでいこうということになった。ドラムとベースはまだ見つかっていないので、とりあえずふたりで音合わせだけでもしてみようとスタジオに入った。

最初に合わせたのはtoddleの「a sight」だったと思う。橋本さんはフェンダージャパンのジャズマスターを所有していて、toddleのなかではベタなJ-POPといえなくもないこの曲を、ディレイとリバーブをガンガンに使ってサイケデリックに仕上げた。ドラムとベースは打ち込みで、モニターから聴こえてくるのは、必要最低限のリズム音だったが、橋本さんのギターが1本加わっただけで、それらは息を吹き込まれたみたいに、スケールのでかい音楽になった。

一方、私のギターはガタガタだった。完璧に覚えたつもりのコード進行は曲が始まったとたんにぶっ飛んだ。家では押さえられたはずのコードが何故か押さえられないという現象にも見舞われた。パニクっているうちに歌詞も飛んだ。あたふたしながら辛うじて弾けたのは最後のジャーンだけだった。

それでももともと初心者レベルであることは伝えているので、次の曲では少しはリードしてくれると思った。けれど、つまずいても引っかかっても途中で止まっても、橋本さんは放置プレーであった。次の曲も、そのまた次の曲も、橋本さんはひとりでどんどん先に進んで、ときどき首を捻りながらアンプのつまみをまわして、それでまたどんどん先に進んで、なんだよだったら最初からひとりでスタジオ入れよ!と言いたくなったが堪えた。

「あの、トイレ行ってきていいですか」

「はい、どうぞ」

背中を向けたまま橋本さんは答えた。ぜんぶの言葉は相変わらず聞き取れなかったが、首の動きがおそらくそう言っていた。

「では、失礼」

振り返ると防音ガラスの向こうでは、182センチの長身を持て余すみたいに、猫背に橋本さんがギターを弾いていた。運動嫌いといいながら細マッチョなのは、ジムで体を鍛えているからだ。何年か前に久々にレスポールを取り出したとき、重っ!と感じたのがきっかけだそうだ。仕事じゃマウスよりも重たいものは持たないから、何もしないでいると腕の筋肉が落ちていくと、いつだったかは忘れたけれど語っていた。

便座に腰かける。そういえば大昔に試食販売のアルバイトをしていたとき、用もないのにトイレに行って、あーあ早く終わんねーかなと、天井を見上げていたことがあったっけ。スマートフォンでミュージック・スクランブルを検索すると、そこには20数件の新規投稿があり、これだけあればひとつくらいは趣味が合いそうなものがあってもよさそうなのに、そこにはやっぱりflumpoolやRADWIMPSしかなく、諦めにも似た境地で私はスマホを閉じるのだ。

「戻りました」

「それじゃあ、もう一回、a sightからいこうかな」

橋本さんは呟いて、シーケンサーの再生ボタンを押した。そうしてまたギターを弾き始めた。私はおざなりにピックを持つ手を上下に振った。橋本さんのギターのリフの陰で、SEカスタム24がカチャカチャと鳴っている。名家のお嬢様には申し訳が立たない思いであった。

「なんかこの部屋、暑いね」

「いいえ、別に」

「エアコン入ってるかな、あっ、いちお入ってる」

そう言ってリモコンを手にした橋本さんは、エアコンの温度を一気に10℃下げた。私はその日、ノースリーブのシャツを着ていて、カーディガンを持ってきていなかった。このひととバンドを組むのはやめようと思った。

夜になって断りのメールを入れるか、それともこのまま音信不通にするかを考えていたとき、橋本さんからメールが届いた。

「ドラム加入希望の方からメールが来ました。滝沢市在住で30代の女性だそうです。YouTubeの音源を送ってくれたのでURLを送ります」

フーミンだった。のちに私たちコフィ・コーディネートのドラマーになる、あのフーミンだ。URLをクリックすると、キング・クリムゾンの「21世紀のスキッツォイド・マン」を猛烈な熱量で叩く彼女がいた。橋本さんに断りのメールを入れるのは、もう少しあとにしようと思った。

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