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「アンブローシア・レシピ」第28話(終)
1914年10月6日(6) ロンドン
「あ……れ……を」
ジェーンは首が動かないのか目だけを動かして声を出す。しばらくすると毛布の間から骨と皮に近い状態の指先が震えながら出てきた。
「ジェーン? どうしたの?」
恋人の反応にキャスパーが慌てる。どうやらジェーンがいまのように喋ることは珍しいようだ。
「もしかして、あれを持って来て欲しいのかい?」
キャスパーが耳元に顔を寄せて尋ねると、ジェーンの瞼が頷くように一度だけ閉じられた。
「これはなんというか、ここまで病が進行すると手の打ちようがないな」
ジェーンの病状を目で確認したプリーストが残念そうに首を横に振る。
「そうですね。あの薬でもこの病の進行を抑えられなかったのですね」
ウェインの言葉の意味がミリセントにはわからなかった。
それはバートランドも同じだったらしく、首をかしげている。
「ジェーン。持って来たよ。これでいいのかい?」
キャスパーはどこからともなく箱を抱えて運んできた。
古びた鉄の箱に木箱、本、鍵の四つだ。
「あ……あ……」
ジェーンが指先をウェインに向ける。
「え? 彼に渡すのかい?」
キャスパーは慌てた様子でジェーンとウェインを見比べた。
対するウェインはますます嫌そうに顔をしかめる。
「兄さん。どうやらご指名のようだよ」
プリーストが困惑するウェインの肩を叩く。
「これは、僕が所属しているフリーメーソンに長らく伝わっている物で、錬金術師が作った霊薬を精製する道具だそうだ」
キャスパーはテーブルの上に散乱している物を手でどけると、運んできた道具を置いて説明する。
「ジェーンはこれをずっと探していたんだ。この道具で精製した霊薬を彼女は手に入れたがっていた」
「これは、どうやって手に入れたんだね?」
プリーストが尋ねると、キャスパーは目を伏せた。
「勝手に持ち出した」
「ほう。それは、盗んできたということかね?」
「これはジェーンの手に渡るべき物だったんだ。それを、フリーメーソンが勝手に奪って隠し持っていたんだ。僕はジェーンの物を取り返しただけで、盗んだわけではない」
強い口調でキャスパーが反論すると、プリーストは「やれやれ」と首を横に振った。
「物は言いようだが、随分とこちらのご婦人に誑かされてしまったようだね」
「うるさい。使い終わったら返せばいいんだろ。それに、これで霊薬として効果がある物が精製できることを証明できれば、僕がこの道具を持ち出したことなど問題なくなる」
キャスパーが言い訳を繰り返す。
「そんなことより、これをどう使うんだ? 早くしろよ!」
苛立ちを滲ませてキャスパーが叫ぶ。
プリーストが「兄さん」と呼びかけてきたので、ウェインは仕方なく道具に手を伸ばした。
「僕は、この道具の操作方法を話に聞いているだけで、実際に使ったところを見たことはないんですよ。大体、僕が不器用なのは所長が一番ご存じでしょう? 失敗したら取り返しが付かないのに、どうするんですか」
恨めしげにウェインはプリーストを睨む。
「やるしかない……他に操作方法を知っている者はいないんだからね」
最後はぼそぼそとプリーストはぼやく。
ミリセントにはその会話の断片しか聞こえなかった。
「まぁ、いいですよ。――ミリィ。母さんの祈祷書を出してくれないかい」
「え? 祈祷書?」
急に声をかけられたミリセントは、慌てて鞄から祈祷書を取り出し兄に差し出す。
「ありがとう。こっちの祈祷書は必要ない」
ウェインはキャスパーが持って来た祈祷書をバートランドに放り投げた。
そして、ミリセントから受け取った祈祷書を開くと、間に挟んであった薄いガラス板のような栞を取り出す。
赤い半透明のその栞にはびっしりと文字が彫り込まれている。アルファベットらしき文字だが、英語ではない。
かつてウェインは、ラテン語でおまじないが書いてある、とミリセントに説明してくれたことがあるものだ。
「これが、本物の処方箋」
ウェインは栞をキャスパーに見せた。
「といっても、これで薬を量るだけだよ」
一番下の大きな手提げ金庫を開けると、親指ほどの大きさの薬瓶を出した。
「この薬瓶の中身、まさか当時のままではないでしょうね」
ウェインは隣に立つプリーストに小声で尋ねる。
「当時のままじゃないのかね? 中身をすり替える者などいなかったはずだが……そういえば、一度だけ件の錬金術師が持ち出したという話があったな」
「なるほど。この瓶の薬剤が減ってるような気がしますね。もし彼がこれを使ってみたのだとしたら……そもそも、百年以上前の材料を使って精製した物に効き目があるのかどうかが怪しいのだけど。腹を下して死にそうですね。それに、こんな色だったかな? まさか変色したとか?」
「ワインなら、百年くらいは余裕だろう」
「湿度と温度が管理された場所に保管されている物と一緒にされても困るのですが、まぁ、やるだけやってみましょうか」
ぼやきながらウェインは小さな木箱の中央に彫った文字の部分が上になるように栞を置くと、窪みに薬瓶の中身を少しずつ入れていく。瓶の中身は砂鉄のように黒光りする粉末だった。
「こぼれとる」
プリーストの指摘に、ウェインは眉を上げる。
「代わりにやってくれます?」
「嫌だ」
慎重に薬を文字の溝の中に入れ終えると、そのまま木箱の蓋を閉めた。そして、金庫の中に入れる。
「これで鍵を閉めて」
ウェインは鉄製の小さな鍵を金庫の錠の部分に差し込んだ。そして二度回し、カチッと音をさせた。
「あとはこのまま5分待つと精製される、と聞いています」
鍵が閉められた金庫は微動だにしない。
「この装置、かなりの骨董品だから正しく動くかどうかは保証しませんよ。精製に失敗したら、それはこれが古いからであって、僕の操作が下手だったわけではないはずですからね」
腕時計で時間を確認しながらウェインはジェーンとキャスパーに向かって念押しする。
「兄さんでも操作ができるように、単純な動きになってるって話じゃなかったかな」
ウェインの横に立ったプリーストがぼそぼそと耳打ちする。
「そのはずですけど、僕の不器用さを十分理解してくれていたとは思えないような装置ですね」
腕時計を睨みながらウェインはぼやく。
「動いているの?」
ミリセントが尋ねると、ウェインは緊張した様子で顔をしかめた。
「どうだろう……最初から壊れていたなら、薬の精製はおこなわれない」
「壊れているってどういうことだ?」
それまで息を飲んで様子をうかがっていたバートランドが尋ねる。
「そのままの意味だよ。これは100年以上前の物だから、キャスパーがここまで運ぶ間にどこかにぶつけたとか、落としたとかで壊れたり、その前に誰かがぶつけたり落としたりしていないとも限らないんだ」
金庫の外側にはさびがある。中も同じようにさびている可能性があった。
「こんなからくりみたいなややこしい装置を作った意味がわからない」
ウェインがぼやいている間に、カチッと音が響いて勝手に手提げ金庫の鍵が開いた。
「でき、た?」
ミリセントはウェインの背後から装置をのぞき込む。
「できた、と思う」
断言はせずにウェインが恐る恐る金庫を開けて、中から小指ほどの小さな試験管を取り出した。
中には血のように赤い液体が入っている。
「これが……『アンブローシア』?」
プリーストが声を震わせる。
ミリセントは、そもそもなぜウェインがこの装置の使い方を知っていて、プリーストは知らなかったのかが気になった。
「――多分?」
どうやら、ウェインもできあがりがどのような物なのかは知らなかったらしい。
彼は箱の中からさきほどの栞だけ取り出すと、ミリセントの手にある祈祷書の間に挟み込む。
「これは大事な物だから持って帰るのを忘れないで」
ウェインは妹が祈祷書を鞄の中にしまうところをしっかりと確認した。
「なんか、不気味な色だな」
バートランドが眉をひそめる。
(あれ? この匂いは……)
兄の手元にある『霊薬』から漂ってくる匂いに、ミリセントは既視感を覚えた。
「神饌処方箋の『林檎 二個、薔薇の実 五粒』で始まり『天と地、光と闇、深淵から掬い上げし運命を放り込み火蜥蜴の爪でかき混ぜる』で終わる文言は、この言葉を彫った栞の溝に薬剤を入れて量るためのものだ。言葉そのものには大した意味はないから、いくら処方箋の内容を解析したって霊薬は作れない」
プリーストはキャスパーに向かって淡々と告げた。
「処方箋の文言は量りとしての役目しかなかったんだ。さらに、量りとしての役目を気づかれないようにするための細工として、処方内容をガラス板に文字として彫った栞に仕立てた。ところが、処方箋の内容そのものに意味があると勘違いした人々が、処方箋の写しを解読して霊薬を調薬しようと考えた。モーガンもそのひとりだった」
残念そうにプリーストは呟く。
「所長、なんでそんなに詳しいんだ?」
バートランドが尋ねると、プリーストはふっと鼻で笑った。
「聞いたらなんでも答えが得られると思ったら大間違いだ」
「――あ、そう」
答えたくない、の一言をやたらと回りくどく言われたバートランドはため息をついた。
「はい、どうぞ」
ウェインはキャスパーに小指の爪ていどの分量の薬をさしだした。
「これが、君が求めていた薬かどうかはわからないが」
キャスパーは言葉を失った様子で手を震わせながら試験管を受け取る。
「その薬、飲むの? 塗るの?」
ミリセントが興味本位で尋ねると、プリーストが「服用する薬だ」と答えた。
「原液だから、希釈する必要があるんじゃないかな?」
ウェインが言うと、バートランドが目を剥く。
「なんであのからくりの使い方を知ってるお前が、服用に関しては適当なんだ!?」
「いや、でも、本当に知らないんだ。そもそもこれって本当に飲んで大丈夫なのかもわからないし、責任も持てない」
慌ててウェインは言い訳した。
「僕はこのからくりの使い方しか聞いてない」
「ちゃんと服用方法も聞いとけよ」
バートランドが声を荒らげると「聞いている」と声が響いた。
発言したのは、キャスパーだった。
「このままでいい。これで、いいんだ」
虚ろな目で試験管の中身をしばらく見つけていたキャスパーは、それをあおって口に含んだ。そしてそのまま、ベッドで横たわっていたジェーンに口づける。
口移しで『アンブローシア』を飲んだジェーンの喉がわずかに動く。
「あぁ……これで……」
ジェーンの唇が動き、しわがれた声が漏れる。
「あ……り、が……」
彼女の目尻から一粒だけ涙が零れた。
キャスパーは黙ってジェーンを見つめている。
しばらくすると、黄疸のような症状が出ていたジェーンの肌の色が白くなり始めた。黒髪にもいっきに艶が戻ってきた。痩せこけていた身体にすこしだけ肉が戻ってくる。開いた目の澱みが消える。
「え? さっきの薬が効いたってこと?」
兄の背中に貼り付いたまま、ミリセントはジェーンを凝視して声を上げる。
「薬は効いた。ただし、魔法のように病気が一瞬で治ったわけではない」
ジェーンを観察していたプリーストが告げる。
「死ねなかった肉体が……死ねるようになっただけだ」
「先生の言ってることがよくわからないわ」
ミリセントは兄にしがみつきながら呟くと、バートランドも同意する。
「俺もまったくわからない」
一方のキャスパーはじっとジェーンを凝視している。
光を宿したジェーンの瞳が声に反応するようにゆっくりと動く。
「『アンブローシア』が効いた? これは、彼女が望んだ状態になったということか?」
ぶつぶつぼやきながら血走った目でジェーンの様子を確認していたキャスパーは、次の瞬間には額から脂汗が流れ始めていた。顔からは血の気が引いており、手足ががくがくと震えている。口を片手で押さえながら呻き声を漏らす。
「キャスパー!? どうした!?」
バートランドが近づこうとしたが、プリーストに制止された。
「さきほど口に含んだ霊薬のせいだろう。あの紛い物の霊薬は普通の人間が服用していいものじゃない」
「紛い物!? 所長はわかっていたのか!?」
目を吊り上げたバートランドがプリーストの上着の襟を掴むのと、ミリセントが悲鳴を上げるのが同時だった。
「キャスパーさん!?」
叫ぶミリセントの声に反応して、バートランドとプリーストが視線をキャスパーに向ける。
同時にウェインは咄嗟に妹の頭を抱えた。
「ジェーン! 僕以外を見るな!」
机の上に置いてあった料理用ナイフを掴んだキャスパーは、それを振り上げると一気にジェーンの心臓に突き立てる。
バートランドとプリーストは息を飲み動きを止めた。
肩で大きく呼吸をしたキャスパーは、滝のように流れる顔の汗が飛び散るほどの勢いで力を振り絞ってナイフを抜いた。
ジェーンの寝間着の左胸が血で染まり、口の端からも血が零れた。
「なに? どうしたの?」
ミリセントは兄に頭を抱えられたままじたばたともがくが、誰も答えなかった。
「兄さん。嬢ちゃんを連れて外に出ろ」
プリーストが顔をこわばらせたままウェインに指示を出す。
「わかりました。あとは任せますよ」
ウェインはミリセントを抱きかかえて視界を遮ったまま、ずるずると妹を引っ張るようにして玄関へと向かう。
「ファラディ、君も一緒に行け」
「いや、しかし……」
声を上擦らせたバートランドが真っ青になりながらキャスパーの様子を窺う。相手はナイフを掴んで身体を震わせており、次にどのような行動に出るかまったく予想ができなかった。
「儂は大丈夫だ。兄さんほどではないが、そこそこ頑丈だ。それに……」
プリーストが言うのとほぼ同時に、キャスパーはナイフを振り上げた。そして、彼は自分の首筋に刃を当てる。
「最期を見届けてやるのは儂ひとりでよかろう」
ナイフがキャスパーの皮膚を切り裂き、鮮血が吹き出す。
一気に部屋の中に生々しい血の臭いが充満して、バートランドは吐き気がこみ上げるのを感じた。職業柄、血には慣れているつもりだったが、過信だったようだ。
足から崩れたキャスパーが音を立てて床に倒れ込む。
その身体からどくどくと流れ出る血だまりで靴が濡れそうになり、バートランドは後ずさって玄関へ向かう。
「水曜日、あなたは相変わらず人誑しだな。しかし結局、儂の師匠だけがあなたに靡かず、あなたが欲しかった物を譲ることはなかった」
プリーストは瞳から光が消えているジェーンに向かってささやく。
「最初から、師匠が日曜日様から受け継いだ賢者の石を秘めた祈祷書を奪う計画だったのでしょう? あれさえ手に入れれば、霊薬が完成せずともあなたの病は全快し、あなたの弟は生き返るはずだった。残念でしたね」
その言葉を聞く者は誰もいなかった。
「もう、あの祈祷書は新たな持ち主が決まってしまったんですよ」
キャスパーの家の玄関を出たところで、ウェインはようやく抱えていたミリセントを離した。
息が詰まりかけていたミリセントは軽く咳き込んでから兄を見上げる。
「ねぇ、ウェイン。さっきの薬だけど、あの薬と似た匂いを子供のときに嗅いだことがあるなって思ったの。あれって、ずっと前に先生がわたしにくれた飴と同じ匂い……」
「しっ」
ウェインは妹の口を人差し指で押さえた。
ちょうどバートランドが真っ青になって玄関から出てくるところだった。彼の外套にはかすかに血の臭いが染みついている。
妹の腕を引いてウェインが歩き出すと、よろけながらバートランドも黙って付いてくる。
西の空に、雲の隙間から沈みかけている太陽が見えた。
「ミリィは子供の頃のことをよく覚えているね。でも、あれは事故当時のことだから、忘れていいんだよ」
「忘れたくても忘れられないわ。あのとき先生がくれた飴の匂いと味が変だったとか、ウェインが血だらけだったこととか、最後に見た父さんと母さんの顔とか」
「ミリィ……」
「あのときの父さんと母さんの顔がずっと記憶から離れなくて、それで、父さんや母さんが本当はどんな顔をしていたか思い出せなくなってしまったわ」
「でも、覚えているのもつらいだろう?」
「うん……しばらくは思い出さなかったんだけど、さっきの薬の匂いで思い出しちゃった」
「それは、申し訳ないことをしたね。でもさきほどの薬と所長の飴は別物だよ。あのときの飴は、所長お手製の元気になるおまじないがかかった物だよ」
どう説明するべきか一瞬考え込んだウェインが、当たり障りのない言い方をする。
「別にウェインのせいじゃないわ。わたしはウェインと一緒にあの事故から生き残ったから、父さんや母さんがいたことはちゃんと覚えておこうって思ってるの。わたしが忘れてしまったら、もう、わたしの家族を思い出す人はいなくなってしまうから」
「そうだね。僕が覚えているのは……名前と誕生日だけだからね」
「ウェイン、いつか死ぬ?」
「あと50年後くらいには死ぬかな。老衰でぽっくり逝けたら幸せだな」
「そりゃあ幸せな死に方だ」
バートランドが外套のポケットに手を突っ込んでぼやく。
「ミリセント、一ポンド貸してくれ」
ポケットから取り出した煙草の空箱を握りつぶしながら、バートランドはもう片方の手を差し出す。
「煙草を買いたい」
「わたし、甘い飴が食べたい」
鞄から財布を取り出しながらミリセントが言う。
「あそこに雑貨屋があるよ。まだ開いてるんじゃないかな」
通りの角にある明かりのついた小さな店をウェインが指し示す。
夕暮れのひんやりした風が強く吹いて、三人から血の臭いを取り払った。
【了】
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