アライさんの手――吉田秋生『海街diary』のこと

 吉田秋生の『海街diary』(全九巻、小学館、二〇〇七―二〇一八)で最も印象的な登場人物は誰か。
 そう尋ねられて「アライさん」と、実際に答えるひとはひょっとすると少数派かもしれないが、仮にそう言ったとしてことさら異議を唱えられることは――まあ、奇を衒ったなとは思われかねないにしても――案外ないような気がする。未読のままこの文章に目を通してくださっている奇特な方のために説明しておくと(そもそもどんな話かについては申し訳ないですが各自お調べください)アライさんというのは、物語の軸である鎌倉の香田家四姉妹のうち長女・幸が勤める市民病院の後輩ナースである。それで何が印象的かというと、このアライさんというひと、基本的に常に不在なのだ。

 彼女の存在が初めて言及されるのは第一話の終盤。幸たちが父親(姉妹が幼い頃に母親と離婚、その後再婚して山形の旅館で働いていた)の葬儀に出席するため赴いた山形からの帰りの新幹線のなか、夢でも働くワーカホリックな幸が寝言で「アライさん!早くして!」「アライさん!なにぼさっとしてんの!」と叱責する場面であった。そんな幸の様子を見て、妹たちはとりあえず「アライてナースは使えんヤツらしい」ということを確信する。そしてこれとほぼ同様の構図がその後も反復される。つまりアライさん自身がいないところで、そのダメさ加減ばかりが読者に印象づけられていくのだ。
 こうしたアライさんの「不在」が印象的なのは、ただ単に本人のいない場所で悪口が言われがちというだけではなく(その場合、彼女の不在それ自体は正当ということになる)、むしろ多くの場合いまここにいないこと自体が問題になっているからだと思われる。アライさんは大体いつも探されている――大袈裟にいえば現前を待望されている。ゆえに彼女はゴドーの系譜に連なる存在である……とはさすがに言いすぎかもしれないが、いずれにせよこの「いるべきときにいない」という点が、彼女の存在(というか不在)に独特のオーラを与えていることは確かだろう。必要な折に見つからず、いたらいたでミスをする。挙句の果てには「アライと組むとやったら(容態が)急変(する患者)が出るんだよね」「やっぱあいつなんかツイてんのよ!」などと、ほとんど言いがかりに近い愚痴さえ繰り出される始末である。ところがほかでもないこの縁起の悪さが、マイナス一辺倒だったアライさんへの評価を転換するきっかけとなる。
 上記のジンクス通り急変が重なったある夜のこと、一人の患者をアライさんとともに看取ることになった幸は事後、そこで目にした彼女の「意外」な一面を同僚たちにしみじみと語るのである――「(亡くなった)佐伯さんがまだ生きてるみたいに話しかけながら/ひとつひとつの処置がものすごくていねいなの」。そしてこの一件について幸は後に「典型的なダメナースだと思ってたんですが/患者さんの安全にかかわるようなミスは絶対しません/ひょっとしたら彼女は…/「とても大切なこと」とそれ以外のオン・オフがあまりに激しくて/不器用なだけかもしれない」とも分析している。「そしてその「とても大切なこと」は/案外間違ってない気がするんです」と。
 おそらくはこの気づきゆえに、幸はのちに新しく設立される緩和ケア病棟への配属が決まった際、ともに異動するメンバーとしてアライさんを推薦する。もっとも、その後もアライさんは依然としてミスを連発し、大抵いるべきところにはいないままだろう。それでも前述のエピソードはすでにして物語における彼女の立ち位置を――それまでは仕事に厳格な幸の性格をコミカルに描写すべく叱責の対象として用意されたスケープゴートに過ぎなかったところから――決定的に変えてしまったと言わねばならない。そのことは幸のアライさんに対する見方を揺さぶるもう一つの出来事において、今度はその不在自体に「意外」な意味が見出されていることにも明らかである。
 あらましはこうだ。あるとき緩和ケア病棟に入院している患者がアライにつきそわれて散歩に出たまま一時間以上も戻らず、家族との面会時間になっても現れないという事件が起こる。その場ではいつもの「アライさんあるある」かのように半ばギャグタッチで流されるのだが、しかし後日その患者が幸にこう述懐する。すなわち死を控えた彼は、自分を心配してくれる家族の想いに感謝しつつもどこか気兼ねするところがあり、アライさんが「もうちょっと桜見てましょうかって言ってくれた時つい甘えちゃっ」たのだと。そして幸は、そうした患者の心の機微に自分が気づけなかったこと、何よりもアライさんがそれに気づいていたことにショックを受けるのだった。
 他人の死、あるいは死に向き合う他人(当人の死であれ別の誰かの死であれ)といかに向き合うかが次第に物語の主題として次第に浮かび上がっていくなかで、幸はこの一件を長く心に留め、もとより頑固なところのあった自らの考え方を変化させるひとつの契機としていく。つまりアライさんは一度もそこに居合わせることのないまま、またも大袈裟に言うならばまるで神のごとく、主人公たちの生き方に「意外」な深度で介入しえたことになる。
 
 ところが最後の最後で彼女はとんでもない「ミス」をする。といってもそれはもはや物語内の出来事ではなく、ひょっとすると彼女自身を責めることはできないかもしれないのだが――要するにアライさんは(大方の予想に反して)現れてしまったのだ。

 ここで問いたいのは以下の三つである。1.アライさんはなぜ現れなかったのか。にもかかわらず2.なぜ最終的に現れたのか。しかし3.その「現れ」は本当に現れと言ってよいのか(最後の問いの意味についてはのちほど説明する)――これらについて、順に検討していこう。

 まず一つ目の「なぜ現れなかったのか」について。私が『海街diary』を読み進めるなかで最初に「喰らった」のは、人間に対する作者の好悪のあまりの露骨さだった。いや、露骨というのは適切な表現でないかもしれない――なぜなら作者である吉田秋生は決して自分の嫌いな(あるいは少なくとも自らの倫理において理解しえない)タイプの人間をあからさまに悪として描くような品のないマネはしていないからだ。具体的には陽子さん(四姉妹の父の再婚相手)や幸らの母親(末っ子のすずだけは生みの親が違う)のことだが、彼女らは端的な「悪」ではない。結果として残酷なふるまいをなしうるとしても、その原因が彼女らの邪悪さに帰責されることはなく、ただ自分のことで精一杯なあまり他人を平気で傷つけてしまう弱さと鈍感さゆえのこととされる。こうした作者の態度はたしかに「大人な」ものだが、しかしそれをすなわち優しさと解釈できるかは微妙である。少なくとも私には、そうした筆致の自制が作者の彼女らに対するまなざしの冷たさをむしろ際立たせているようにみえてしまってならない。
 実際、本作の登場人物がみな一様に「察しがよすぎる」こと、反対に「察しが悪い」人物の扱いが冷淡であることについては、以前ある方が明敏に指摘されていた(https://topisyu.hatenablog.com/entry/umimachi_diary)。もっともそこで挙げられていたのは香田姉妹三女の千佳や、すずと同じサッカーチームに所属するマサのことで、彼らは先述の陽子さんらに比べればまだ作者に赦されていると言うべきである。つまり鈍感さがひとしなみに断罪されるわけではなく、それなりのグラデーションはあるということだ。
 しかしながら――主人公たる姉妹の一員・千佳はともかく――マサについては特に後半、同じくすずのチームメイトにしてその恋人ともなる風太がどんどん良い男になっていくのとは対照的に、精神的な未熟さと不甲斐なさばかりが目立たされていくようである。とりわけ大会の初戦で風太がPKを決め、次の試合でマサが失敗するのをほとんど同一の構図で繰り返しているのはかなり意地の悪い描写だと思う。中学生男子という属性ゆえ辛うじて「愛すべきバカ」の枠に収められているものの、おそらく吉田秋生はともすれば彼を嫌いになりかねなかったという気がするのだ。そしてその感情をギリギリで押し留めたのもまた、陽子たちに対するのと同じ作者の「大人な」自制だったのだろう。とすると、赦されたはずのバカに対して閃く一瞬の冷たさと、責められるべき愚かさを悪魔化の手前に留める優しさとはほとんど同じもので、両者のあいだにあるのは程度の差にすぎないということになる。
 この「程度の差」が思った以上に危ういバランスのうえで保たれていたことは最新作『詩歌川百景』(既刊一巻、小学館、二〇二〇―)からも窺われる。同作は『海街diary』の主人公姉妹たちの父親が終の棲家とした山形の温泉地を舞台としており、また物語自体にも連続性があるのだが、ここでは陽子さんたちと同種の愚鈍さがよりはっきりと、ほとんどそれ自体が邪悪さとして描かれているようだ。また『海街』のすずが陽子さんの存在にただ自分を押し殺して戸惑うことしかできなかったのに対し、『詩歌川』ではヒロイン・妙を母親(おおよそ陽子さんと同種の人間として描かれる)に敢然と立ち向かわせている。この違いは吉田秋生自身『海街』における人間描写の煮え切らなさに何らか思うところがあったのではないか、そしてそのことへのある種の贖罪をモチベーションとして『詩歌川』を描き始めたのではないかという想像を喚起するが、いまは踏み込まないでおこう。ここで重要なのは要するに、描かれた愚鈍さはやがて憎まれざるをえないということだ。したがってもしアライさんが一人の登場人物として実際に描かれてしまったとしたら――彼女の「意外」な魅力は、おそらくここまで純粋なインパクトをもちえなかっただろう。その美点と表裏一体のダメさ加減が作者をいかんともしがたく苛立たせ、その真価を描かれるに至りえなかった可能性は十分に考えられる。そのことを吉田秋生は予め漠然と感じ取っていたのだと思う。すなわち描かれた瞬間に自分はアライさんを愛すことができなくなる、しかしアライさんは物語にとって最後まで愛し抜かれねばならない存在なのだと。

 ところが先述のとおり、アライさんは唐突にその姿を現すことになる。
 最終話、ある日の緩和ケア病棟。亡くなった患者に幸が「お疲れさまでした/無事やりとげられましたね/窓をあけましょうか/天気もいいし/風が気持ちいいですよ」と――かつてアライさんもそうしていたように――まるでそのひとが「まだ生きてるみたいに話しかけ」ている。そのさまを見てふと手を止め微笑む一人のナース。それがあのアライさんだということは前後の流れからほぼ確実である(なぜ「ほぼ」なのかは後述する)。したがって彼女の微笑みは、何よりもまず死者を前にした幸のその振る舞いがほかならぬアライさんとの対峙を通して体得されたものであることを想起させると同時に、あたかもアライさんが幸を文字通り影から見守り続けてきたかのような感慨を読者に与える。先ほどの大袈裟な物言いを踏襲するなら、見えざる神がついに降り立ち慈愛の笑みを見せたというわけだ(もっとも物語内の立ち位置としては幸の後輩ナースにすぎないのだから先輩の所作を余裕の笑みで眺めるなど単なる不遜でしかなく、実際「アライさん!/見てないで手動かす!」と即座に幸から叱責を受けている)。
 したがって二つ目の問い「アライさんはなぜ現れてしまったのか」とは要するにこのシークエンスにおける彼女の現前の必然性を考えることに等しいのであって、その答えはごくテクニカルな水準で与えられるだろう。というのはつまり、幸の語りかけが決して答えることのない死者に向けられたものである以上、それが読者に理解可能なものとして提示されるためには作品内の誰かがそれを見守っている必要があったわけだ。そしてその「誰か」はなりゆきから言っても当然、アライさんをおいてほかにはありえなかった。
 このことは、少なくとも当の一場面を成立させるうえでの要請としては充分に理解しうるものだ。しかし作品全体にとって、なおもそれが正当か否かは必ずしも自明ではない。
 この現れを最初に「ミス」と呼んだことからも明らかなように、少なくとも私自身はアライさんが現れるべきではなかったという感想を抱いた。例えば次のエピソードを思い起こしてみよう。先述の(彼女が桜を見に連れていった)患者が亡くなったとき、アライさんは例のごとくその場にはいなかったのだが、逝去を知らせた同僚に「知ってる」「けさお別れ言いに来てくれたから」と返事したのだという。この出来事が一種神秘的な響きを帯びるのは、しかしアライさんが不在であり続ける限り、そしてその限りにおいてのみなのではないだろうか。つまり表象可能な存在へと収まった瞬間、彼女のささやかな「霊感」など、それ以前のあらゆる「意外」な美点とともにすぐさま陳腐化してしまうように思われるのだ。

 しかし、ではほかにやりようはあったのか。一つの戦略として考えられるのはアライさんの手だけを描くに留めることである。実際のこの場面では鼻先から腰元までが正面観ではっきり描かれていた――つまり目からうえはコマの外に見切れていたわけだが、それでも「黒髪・ミディアムショートの女性」という、キャラクターとして彼女を識別するに充分な特徴は与えられていたと言える。他方、手はそれ単体で独立した個性が認められるということが基本的にない。したがって、もし手の演技だけで同じ効果(死者に対する幸の語りかけを、アライさんが彼女にもたらした成長として、そこに至る月日の流れをも読者に想起させながら描き出す)を示しえていたならば、そのほうが望ましかったのではないだろうか。それに、実はここまでにも一度だけアライさんの手は描かれていたのだ。それは彼女の「意外」な一面が初めて明かされたときのことで、亡くなった患者に対する丁寧な処置について幸が回想しているその背景に当のアライさんのものと思われる手が、上方からすっと差しのべられていたのである。
 私はこのことを故意に隠していたわけではない。単純にそれを「現れ」としてカウントしなかっただけである。そしてそうしなかったのはごく自然な感覚に基づくもので、だからもし最終回においても彼女の現前がその手許だけに留まっていたならば、おそらくアライさんは私にとって一度も現れなかったことになっていただろうことは間違いない。

 とはいえ、この私の判断に一片の恣意性も紛れていないかというと、もちろん決してそんなことはない。鼻先までが描かれればそれは「現れ」で、手だけならばそうは見做されないという区別の根拠はどこまでも直感的なものに過ぎないからだ。そこから、私たちは第三の問いへと導かれる。すなわちその現れは本当に「現れ」といえるものだったのか。
 先ほど示唆しておいたようにそもそもあの「黒髪・ミディアムショートの女性」がアライさんであるという完全な証拠は存在しない。例えばその「女性」はまず幸や師長とともに遺族にお辞儀をしている後ろ姿で描かれ、同じ構図を取った隣のコマにおける師長の「じゃアライさんお願いね」というセリフから彼女がアライさんなのだと私たちは推測する。だがそのとき師長の言葉を受けた「はい」という返事の吹き出しが女性の頭部をちょうど覆い隠しているうえ、その吹き出しには発話者を明示する「シッポ」が付いていないため、それは文字通りの「推測」にしかならないのである。
 また、女性の鼻先から下が描かれるのはその次のコマだが、それを前のコマで「アライさん」と呼ばれている(と思しき)女性と同一人物と見る私たちの判断は、マンガというメディアの約束事に従えばそうするのが妥当であろうという経験則にのみ支えられている。しかも極めつけに、そのシークエンスの最後で幸がアライさんを叱って「見てないで手動かす!」と言うコマにはただ開け放たれた窓だけが描かれており、叱責の対象が果たしてあの女性であるのかはまたもや定かではない。
 分割されたコマのなかに描かれる複数の図像を私たちはいかにして単一のキャラクターとして認識するのか、というマンガ表現論上の根本問題をも喚起する仕方で、吉田秋生はこのようにアライさんの現れを、実のところかなり微妙にコントロールしていた。もちろんそうだとしても私は、そして多くの標準的なマンガ読者はそれを「現れ」としてカウントすることだろう。しかし吉田秋生の凄みはこの巧みにチューニングされた現れを、不在に書き換える――とは言わないまでも、ある独特な、ひょっとすると新しい現前の様式へと事後的に意味づけ直している点にこそ見出される。というのも、その後、同じく目許を明かされない人物がもう一人だけ現れるのだ。
 それは『海街』を『詩歌川』へとつなぐ「番外編 通り雨のあとに」に登場する、大人になったすずである。そこにおいてすずの目は帽子の陰になって最後まで描かれることはない。またアライさんのときと同様、それがすずであると完全に証明する符丁はなく、散りばめられたヒントからほぼ確実にそう推測されるにすぎない。こうしたありようは番外編の冒頭を『詩歌川』の主人公となる和樹(陽子さんの産んだ長男であり、すずの義弟)の顔のアップが飾り、またヒロイン・妙の初登場がいかにも「お披露目」といった風情の印象的な正面カットなのとは対照的である。成長したすずの姿はどこか不穏な仕方で、私たちから遠ざけられる。それはすずがすでに物語から退場してしまったことの徴であり、彼女はあたかもそこにいながらにして不在であるかのように見える。
 
 現前と不在のあいだを揺らぐこの奇妙な現れを「亡霊的」と呼びうるならば、このときすずは一体の幽霊である。そしてアライさんもまた――私たちが彼女を神になぞらえてきたのはやはり少々大袈裟で、物語の内と外をつなぐ敷居に立たされた存在という意味において「幽霊」と呼ぶほうが適切であったのだ。もちろん言うまでもなく、これは「アライさんは実はすでに死んでいた」というオカルティックな深読みとは無縁の、いわばメタレベルの話である……そう念押ししつつ、こうした媒介者的な存在様態こそが彼女にあの「霊感」を授けていたのではないかとも一方では考えたくなってしまうのだが、いずれにせよこんなふうにベタとメタ、物語の内と外といった次元の差異を撹乱する者としてアライさんは『海街』に住まっているわけである。

    *

こうして最初は明らかな「ミス」に見えたアライさんの中途半端な現れもまた、彼女の数々のミスと同じくその真価は後から見出されるのだった。つまりそこにいるともいないともいえない不安定さそのものが、彼女の――「幽霊」としての――正しい在り方であることを、私たちは事後的に知ることとなった。この点を作者・吉田秋生の手腕に帰するなら、全く見事というほかない。だがそれは、原理的には誰もが持ち合わせているはずの愚かしさと聡明さとが等しく愛をもって抱き留められるためには作者によって人間であることを禁じられねばならなかった、ということでもあるのではないか。

 だとすればそれは少し、寂しいことのような気もする。


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