さくらももこにおける「工夫」の概念

タイトルはなにやら立派だが、そんなたいそうな話ではない。さくらももこの『神のちからっ子新聞』にはときどき片隅に「工夫しようのコーナー」なるものが載っていることがあって、私はそれがものすごく好きだ、というただそれだけである。しかしここにこそ『神のちからっ子新聞』の――あるいはさくらももこという特異な感性のひとつの本質が光っているのだと、これは贔屓目かもしれないが、どうしても思ってしまうのもまた事実なのだ。

ではそこで紹介されている工夫とはどんなものかというと、例えば「大豆3個」「茶封筒1枚」「20円切手1枚」を用意して、その「封筒に、大豆3個を入れ、封をしたあと、切手をはる」。あるいは「ちり紙1枚」と「ポリ皿1個」を用意し、「ちり紙を丸めてポリ皿の上に置く(水3滴をかけてもよい)」。あるいは「納豆 スプーン一杯」「おちょこ一個」を用意して「納豆を、おちょこに入れ、それをさかさまにしてテーブルの上」に置く……。

無意味である。少なくとも実用的な意味は明らかにないのだが、にもかかわらず「工夫」と堂々名指されていることによって、さらに呪術的な意味さえも無効化される。こうして完全な無意味が生成される。だが――ここが重要なところで――それは無意味であることに安住し続けることもまた、できないのだ。なぜならそれはどこまでも「工夫」の結果だから。そしてその「工夫」を生み出したのは(的外れな)ひらめきと(無駄な)ひたむきさと(独りよがりな)よかれと思う気持ちの、いっそ不気味なまでにつましく人間らしい迷走にほかならない。それは、しかしまさしく彼女の笑いが常にいとおしんでいたものではなかったか。

さくらももこにおける「工夫」の向こう側には、それゆえ『ちびまる子ちゃん』のあの見慣れた風景が幻視されねばならない。それは黙りこくった無意味ではなく、いまにも意味を言い出そうとする直前の、あくまでも束の間の絶句にすぎないのだ。さくらももこの笑いを試みに「バカバカしさ」の肯定と定義してみるなら、彼女は「工夫しようのコーナー」において、未だ「笑い」か「狂気」かの分岐に至る手前の――いわば生(き)のままの「バカバカしさ」を現出させようとしていたのかもしれない(あるいは『神のちからっ子新聞』自体をそのようなものとして見ることもできる)。

ちなみに、さくらももこの連作短編集『神のちから』所収の「あたらしいちからの巻」のなかに「もしかしてキミは10年程前なべおさみがトイレを工夫するのに凝っていた事実を知っていたのかね?」という(ほとんど無意味な)台詞がある。トイレを工夫する(しかもそれに「凝る」)なべおさみ――このイメージこそ、さくらももこにおける「工夫」の概念がそなえるひとつの特権的な象徴であるということができるだろう。


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