こんなのメンヘラじゃない、と思うことについて

蒼木スピカ『乙女怪獣キャラメリゼ』(KADOKAWA、二〇一八―)というちょっと変わったラブコメがある。公式の表現を使うなら「感情の高ぶりに呼応して」体の一部が怪獣に変化する奇病を抱えた主人公の少女が、かっこよくてやさしい男の子と急接近したことをきっかけに、とうとうまるごと巨大な怪獣に変身するようになってしまう話だ。
一言で「感情の高ぶり」とはいわれているが、それは必ずしも単線的に測定できるものではない。たとえば手をつないだことで心拍数があがるというようなわかりやすいトリガーもあれば、まっすぐな言葉で好意を示されたときにそれまで荒ぶっていた尻尾がむしろすっと消えることもある――と思ったら次の瞬間、急に大怪獣になってしまうのだけど、それも含めて恋するひとの心模様の複雑さをちゃんと保ったまま、それを「怪獣になる」というカリカチュアへと落とし込むバランスが巧みな良作だと思う。

ところでこの作品には、本筋とはほとんど関係ないものの少しばかり注目に値するディテールがあって、それはクラスメイトたちが主人公(極力ひととかかわらないように生きてきたせいもあり学校では孤立している)を「メンヘラたん」と蔑称していることである。
このことがなぜ興味を引くかというと、たしかに主人公は一定の生きづらさを抱え、うまく馴染むことができないこの世界に呪詛をぶつけることもあるけれど、厳密な意味で「メンタル」に何か問題を抱えている(人物として表象されている)ようにはどうしても見えないのだ。少なくとも作者は彼女のキャラクターを「メンヘラ」として設計してはいないと私は思う。人気者の男の子がふと漏らした自虐に対して発せられた「そーゆー半端な態度は人を傷つけるぞ(…)お前に行為を抱いてる奴らに失礼だ」というセリフなど見るにつけ、むしろ驚くほど精神的に安定し成熟した人物だと感じる。

少女を怪獣に変貌させるのはたしかにメンタルの動揺だが、でもそんなことをいうならあらゆる恋愛マンガの主人公はみな「メンヘラ」ということになってしまう。もちろん敢えてそう言い切ってみる戦略もありうる。かつて大森靖子さんが「世の中の彼女という存在は全員メンヘラ」だと言ってみせたのは、まさしくそれによって蔑称としての「メンヘラ」を逆説的に無効化するという感動的なまでの切れ味をもったステートメントだった。

しかし今回はもう少し別のことを考えてみたい。

明らかに「メンヘラ」として造形されていないキャラクターを作中で「メンヘラ」と呼ばせているという事実。ここから私たちが受け取るべきメッセージは、クラスメイトたちの認識が――主人公の人格に対しても、また「メンヘラ」というものに対しても――とにかくガバガバでいい加減である、ということではないだろうか。つまり彼女らは、黒髪を長く伸ばし手許が隠れるくらいサイズの大きなぶかぶかのセーラー服で身を包んだ主人公のスタイルをなんとなく「メンヘラ」っぽいと形容したに過ぎないのだ、たぶん。たまたま手近にあったから使っただけで名づけた側にとっても大して思い入れのない、ごくごく緩くてジャンクな用法ということなのだと思う。

もちろん、だからといってこうした用法に対抗して厳密なメンヘラの定義を差し出そうという気はさらさらない。この言葉を蔑称として一切許容しない立場についてはもちろん、当事者がそれを自称として敢えて引き受け直すことにポジティヴな可能性を見出す場合であっても、メンヘラの定義や条件を一義的に画定してしまうことは有害でしかないと思うから。しかし他方ではこんな疑問も残る――「メンヘラ」の定義を一切放棄したまま、どうして私は『乙女怪獣キャラメリゼ』の主人公をあんなにもむきになってメンヘラではないと言い切れたのだろうか。クラスメイトたちの認識がガバガバであると、なぜそこまではっきり難ずることができたのだろうか。

おそらく私は「メンヘラ」を適当な蔑称として使った彼女らをただ道徳的に糾弾したいわけではないのだと思う。むしろもっと感情的で意固地な――つまり「こんなのメンヘラじゃない」という苛立ちが、そこにはたしかに混じっているような気がするのだ。

例えば米代恭『あげくの果てのカノン』(小学館、二〇一六―一八)の主人公について。彼女は『乙女怪獣キャラメリゼ』の場合とは違って、作品そのものによって公式に「ストーカー気質メンヘラ女子」であるとはっきり規定されているのだが、私はこれについても「こんなのメンヘラじゃない」と強く――しかしやはり大した根拠もなく――感じたのだった。

もしくは、知るかバカうどん『君に愛されて痛かった』(新潮社、二〇一八―)。この主人公は必ずしも公式に「メンヘラ」と呼ばれているわけではなかったと思うけど、第一巻の帯にある「誰でもいいから私を承認して!」という文言などを見るに「メンヘラ」のパブリックイメージが意識されていることは割と明確だ。実際のキャラクター造形としてもステレオタイプな描写をこれでもかと盛り込むことで、むしろ『あげくの果てのカノン』よりはるかにわかりやすい「メンヘラらしいメンヘラ」に仕上げている。ところがそれでも私は「こんなのメンヘラじゃない」という違和感、あるいは少なくとも「これはメンヘラの物語なのだろうか」という疑念を――この場合はほとんど何の根拠もなく――抱えざるをえなかった。

これは、この気持ちは一体なんなのだろうか。

……ということをつらつらと考えているときに、そういえば一昔前に「ヤンデレ」という言葉があったのを思い出した。今もあるのかもしれないがなんとなく、かつてはヤンデレと呼ばれていたものも含めて「メンヘラ」という言葉のほうが最近はより汎用性をもって使われている印象がある。しかしよく考えると、この二つは全く別物ではないだろうか。といってもネットで見かける類の、それぞれの愛のあり方にどういう違いがあるか云々といった意味論的な(つまり「定義」に基づく)比較にはおそらくほとんど意味がないし、何の魅力も感じない。そうではなくて、重要なのはヤンデレというのが結局のところフィクションにおけるキャラクターの一類型にすぎないのに対し「メンヘラ」という言葉は(その出自に照らしても)あくまで生身の人間についてのものであるということではないか。
もちろんキャラとかキャラクターというものを考えるのにもはや虚構と現実の厳格な区別は無用であること、むしろその両側を往還しつつキャラなりキャラクターなりが生成されるのだということは重々承知しているつもりである。ただ、こと「メンヘラ」に限っていえば、そのような呼称を現に浴びせかけられたり、あるいは自らの生をもって引き受けたりしている生身の人間の存在を捨象したまま何かをいうことは――シンプルに倫理的な意味で――許されないように思うのだ。

いかにも素朴なヒューマニズムのようで恐縮だが、生身の人格を有限個の属性のセットに還元しきることはやはりできないだろうと思う――というか私が感じた不合理かつ無根拠な「こんなのメンヘラじゃない」こそが、自分がそのように考えていることを意図に関係なく明かしてしまっている。つまり私が多くのフィクションにおける「メンヘラ」描写に(変な言い方になるけれど)満足できないのは、おそらく表象によっては捉え尽くすことのできない残余がそこには常に必ず存在することを、どうしようもなく予感してしまっているのではないか。
私は「メンヘラ」という言葉とどう付き合うべきか(一切の使用を糾弾すべきなのかか、あるいは一定の用法については肯定的な可能性を見出すべきなのか等々)について、実質的な意見をほとんど保留したままこの文章を書いてきた。敢えて保留したというより単にまだ迷っている部分が多いというのが実情である。実際「こんなのメンヘラじゃない」という苛立ちは、この言葉のあらゆる他称的使用に疑義を呈する方向にも進みうる一方で、何か正しい(「正確な」という意味であれ「肯定しうる」という意味であれ)メンヘラ像のようなものがどこかに理念として存在することへの期待も、同時にかすかに感じさせる。だからここで語りうるのは「何が倫理的なあり方か」ということではなく、せいぜいその最低限の可能性の条件として、残余への予感に目をつむらないでいることの必要性くらいでしかないのだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?