記号・孤独・ヒーリング――阿部共実『潮が舞い子が舞い』を読むための三つの視座

 阿部共実『潮が舞い子が舞い』(既刊五巻、秋田書店、2019―)は、とある「海辺の田舎町」で「高校2年生の男女が織りなす青春群像コメディ」である(単行本カバーより)。ここに堂々銘打たれている通り本作はきわめて上質な、この著者にしては驚くほど素直に楽しく愛おしい「コメディ」に仕上がっており、とりわけ初期に顕著であった「心がざわつく」系の仕掛けはほぼ見られない。また登場人物の数もまさに「群像」と呼ぶにふさわしいももので、高校生たちのみならずそのバイト先の同僚や教師、団地の隣人など巻を追うごとに増え続け、第五巻の時点ですでに五三人にも上っている。
 本作はこれら登場人物同士のかけあいを中心に構成される一話完結の会話劇であり、そこには阿部共実独特の――ついに円熟の域へと至った感もある――奇矯かつ叙情的な言語感覚がいかんなく発揮されている。と同時に『死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々』(既刊二巻、秋田書店、2013―[※ただし実質休載で続刊の有無は不明]/以下『死に日々』)から『月曜日の友達』(全二巻、小学館、2017―18)にかけて完成された風景表現の技法が作品世界に一種ノスタルジックな奥行きを添えてもおり、さまざまな意味で現段階での集大成的な――ひょっとするとライフワーク的な位置づけにもなりうるかもしれない作品である。
 本作についてはいつか本格的な論考を著したいと思っているが、さしあたり以下ではこの来たるべき『潮が舞い子が舞い』論に向けた足掛かりの構築を目指すに留めたい。具体的にはこの作品に描かれる「関係性」を読み解くうえでポイントとなるであろう三つの視座を提示するとともに、それら各々について概要をごく簡単に解説していく。

1 人物造形における記号化+立体化
 フィクションの登場人物造形を評するに際しては往々にして、それが単純で類型化された「記号」(にすぎない)か、リアルで立体的な「人間」(たりえている)かの二元論で語られることが多い。この切り分けに基づくならば、本作の登場人物たちは一面においてたしかに「記号」化されているというべきだろう。もっとも阿部共実の手になるだけあって彼らの性格や思考法や言動はかなり異常かつ特異にして過激でもあり、もはやパブリックに流通した(「ツンデレ」のような類の)属性の束にたやすく還元できるわけではないのだが、とはいえそうした異常で特異で過激なキャラクターが到底「リアル」とは呼びえないこともまた認めねばならないからだ。
 しかし、それにもかかわらず『潮が舞い子が舞い』に登場する人物たちはきわめて「立体的」でもある。つまりは記号的に、あるいは非「人間」的に立体化されている。徹底的な記号化をほどこしたうえで、当の記号そのもののうちにどれほどの奥行きと襞を見出すことができるだろうか――「海辺の田舎町」はそうした研究のために設えられた細密な実験場であり、本作全体がその記録であるといってもおそらく過言ではない。
 そしてまた、この実験が決して本作に至って唐突に始められたものではないことも付言しておくべきだろう。思えば『空が灰色だから』(全五巻、秋田書店、2011―13)のころより一貫して、阿部共実は人物造形において既存の類型を利用しつつ、それを思わぬ仕方で歪めたり逆手に取ったりすることで物語のギミックとなす作劇法を得意としていた。それらもまた個々に「実験」と呼びうるものではあるが、こうした試みの蓄積は今回の探究においても確実に活かされている。例えば『潮が舞い子が舞い』の最重要人物の一人である右佐などは、あたかも『死に日々』の第九話「お願いだから死んでくれ」に登場する田所の幸福な来世かのようではないか。このように過去作が総じて悲劇的な筋書きへと晒してきたさまざまなキャラクターの属性は本作の登場人物のなかにも一種の遺伝子として組み込まれつつ、かつてなく穏やかな日常においてゆっくりと培養された彼ら「記号」たちの「記号」としての在り方そのものが――ドラマのために身を捧げるカタストロフを今度こそ永遠に先延ばしされたまま――微細に多面的に観察され記述されていく。

2 孤独の昇華と分散
 では『潮が舞い子が舞い』の作品世界はいかにして、そのような実験・観察のための高度に安定した箱庭たりえているのか。第一に指摘されねばならないのは、本作において決定的に孤独な人間が一人も描かれないということだ。例えばクラス(二年四組)のなかに同級生の誰とも話さない生徒や、明らかにいじめられている人物などは存在しない(ように見える)。スクールカーストのようなものもなんとなく設定されているが、グループ間の友好的な交流や混淆もしばしば見られるし、断絶や疎外の兆候はほとんどないようだ。この点は著者のこれまでの作品と比較してもかなり異例な、本作の大きな特徴であるといえる。
 しかしながら重要なことに、決定的に孤独な人間が存在しないということは必ずしも「孤独」が作中から完全に排除されてしまっていることを意味しない――「孤独」は阿部共実作品における本質的な要素の一つであってそう簡単に消し去れるものではないからだ。ここで我々は、本作における最も過激な人物である真鈴バーグマンのことを考えなくてはならない。第一巻巻末の「2年4組生徒紹介」のなかで彼女だけが他の生徒と離れて立っていることに象徴されるように、バーグマンはある意味では「孤」を本質とするキャラクターなのだが、しかしそのありようは「孤独」というよりもむしろ「孤高」である。バーグマンは自らの孤高を(厳密にいえばそこに葛藤がないわけではないのだが、ひとまずは)肯定的に引き受ける。積極的な価値へと昇華されることで「孤独」は、物語世界に不可欠な要素としてその実質を保ったまま、同時に「青春群像コメディ」に要求される日常のホメオスタシスとも両立を果たしているわけだ。
 バーグマンによる「孤高」の引き受けはこのように本作をコメディとして成立させるための前提条件ともいえるものだが、他方ではそこにコメディ以上のものを示唆する――先の表現を用いるならキャラクターを「立体化」するうえでも、重要な役割を担っている。彼女が過剰に戯画化された孤高を体現するそのありようと連動するように、それでも浄化しきれない澱、永遠にギャグとはなりえない孤独の影の部分が他のさまざまなキャラクターたちの懐に入り込んでいるのではないか。百々瀬も、刀禰も、縫部も、犀賀ちゃんさえも時々どこかさみしそうな顔をする。バーグマン本人にしても、やはりさみしさを垣間見せてしまうことがあったではないか。一見して誰をも取りこぼすことなく掬い上げているかのような関係性の網目に絡まった、これら微細な孤独に読者は注意深くあらねばならない。

3 ヒーリングの力学――抱擁と愛撫
 おそらくこうした「孤独」の分有を一つの背景として、本作の人間関係においては誰かが誰かに「甘える」あるいは反対に誰かが誰かを「あやす」という構図が非常にしばしば繰り返される。それを具体的に示す動作がすなわち抱擁(抱きつく/抱きしめる)と愛撫(「よしよし」「なでなで」)である。またその対象は誰でもよいわけではなく特定の、かなり排他的な関係性に限られている点にも留意すべきだろう。
 この点から見た代表的なカップリングを以下にいくつか列挙しておく(矢印の左が「甘える」側で右が「あやす」側を指す)。

土上  → 水木
一万田 → 百々瀬
中畔  → 水木
車崎  → 釣岡
雲出  → 雨窪
氷室  → 水木
 
 そのほか必ずしも物理的な愛撫と抱擁を伴うわけではない、あるいはあやされる側に自発的に甘えている意識がない場合なども含めるなら「縫部→刀禰」や「右佐→白樺」間にも一方が他方を受け容れ、癒す類似の関係性が認められる。したがってここには本作がキャラクター同士の関係性を描く際のある特徴的な「角度」とも呼びうるものが見出されるのではないだろうか。
 上記のリストを一瞥してまず気づくことは水木の圧倒的な依存されっぷりである。しかしそれをいうならば百々瀬もまた、一万田をあやす傍らでバーグマンの(孤高の残余としての)孤独に対するほぼ唯一の受け止め手ともなっており、本作の人間関係において作動しているヒーリングの力学という点から見て水木と同じくらい重要な役割を担っていることが指摘されよう。水木と百々瀬は相思相愛を噂される幼馴染同士でもあるが、特定の中心をもたないかに見える「群像」のなかで彼ら二人が比較的「主人公」に近い存在感を示している理由もそのあたりに見ることができるかもしれない。
 あるいは反対に――少なくとも現段階においては特定のヒーラーをもたないようである、例えば犀賀ちゃんのような人物たちがいかにして自らの孤独と対峙していくのか、彼らもまたヒーラーを見出すのか、愛撫や抱擁とはまた別の仕方で何らかの関係性のうちに変化の兆しを求めていくのかといった点を注視していくことも重要だろう。

 いずれにせよ1.記号の立体化という企てのうちで2.見出されたさまざまな「孤独」が3.癒しを求め獲得するプロセスに着目した読解を行うことによって、永遠の凪を装った「日常」のなかに埋め込まれたドラマが浮かび上がってくるように思われるのである。本稿はそのような作業のためのささやかな準備であった。

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