ポリコレ仕掛けのロマンス――雨隠ギド『おとなりに銀河』はどう「すごい」のか

 雨隠ギドの『おとなりに銀河』(既刊一巻、講談社、2020-)がよい、そしてすごい。
 ここで「よい」と「すごい」は若干異なる角度からの誉め言葉になっていて、まず「よい」のほうはロマンティック・コメディとしての魅力の高さに対する単純な詠嘆でありそれ以上の分析の余地はあまりない。問題は「すごい」のほうである。つまりこの作品は一体どう「すごい」のか――それを説明するのがこの文章の目的ということになる。

 主人公の久我一郎くんは「ここねモモティ」という筆名で活動する少女漫画家。高校卒業とともに漫画家としてデビューするも、直後に父親が他界してしまう。母親もいないため、二三歳にして二人の幼い弟妹を自らの原稿料と遺されたアパートの家賃収入で養う苦労人である。
 ヒロインの五色しおりさんはそんな久我くんのもとに派遣されてきたアシスタントさんで、その正体は「喚姫島」という離島からやってきた「流れ星の民の姫」であった。この島の人々はかつて隕石に乗って飛来した微生物を体内に「同居」させているらしく、彼女もお尻に謎のトゲが生えている。
 そして実はこのトゲ、誰かに刺さって血が出てしまうとその相手と強制的に婚姻関係を結ばせるというなかなか厄介なものなのだが、物語のお約束として当然ながら久我くんはうっかりそれに触ってしまう。こうして婚姻関係の「契約」が結ばれた相手はそれ以後、五色さんから一定以上離れてはならず、反対に許可なく接触してもいけない。これらの掟に反すると――あるいはそれに限らず五色さんが落ち込んだり不快感を覚えたりすると――久我くんの体調が如実に悪くなるのだ(発熱や、鼻血・発疹が出ることもある)。

 こうした設定の大枠だけでもかなりユニークな作品であることが見て取られるように思うが、本作がどう「すごい」のかを理解するにはもう少し細かいところまで目を通しておく必要がある。というのも隅々に至るまでなんともさりげない仕方で、しかし周到さをもって張り巡らされたポリティカル・コレクトネスの網こそが本作の「すごさ」の一端であるからだ。

 具体的に見ていこう。
 第一に、本作では登場人物の立場や職業にかんするジェンダーバイアスがさらっと回避されている。久我くんは少女漫画家、いっぽう幼馴染の「もか姉」という女性は少年誌に『獅子の拳士』なるゴリゴリのバトルものを連載している。また「流れ星の民」についても(五色さんの「治世が母に替わった1年前から」等々の発言から)祖母の代より常に女性が最高権力者の地位にあること、そして「姫」を名乗る彼女もまたいずれは一族を統べる運命にあるということが窺われる。
 第二に久我くんの言動には徹頭徹尾、加害的な部分が一切ない。見るからに高そうな服を普段着と言い張りそのままアシスタントの作業を始めようとする五色さんに貸す「汚していい」服が、Tシャツとかではなく(五色さんの身体のラインを隠す)ゆったりしたパーカである点がまず信頼できる。彼女に徹夜をお願いする第一声が「残業代出しまぁす」なのも推せるし、またその美貌について不用意に言及することもない(彼女の「美」に最初に圧倒されるのはむしろ妹のまちである)。不慮の「事故」によって結ばれてしまった婚姻関係をいわば事後的に正そうと、五色さんが久我くんとの「真の恋愛関係」を模索しようとする一方で、久我くんは本気で契約を解除したいと思っている。やがて二人はお互いへの好意を自覚し「つきあう」ことになるのだが、それでも強制的な婚姻関係そのものを拒む気持ちは変わらない。彼は「交際とか結婚にいいイメージがなく」、特に「勝手に決められた婚姻とか/そういうのすごく嫌だなって思う」からだ。
 こうした発言にも見えるとおり、特に久我くんを通じて表明される本作の恋愛や結婚についての考え方は基本的にリベラルである。親の選んだ相手と結婚するしきたりから逃れ「自由な恋」をすべく島を出たという五色さんに対し「(しきたりに従いたくないなら)そもそも「恋」も無理にしなくてもいいのでは」という久我くんの台詞、これもなかなかパッと出てくるものではない。それを受けて五色さんが「姫として生まれたからには異性をパートナーに選ぶものだという刷り込みがあったことは認めます」「恋愛をしない選択肢もあるのでした…」と真摯に受け止めているのも好感が持てる。

 このように細部にわたってさまざまな角度から導入された政治的な正しさ――裏返していえば暴力性の排除――は、本作全体の優しい空気感に大きく貢献している。つまり『おとなりに銀河』というこの作品を「よい」ものにしているのだが、これが同時に「すごい」ことでもあるのは、実はこうした細やかな積み重ねこそが、そのままこの物語における最大のギミック――トゲによる婚姻契約とその余波――に説得力を保証する前提として活かされている、その巧みさゆえにほかならない。

 その点を理解するうえで一つの象徴的なシーンを紹介しよう。
 先述のとおり久我くんはうっかり五色さんのおしりのトゲにふれてしまうのだが、これは床で仮眠をとる五色さんにGペンが刺さっていると勘違いしたためで、断じて変な下心を起こした結果などではないのだった。そして重要なのはこの点について「まだ知り合ったばかりで何も知らないのに/…このように偶然身体に触れることは幸運でしたか」と問う五色さんに、久我くんが「ラッキーとかないです」と明言しているところである。
 ここで「ラッキー」という語の選択をいわゆる「ラッキースケベ」を念頭に置いたものと考えるなら――久我くん自身が漫画家であるという設定も相まって――この一幕から読みとるべきはずばり、本作はロマンスを描くにあたり徹底的に「同意」を重視するというメタメッセージではないだろうか。

 恋愛における「同意」重視の表明、およびそれが「ラッキースケベ」という漫画表現の一類型を暗に引き合いに出しつつなされていること。このことは本作の根幹に、二つの意味で大きくかかわってくる。

 一つは本作最大のギミックである「契約」と「同意」との微妙な関係性である。この契約が定める禁止事項に「許可のない接触」が定められていることはすでに述べた。その接触が五色さんを守るためになされたものであっても、そのことが本人に理解されず咄嗟に恐怖を与えてしまえば、意図にかかわらず罰はくだってしまう(反対に、罰による体調不良から回復するためには同意に基づく接触が有効となる)。五色さんいわく「姫たる私を守る」ことこそが契約の至上命題であるといわれるゆえんである。
 しかしこの「守る」というのも実は両義的なものだ。例えば五色さんから一定以上離れることも禁止事項にあたるが、婚姻関係にある者同士は常に一緒にいなくてはいけないというのはいささか古い価値観だろう。そもそもトゲに触れた者と強制的に婚姻関係が結ばれるという仕組み自体が本人の意志を軽んじた「因習」なのであって、五色さんはまさにそこから自由になろうと島を出たのである。したがって本作の物語において「同意」とは、契約によって保証されるものでありながら、契約に抗って勝ち取られねばならないものでもあるという一見逆説的な地位に置かれていることがわかる。
 とはいえそれはあくまで机上の話でしかない――見かけのパラドックスを軽々と乗り越える久我くんの素敵な一言を紹介しよう。いずれも善意からとはいえ禁を犯して罰を受ける経験を何度か重ねた久我くんは、婚姻契約の解除を望みつつも同時に「俺もあなたとのルール覚えるから」と五色さんに伝える。つまり「姫を守る」というだけの固有名を欠いた規則に縛られ続ける気はないものの、ほかならぬ五色さんが何を恐れ、何に傷つき、何を求めるかについてはそれをちゃんとルールとして引き受けますよと言っているのである。それを強いて「ルール」と呼んだのは、自分の善意と憶測のみによる行動が必ずしも相手に受け入れられるとは限らないということを、文字通り身をもって知ることができたからこそだろう。この久我くんのスタンスによって、一方が他方を支配する(よう強制される)契約関係を拒み、自発的な同意に基づいて交際をはじめるための途が用意されたのである。

 もう一つは「同意」の重視を軸に据えることで、この作品が「漫画みたいな恋」に対するある種の批評として成立している点である。先ほど久我くんの「ラッキー」という表現が「ラッキースケベ」を念頭に置いていると書いたのに対して若干強引では、と感じた方もいるかと思う。あれが決して無根拠な連想でないことを説明するには、五色さんの来歴についてさらに確認しておく必要があるだろう。彼女が「自由な恋」に目覚めて島を出る決意をしたのは祖母の蔵書で少女漫画に出会ったことがきっかけであって、彼女は恋愛というものに対するイメージを専らそれらのマンガによって形成してきたのである。久我くんの「ラッキーとかないです」という返答に対し「…では やはり/触れ合いは許し合う者たちの素晴らしい営みなのですね?/物語のように」と目を輝かせたのもそういうわけで、またふいに思いを伝えてしまった翌日には「私の好きな「両片想いで10巻ほど関係を積み重ねる」型にあてはまらない…! 一体これからどうすれば!?」などと苦悶している。かなりの漫画脳である。
 一方の久我くんも自分について「この年で初恋みたいなものもあやふやだしときめき成分ゼロ人間の自覚もあるし」と言っており、それでいて少女漫画家としてそれなりに恋愛を描いているわけだから、やはりその際の準拠軸はおそらく(実体験というより)漫画がメインなのだろう。
 したがって二人にとって望ましい――「同意」に基づいた――恋愛関係とは、何よりも善きロマンティック・コメディとして作中の彼ら自身が自覚しうるものでなければならない。その意味で本作は少なからずメタフィクション的な趣きを備えているともいえるだろうし、それゆえ五色さんと久我くんあいだの「ルール」とは、漫画に描かれるさまざまな恋のかたちから「正しい」ものを選り分けるという仕方で定められていくことになる。そしてこのことが、先述のとおり本作を「漫画みたいな恋」に対するある種の批評たらしめているわけである。
 この点を如実に示すエピソードを最後に傍証として挙げておこう。
 ルールづくりの一環として二人はどういう接触が五色さんに不快感を与えるのかを具体的に検証しようとするのだが、その際に彼女は「実験」と称して少女漫画に描かれるさまざまな仕草(後ろから「だーれだ」と目隠しをする、髪の毛をつかみながら誘惑する、そして「壁ドン」)を実際に試してみようと提案する。もっとも五色さんは必ずしもこういう描写に一〇〇%嫌悪感を示しているわけではなく、久我くんも気づいているように割と楽しんでいるようでもある。久我くんへの想いに気づいてからは、もっと堪能しておけばよかったなどと悔やむ始末である。とはいえこうした「あるある」について不快な接触になりうる事例として言及すること自体、かなり明確なスタンスの表明ではないだろうか。少なくとも本作で描かれる「恋愛」がそのようなものではないということは読みとってしかるべきだと思われる。

 このように雨隠ギドは『おとなりに銀河』において、作品を制御する倫理としてポリティカル・コレクトネスを自らに「課す」という単に禁欲的な態度に留まることなく、それ自体を(特に「同意」にフォーカスしつつ)物語のギミックとして積極的かつ肯定的に「使う」という高等技術をどこまでも自然にやってのけている。そしてそのことによって本作は、善きロマンティック・コメディとは何か、それはいかにして可能になるのかという問いを提起するきわめて批評的な――しかしあくまでも漫画というメディアへの深い敬意に裏打ちされた――試みとなりえているのだった。

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