鈍感の罪――「熱血教師」という恐怖

湊かなえの『告白』は読んだことがないけれど映画は見た。
よく覚えているのはその中盤からたしか「ウェルテル」という綽名の新人男性教員が登場して、主人公の悪意あるアドバイスを率直に実践することでクラスの少年を追い詰めていくところだ。彼のいささかステレオタイプな「熱血教師」の属性は、この作品において明らかにある種の残酷な鈍感さに紐づけられている。つまりここで熱血とは鈍感であり、鈍感は残酷なのである。

いつごろ、どのような系譜をもって生じてきたのかはわからないが、同様の等式はわたしの知る限りでもいくつかの作品に反復されている。
ひとつは阿部共実『空が灰色だから』第27話「4年2組 熱血きらら先生」である。正直これはつらすぎて本当は読み返すのも嫌なのだが、要するに引っ込み思案なだけで実際はクラスメイトとも仲よくやっている小学四年生の少年・進を独善的に気にかけるあまり彼を友達から引き離し、「自然体」を促しながら自分の思う子供らしさを強要、最終的には不登校にまで追い込む新人熱血教師のお話。痛烈な皮肉に満ちた描写をこれでもかと畳みかけ、読後感は最悪である。特に「もっと進は自然体でいていいと思うの」からの「子供は元気が1番だからね」という、この発言の矛盾に自ら決して気づかないところにきらら先生の鈍感さが象徴的に表れているわけだが、それ以上に意地悪いのは、彼女がこうした残酷=鈍感=熱血教師になった原体験のエピソードだろう。すなわち小学生時代から男子顔負けのやんちゃぶりで「女の子らしくしろ」と叱られ傷ついていた彼女を、一人の「恩師」が「子供は自然体のままが一番」といってその「個性」を認めてくれたこと、それがきっかけで「子供の救いになる小学生の先生」になることを志したというのだ……そうなってくると読者はきらら先生をもはや「悪」とさえ認識できない。彼女は決して悪なのではなく、ただ単に鈍感でそれゆえに残酷なのだ。冒頭近く、授業の出題に我こそはと手を挙げる子どもたちの姿を前にした「かわいい」という心中語さえも、結末を知って読み返すとどこか一抹の暴力性を感じさせる。心さえ殺して読むならば『空灰』中でも屈指の完成度を誇る巧みな良作というべきだろう。

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近作ではツナミノユウ『ふたりモノローグ』に登場する熱血教師・薬袋貴子が、基本的にコメディタッチな世界観のなかで奇妙な不穏さをそこはかとなく醸している点で注目に値する。
作品の詳細は省くが彼女は主人公の女子高生ふたりの担任で、特にギャル・御厨みかげの天敵である。といっても御厨の素行をうるさく言うわけではなく、むしろ「理解ある」「型破りなはみ出し教師」(自称)として寄り添うそぶりを見せるのだが、御厨はそんな彼女を基本的にシカトしている。
ここで印象的なのは、薬袋に絡まれるたび御厨の目が完全に死んでいること――要は本気で嫌なのである。薬袋の言動はオーバーでガサツでツッコミどころに溢れているのに、御厨は決してツッコまない。怒鳴ることもない。だから薬袋のガサツさは作品のなかでギャグとして処理されることなく、文字通りシャレにならない不穏さを残して宙吊りにされることになる。
コメディにおいて、ある意味で最も喜劇的な人物が徹底して作品の喜劇性からパージされるということ――この操作がどこまでも意識的なものであることは、たとえば第一巻巻末に「特別編」として収録されたヒーローもののパロディ短篇「モノローグシティ」で薬袋扮する「悪党」の名前が身も蓋もなく「イディオットティーチャー」とされている点からも読み取られる。つまり作者は薬袋貴子というキャラクターの本質を「熱血」というよりは「愚かさ」に見出している。残酷なまでの鈍感さとは、要するに愚鈍である。本作を読むにつけ、熱血が美徳でありヒーローの条件であった時代はすでに遥か遠く、いまやほとんど恐怖の類型として定着しつつあることが実感される。

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ここまで言及した三作はいずれも後味の悪さが目立つものだが、最後にこうした熱血教師の恐怖をとことん「ホラー」として強調することによって却って稀有なカタルシスをもたらすことに成功した傑作を紹介しておきたい。椎名うみの短篇「セーラー服を燃やして」である。
もっとも、上に紹介した三人の教師がジャージであったりポロシャツであったりという伝統的な「熱血」のアトリビュートをまとっているのに対し、ここに登場する新任の丸山先生はきれいめのブラウスやセーターにスカートという風貌で「熱血」というよりは意識が高いといったほうが正確かもしれない。が、見た目はともかく彼女の示す愚かさは上の三人と明らかに共通するものだ。物語は語り手である中学二年生の少女・小谷の友達である内藤がとつぜん学校にこなくなるところから始まる。丸山先生は不登校が始まって一カ月経っても朝礼で内藤の名前を呼び続け、毎日、内藤の家を訪れる。小谷を「内藤さんのたった一人の友達」と決めつけ(実際にはたくさんいる)教科書的な友達らしさを押し付ける。自室の扉を閉ざした内藤と話をするため隣の部屋から屋根を伝って窓から顔を出す。ニッパーで部屋の鍵を壊し家族全員を動員して内藤の四肢を押さえつけ、涙を流して説得する。またこうした暴走の背景には先輩教師らしき誰かの教条的な助言があるようだ(「深い愛情でもって生徒に向き合いましょう」「自分のクラスのことなのにどうしてわからないんですか」「大切なのはあなたの誠意です」)。聞こえる声を決して聞かず、見えるものを見ようともせず、ステレオタイプで相手を分類しシンプルな図式で状況を解釈し、そうした構えをできあいの物語や誰かの教えに頼って正当化しようとする――このあたりが熱血=鈍感(愚鈍)教師のひとまず基本的な構成要素といえるだろう。そしてこの軸でもって測るならば、丸山先生は確実にラスボス級の怪物である。
しかし先にも述べたように、この作品には他の三つの作品にはないカタルシスが、したがって後味のよさがある。要するに内藤は再び学校にくるようになるのだが、ここで強調されているのは教師が俯瞰しコントロールしようとする上からの調和とはまた別種の、生徒たち自身が直観的にわきまえている内側からのホメオスタシス(恒常性維持)の感覚である。そしてこの感覚をかくも力強く描いたことによって、本作は熱血=鈍感教師がもたらしてきたトラウマに対する一つの救済となりえたのではないか。たとえば小谷が内藤に宛てて書いた手紙にある「学校は来なくても大丈夫です」は、ここ数年ですっかりクリシェと化したそれとは少し違っていて、学校という場からの逃走を肯定するというよりは、教師たちが解釈のために貼りつけようとするあらゆる「意味」からの逃走を保証しているのだと思う。きらら先生が固執する「自然体」も、薬袋が御厨を「手の付けられないヤンキー」と呼ぶのも、丸山先生が内藤の声を無視して「本当の話」にこだわるのも、要は理解できないものに対する恐怖のあらわれである。それに対して小谷は「内藤がどうして学校に来ないのかわからない」けれど、それでもなおその理解不可能を単に受け入れることができた。わかってくれることではなく、わからないままでいてくれることが救いになるということ――それを示したところにこそこの作品の特異な魅力がある。

こうして見ていくと、熱血教師の残酷な鈍感さとは要するに「理解」を求める欲望の暴力性に起因するものであることがわかる。ここで挙げた四つの例をほんの一例として、熱血がある種の嫌悪し唾棄すべき属性として広く認識されつつあるのだとすれば、そこには自分が常に理解可能な存在でなければならないという強迫と、そのことへの根源的な恐怖が一つ背景としてあるのかもしれない。

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