宮﨑駿『君たちはどう生きるか』を観た話

二〇一三年、『風立ちぬ』のときは観た直後から三日ほどひどく落ち込んでしまった。落ち込む、という表現が適切かは心許ないのだが、いずれにしても私の精神に明確な負の影響を与えたことはたしかで、それは作品としての否定しがたい物凄さと、このようなものを肯定するわけにはいかないという強烈な忌まわしさとが同時に、せめぎ合うというのですらなく両立していたことに対する戸惑いの結果だったのかもしれない。冒頭から絶えず予兆としてあった不気味さの感覚が、末尾に至ってはっきりとしたかたちをとり、端的にこれはいけないものだと私は思った。

当時の私にそう感じさせた、ある種の現世否定の衝動――これは『崖の上のポニョ』のころからおそらく割と露骨に頭をもたげつつあったものだ。ただあのときはもっと潔かったし、そこにファンタジーとしての矜持が見えもしたのだったが、『風立ちぬ』の場合はその否定すべき現世(此岸・地上的なもの)においてどうしようもなく「生きねば」ならない我が身の肯定を不当にも、まるごと幻想(彼岸・天上的なもの)に委ねているようにしか見えなかった。そのことを、しかし大上段に立って批判したいとも、できるとも思わない(思わなかったから、落ち込んだのだ)。とはいえそれがきわめて憂鬱な思考であることはたしかだし、私はあれ以来『風立ちぬ』という映画を一度も見返していないし、いまもって見返したくはない。

だから、あれでは終われないと思うのも私にはごく自然に理解できた。そして『君たちはどう生きるか』という作品は、否定すべき現世のただなかに在ることを幻想によって孤独に是認しようとする怯懦を乗り越えて、この世界とそこに生きることを一体に肯定する過程を――肯定した結果ではなく、そのもがくようなプロセスそのものを――提示した、それをもって自らの落とし前としたのだとわかった。私はそれをとても「よかった」と感じた。

作品の前半は、この世界をあまり好きではないという少年の皮膚感覚をそのまま再現するように、ひとを含め描かれる「生き物」たちはどれも奇妙に気持ち悪い。燃え上がる病棟へと駆ける少年のまわりをうごめくゾンビ(living dead)のごとき街のひとびと、少年の手を身重の腹部にあてがう――もはや少女でもなく未だ母でもない――美しいがおそろしい「女」の存在、愚かな群体のごとく折り重なって現れる老婆たち、父の歯茎あるいはその口内に見え隠れする飯の粒、パラノイアックに苛む鯉と蛙。これらすべての生き物たち――というのは要するに、アニメーションという媒体においては文字通りアニメートされ=生かされているすべての動くものたちのことで、それらはみなその生きているということ自体の手触りにおいて、言いようもなく気持ち悪い。対照的にその背景をなす静止画ばかりがやたらに美しいのだ。

だが弓矢の自作という少年の、わが手を介した自然との交渉をひとつのきっかけとして、そのかたちや動きにおいて何も変わらないはずの生き物たちが少しずつ、不思議にもその気持ち悪さを減じていく。うごめき、が動きになっていき、アニメートされたものたちこそがこの映画において美しいものとして立ち現れてくる。物語の後半に主人公と鳥が歩む狭い坑道の蟲たちさえも、そのころにはもう私たちの(あるいは少年の)皮膚感覚に毒をなすことはない。空に羽ばたいていくインコの群れが残していく糞尿を末尾に至っても強いて描ききったのは、それを描くことによってこわごわと、自らの作品が生き物を肯定しえたかを試験しようとしてのことだったかもしれない。

だがここで考えなければいけないのは、作中にある老人が世界というものをそれ自体「生き物」なのだと語るとき、そこでは生き物の生き物たるゆえんが他の何をも措いて蟲が湧き、黴が生えることに尽きていた点である。すなわち生き物であることの本質は、死ぬことにある。いつか死ぬものが、死すべきものが、にもかかわらず生きてうごめいているから、気持ち悪い。ならば生き物が生きていることの肯定は、それがいつか死ぬことの肯定でもなければならない。抽象名詞化された「死」の肯定ではない――それではふたたび現世とは無関係な幻想、彼岸、天上的なものを呼び込む怯懦へと帰ってしまう。死ではなく、死ぬこと、もっといえばいつか死ぬこと、いつか死んで蟲が湧き、黴が生えることをどうにかして肯定する必要がある。

いかにしてか。それは生きることのうちに死ぬことを、ソースのように少しずつ溶かし込んでゆくプロセスとしてのみ可能になるだろう。生きている生き物たちがその気持ち悪さを次第に減じて私たちの(あるいは少年の)皮膚になじんでゆくのは、それらがその身に少しずつ可死性のソースを溶かし込んでいった結果ではなかったか。そしてそのプロセスは、作品を貫く奇妙な時間のによってもたらされていたように思う。この映画が生き物にあふれながらもどこか、つねに静止の感覚を伴って私たちに見つめられるのは、背後に等間隔で反復される一定の、ずるい言い方かもしれないが一種の経のようなリズムが流れているからだ。そうしたリズムのもとで生き物たちは――というよりむしろそれを見る私たちは「いつか死ぬこと」の意味を徐々に体得していく。それが生きていることに貼りついた不気味な影ではなく、生きること自体の中心に溶かし込まれた可能性であることを、わかっていく。

アニメーションは、すでに生きているものを捉える実写とは決定的に異なって「生かすこと」が作ることの不可欠な要素として織り込まれている。しかしそれが作品であるためには、そのように生かされたものの動きを止め切り刻むこと――すなわち「編集」という作業もまた避けがたく伴わねばならない。自らが生かしたものを絶えず殺しつづけることで、アニメーション作品は作られる。その二重の暴力はまさしく現世そのもののありようであるように、おそらくは思われた――思われつづけてきたのだろう。穢れのある世界を肯定することは『風の谷のナウシカ』からの一貫した主題であり、その意味で『風立ちぬ』はその最も陰鬱なバリエーションだったわけだが、そうした主題への要請はまずもって、自らの「作ること」の肯定の必要を意味していたのかもしれない。描くことによって生かされたものたちの生は編集のメスが刻むリズムをもってこそ肯定される。生き物が生きていること=いつか死ぬことの肯定としての「世界」の肯定は、こうしてアニメーションという行為の肯定と一体化する。そのための見苦しいほどに必死な、それでもなお見事というほかないプロセスの記録として『君たちはどう生きるか』という作品はある、と私は思った。

もちろん語るべきことはそれだけに尽きない。少女にして母である――という理想像を字義通りに具現化した女性が、もはや少女でもなく未だ母でもない「女」へと少年を託すことの意味はなんなのか。あるいは生まれるために天に昇っていく真っ白な魂のようなものたちが、ことさら「当たり前」のこととして「人間」にのみ生れゆくのはなぜなのか。とりわけ後者の問いは作家の自然観と人間観の根幹にかかわる問題のように思える。

だが、それらを措いて私の胸を最も率直に打ったのは「高所において、主人公の辿る足場は必ず一度は崩れねばならない」という格率に、作家がほとんど貴族的な厳粛さで帰依しているそのさまであった。生きるとか死ぬとかそういうこと以上に――というよりその内実が最も具体的に凝縮されて立ち現れるものとして――大切なのは、あらかじめ定められた足場の崩落を主人公が、同様に自らの運命として生き延びることである。そしてそれこそが、あらゆる意味において「アニメ」の本質なのだと、映画は高らかに宣言しているように見えた。

追記
生きることのうちにいつか死ぬことをソースのように溶かし込む、という私がここで定式化した現世肯定の様式が作中において最も象徴的に明示されていたのは、おそらく鳥が少年の緩慢な忘却――あちら側の記憶を保持したままそれをゆっくり忘れていくこと――をよしとしたくだりだったろう。それは生と死とを閾によって抽象的に分離するのではなく、いま生きていることとは異質な何物かをその生きていることのうちに少しずつなじませていく過程にほかならない。つねにゆっくりと何かを忘れつづけていくことの必然性として、私たちの生きていること=いつか死ぬことはある。




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