亡霊とのホモソーシャル――キューブリックの『シャイニング』を初めて観た話

これまでキューブリックの『シャイニング』を観たことがなかった。キングの原作も読んでいない。怖そうだったからだ。

怖そう、というのはしかし実のところ不正確で、もう少し丁寧に解きほぐすと「断片的な情報や映像からは正直なところそこまで怖くも感じられないのだが、にもかかわらず誰もが「あれは怖い」と口を揃えて言うので、よほど想像もつかない恐怖が待ち構えているのだろうと尻込みしていた」ということになる。ジャック・ニコルソンのあの顔も怖がるにはもはやミーム化しすぎていたし、誰も助けに来られない真冬のホテルでノイローゼになった父親なり夫なりが斧を振り回しはじめるというストーリー自体も、たしかに嫌な話だが、それがどうやったらそこまで言うほど怖くなるのか謎だった。いわば恐怖の質が直感的に理解できないから逆に理性で警戒していたのである。

では実際に観てみてどうだったかというと、結論としては、やはり警戒していたほど怖くはなかったと言わざるをえない。真冬の閉ざされたホテルの不気味な雰囲気に吞まれるにはノートPCの画面が少し小さすぎたという視聴環境の問題も多分にあるだろう。しかしそれ以上に、物語の背後にある問題の構造が(私には)あまりにもクリアだったというか、結局のところこれは何についての物語なのかという骨格の部分がすっきりと透けすぎて、それを頭で整理しながら見ているうち、妙に冷静になってしまったのだ。

これほどのクリアさ加減から見るに、私が理解した「骨格」の問題というのはすでに多くの人々にとって自明のことで、いまさら大げさに指摘することでもないのかもしれない。だが少なくとも私自身がふれてきた前評判のなかにそういう指摘はなかったので「あ、そういう話なのか」という純粋な驚きもあり、またその点にこそ本作の意外なアクチュアリティがあるようにも思われたため、以下、覚書として記しておきたい。

私がキューブリック版『シャイニング』を観て何より強く印象付けられたのは、本作があの『アメリカン・サイコ』にも匹敵するほど露骨に、しかしまた別の視点から(アメリカの白人)男性性の病理を主題化していたことだ。

先住民の墓地を接収して建てられたホテルが舞台という時点で「呪い」の起源に白人の罪があることは明白だし、ジャック・トランスの暴力が直接に向けられる対象は女性・子供・黒人――いずれも白人男性性に対比されるべきマイノリティ(の記号)である。また、教師をやめて作家としての成功を夢見る男が家父長としての自らの権威に不安を抱いていないはずもなく、狂気にとらわれていくジャックの憎しみがまずもって妻のウェンディに向かうのは、彼女が向ける一見すると優しく理解ある眼差しが、実は自らにとって緩慢な去勢装置であることを深層で悟っていたからだろう。アルコール依存症という病いも彼の「恥」の感覚とどこかで結びついていたことは想像に難くない(しかも彼はかつて酒に酔った状態で、守るべきわが子に怪我を負わせてしまったことがあった――そのことで妻が自分を常に暗黙のうちに非難しているのではないかという恐れも彼にはあったかもしれない)。

加えて強く記憶に残っているのは、今すぐホテルを出ようと主張するウェンディに対してジャックが殊更、自分を雇用したホテルの支配人に対する仕事上の「責任」(responsibility)を強調していた点である。そして妻の手で食糧庫に閉じ込められたジャックがグレイディ(かつて自らの妻子を惨殺したとされるホテルの管理人)の亡霊と交わす会話では、家族を殺すという「仕事」(business)をやり遂げる能力がジャックにあるのかが問題になっていた。このシーンではグレイディの姿が見えず、ゆえにその声はいっそうジャックの超自我めいて響くのだが、とにかく彼は徹頭徹尾「仕事」とそれに伴う「責任」の重みによって凶行へと駆り立てられていったように見える。すなわち小説の執筆・ホテルの管理・妻子の惨殺という三つの仕事と、各々に付随する家族、雇用主そして亡霊たちへの責任である。彼はそのいずれについても、自らがその任に応えうる能力(=responsibility)を備えていることを証し立てなければならない。

しかし、誰に対してか。というのも上にあげた三つの個々の責任の宛先とは別に、アピールすべきもっと大きな誰かもしくは何かが、彼には存在しているはずだからだ。

パーティホールのトイレでジャックがグレイディと初めて対峙するとき、グレイディはこの状況に外部から介入しようとする者が「黒人」(nigger)であることを強調し、また妻と子を「しつける」(correct)必要性を説く。女性と子供と黒人を排除ないし支配の対象として確認しあうことで、ジャックとグレイディとのあいだにある絆が生まれる。いわゆるホモソーシャル――しかもとりわけ「白人・成人・男性」たちのそれである。

少なくともキューブリック版の『シャイニング』において、ジャックを狂気に陥れるのは(凡百のゴーストストーリーとは違い)彼自身の精神にとり憑く魔でないのはもちろん(原作がそうであるらしいのとも違って)ホテル自体の邪悪な意志などでも(おそらく)ない。彼は自らと同じ白人・成人・男性たる亡霊たちとのホモソーシャルに取り込まれ、ホモソーシャルの意志を代行するかたちで凶行を犯すのだ。だが、考えてみればそもそもホモソーシャルとは一般に亡霊たちの集合のようなものではないだろうか。養うべき家族や契約を交わした雇用主の向こうから彼を見つめ、絶えずその能力を問い資格を試し続ける白人・成人・男性たちの共同体――それもまた、一方的に見つめるだけで見つめ返されることの決してない一種の亡霊ではないのか。

ならばキューブリック版『シャイニング』の批評性の核心は、ホモソーシャルという亡霊を文字通り亡霊的なホモソーシャルとして戯画化することにあったように思われる。死せる男たちとの絆はジャックの不安と孤独を癒したが、それは彼に死をもたらすものでもあった。2023年に初めて『シャイニング』を観た私の目に、この作品はホラー映画というよりもよくできた――あまりにもよくできすぎた――男性性の寓話と映ったのである。


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