良いと思わないのが正解だったかもしれない映画をそれなりに楽しんでしまったことについて――ヴィム・ヴェンダースの『PERFECT DAYS』

気にかかる部分がないではなかったけれど、概ね心地よく、それなりに人生について考えるなどもしつつ観終えたそのあとになって、製作の経緯や関係者の素性などを知り「これはミスったかな?」と思った。

役者の力か、音楽がよかったのか、単調なようで実は巧みなリズム感をもった編集のたまものなのか、シンプルに画の美しさなのか……と、向こうの勝因候補はすぐに幾らでも挙げられるのだが、一番はたぶん私自身が主人公の生活を見つめながら「こんなふうに生きていけたなら――」と、思ってしまったからなのだ。そしてこれは――言うまでもないが――この映画のキャッチコピーそのままである(ことも、観終えたあとで知った)。

まんまと、という言葉がこれほどぴったりな状況があるだろうか。しかし改めて考えてみれば「こんなふうに生きていけたなら」というのは映画の感想というよりも、コマーシャルによって触発される類の欲望ではないか。ならばこの映像作品は映画というよりも優れたコマーシャルフィルム(ライフスタイル提案型の)として、私に甚だしい影響を及ぼしたのである。と、こう理解すると、冒頭で述べた「ミスった」という確信も、にもかかわらず本作に一定の評価を与えてしまった自分自身の感性のメカニズムも同時に救うかたちで説明をすることができる。

とはいえ観ている間も手放しで感動していたわけではなく、全体に映画というよりマンガっぽい設定だなあ(いわゆる「マンガ的」という形容詞には包含されないけれど、こういう中年男性をフィーチャーしたマンガはけっこう多いんだよなあ)とか、若い女の子の理想化が微妙に寒いなあ(そういえばヴェンダースは『都会のアリス』とかも撮ってたし、そういう感性があってそこが日本的なカルチャーとの相性の良さにもつながっているのかもしれないなあ)とか、思うところがないではなかった。あとは「友達の樹」はやりすぎだろう、とも(せりふが少ないぶん余計に悪目立ちしていた)。

それでも良い部分はたくさんあった――スナックのママに石川さゆりをキャスティングするというのは、普通の邦画だとコスプレ感・コント感が強すぎて難しかったのではないかと思うのだが、ヴェンダースの映画として、というのはつまり「外国人」からの視点を(半ば無意識であれ)仮想的に装着して画面を見つめることによって不思議としっくりきたのは新鮮な驚きであった。折り目正しい日常が微妙に崩れはじめてからの役所広司はさすがに名演と認めざるをえなかったし、三浦友和はやはり素晴らしい俳優だ(影踏みのシーン自体が良いかどうかは別として)。

しかし一方で――これは一緒に観にいったパートナーが主に批判していた点であるが――トイレの匂いがしないこと、そして野宿者を田中泯の身体を使って描き込むこと、このあたりの悪さは美的というより倫理的な、つまり表象的な暴力の領域に踏み込んでいるかもしれない。とりわけ野宿者の表象については、それが徹底的に単数であったことも指摘しておかねばならないだろう。社会から排除された存在が聖性を帯びうるのは、それが単独者である場合に限られる。あの画面に写されるべき存在としての野宿者は、決して集団であってはならなかったのである。そこに暴力がある。

というわけで、いったんはそれなりの感銘を受けつつもこの映画には批判的に検討すべき点が多々あるという結論にいまのところ落ち着いたのだが、しかし――弁解がましくて恐縮だが――初めからその悪さを的確に見切りえた場合よりもむしろ多くのことを、この作品が狙ったはずのところに「まんまと」ストライクしてしまった(ことを事後になって批判的に自覚した)ことによって得られたとも思っている。ということで、この件については良しとしようではないか。

ところで、実を言うと私は役所広司があまり好きではない。といっても彼自身に役者として嫌うところがさほどあるわけでもなく、より正確には「役所広司が好きであることをアイデンティティにしているタイプの男」がものすごく苦手で、そのとばっちりを役所広司本人は受けているといったほうがいいかもしれない。ちなみに同様に私が苦手な男性のタイプとして「性的な事柄に「虚しさ」を覚え、かつその虚しさに何がしかの叙情性が宿りうると思っている男」とか「自己嫌悪を表現する言葉が「自分は空っぽ」止まりの男」とかもあるのだが、これら三つはなんとなく重なっている気がしている。どうでもいい話であった。




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