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第3回「響きが光と溶け合うことで」2014年5月10日 登壇者:小沼純一、池田拓実、七里圭

七里:長らくお待たせしてしまいまして申し訳ありません。七里と申します。今日は、『映画以内、映画以後、映画辺境』第三回目にこんなにたくさん来ていただきまして、ありがとうございます。前回、三月二二日に二回目をここでやりまして、四月二六日の連休直前にライブ(「映画としての音楽」【 http://keishichiri.com/jp/performances/live_eigatoshiteno/ 】)を、で、それを受けての第三回目ということなんですが、もしかしたら今日初めていらっしゃった方もいらっしゃるかもしれませんので、この講座がどういうものかを簡単に先に説明しようと思います。毎度そうなんですけど、こちらの予想が、気が小さいもので、(客数を)小さく見積もってしまって…。プリントがもしかしていきわたってないかもしれませんが、第一回目の時に配った映芸(映画芸術430号 〈発売日2010年01月30日〉)に僕が書いた文章があります。ここ一〇年くらい、何かしらぼんやりした違和感がずっとあったんですね。それは僕だけではないかもしれないという気もするんですけども、その昔、まあそんなに歳とってはないつもりですけど、昔映画だと思っていた映画から、何かが変わってきているというか、もっと言っちゃうと映画が“映画のようなもの”になってきているんじゃないかという、ぼんやりとした違和感があったんですね。それが、SFの古典で『盗まれた街』っていう「ボディ・スナッチャー」、さっきまで客入れで、細野晴臣さんの『SFX』というアルバムをかけてましたけども、「ボディ・スナッチャー」って曲はその中にありまして、映画では何回かリメイクされている、SFの古典です。それは、ある街に宇宙人がやってきてその街を乗っ取ってしまう。で、表面上は同じ人たちなんだけども、実は中身は宇宙人になってて同じ人じゃない。そこに気づくところから始まるっていうSFの古典があり、そのボディ・スナッチャーのような状態に映画がなってきているんじゃないか、映画が“映画のようなもの”になってきてるのではというぼんやりした違和感を例えてみた。これは僕一人で考えるには途方もないことなので、いろいろな識者の方をお迎えしてお話を聞き、このことを、僕のその違和感の精度を上げたいというか、疑問を解消していきたい、本当はどうなんだろうかということを趣旨に始めました。で一回目は、映画批評の吉田広明さん。『B級ノワール論』とか、『亡命者たちのハリウッド』とか、過去のハリウッド映画についての著作を書きながら、アップトゥデートな日本映画の批評もされている吉田広明さんをお迎えして、まずその、デジタル化っていうのは、どんなものなのだろうか、それが原因ではないか、ということを一回目はやりました。でその時に拙作、といっても鈴木了二先生との共作なのでそうも言い難いですが、『DUBHOUSE』【 http://keishichiri.com/jp/film/dubhouse/ 】という僕の作品を、それは三五ミリのフィルム作品なんですが、ここでデジタルでかけてみました。それには意図がありまして、プロジェクターで上映するってどういうことなのかを考えるに、この作品が格好の材料だったんですね。それは、ご覧になっている方は分かるかと思うんですが、『DUBHOUSE』っていうのは前半の八分間全部闇なんです。真っ暗。で、フィルムで上映すると、闇の中にも、ぼんやりと影のような何かが映ってる感じがスクリーンに投影される。映写機はフィルムを前にかけて後ろから光を当てるので、スクリーンに映るのは影なんです。ところがプロジェクターは光を照射しているんですね。つまり、フィルムでは影で表現されていたものが、光の色で表現される。つまり、影が黒になってしまうと、どういうことになるのか。要は何も見えないんですよ。プロジェクターから白っちゃけた黒い光が当たっているだけで。そういう意図で作ったわけでもないんですけど、格好の例だったということで『DUBHOUSE』を参考に上映したりして、メディアが変わったこと、デジタルというものに置き換えられたことがこの違和感の、ひとつの原因なんじゃないかということを吉田さんと話してみました。で、吉田さんは、映画というのは構成する意志なんじゃないかと。構成する意志さえしっかりしていれば、メディアが変わっても、映画になる。もっと言えば映像じゃなくても、映画にはなるんだというような、まあそれは僕の極論、拡大解釈ではあるんですけども。それから、非常に刺激的な指摘もありまして、もしかしたら表象体系自体に揺らぎが生じ始めているのかもしれない。表象って難しい言葉ですけども、まあ、すごくざっくり言うと、何かを別のもので表わすということです。例えば現実を映像で表わして映画になるとか。音で何かを表わして、まあ表わすというと語弊がありますけど音楽になったり、言葉を使って文章を作ったり。あるものを何かで表わすという、作る作業やそれを読み取る作業ってのが、何かを表わしてるものだから、絶対そのものではないので、こちらが見るときもそれを読み込まなければいけないし、作る側も何かを表わそうとして、何かで表わす。この、表象というシステム自体がすごく弱体化してるのではないかという指摘がありました。それはとても面白い意見だと思ってます。で、二回目は、ソーシャル化っていうのもひとつあるのではないかということで、『イメージの進行形』という著作がある渡邊大輔さんをお迎えして話を聞きました。デジタル化の時(第一回)には僕は、データ化するって、あるかないかということが問題なんじゃないかと思って、「そこにあるのかないのかそれは問題ではないのか」ってタイトルにしたんですが、二回目は、「切断面がつながり続ける果てに」というタイトルにしました。それは、現実から何かを切断することが、表象することだというか、時間を切りだしてくることが、映画を作るということなのではないかと思って、その切断するということ、切断面が作品として現れるんだとすれば、切断面がのっぺりと連なり続けているようなイメージが、ソーシャルな映像環境に対してありまして。で、その話を、吉田さんにも加わっていただいて三人で話したんですが、正直に言うと有効な答えが、僕がこう、ぐっとくる答えが見つからずに、ただソーシャル化はもはや避けて通れないものだと、不可逆のものだと植え付けられて終わったという回でございました。そういう一回目と二回目を受けて、そもそもこの講座というのは、僕らが実験的な映画制作を始めておりまして、それは「音から作る映画」と名付けたんですけども、その「音から作る映画」の上演に何かしら講座で得たことをフィードバックして、何かやりたいと思って。そういう試みとして、四月二六日がありました。で、ご覧になっていただいた方には強烈な印象がまだ残っていれば嬉しいんですけども、連休を挟んでもう忘れてしまったり、残念ながら見てもらえなかった方もいると思いますし、ちょっとだけ、ダイジェストで記録映像を上映しようと思います。で、開場がすごく遅れてしまったのは、編集したての映像のデータ、またこれデータの話になるんですけど、データ量が重すぎたみたいで、ものすごくカクカクしているんですね、上映が(笑)。それで今ちょっと圧縮というか変換をかけていただいたりとかしてるんですけど、どれくらいなめらかになってるか、僕も確認できないままで(かけてしまうので)怖いです(笑)。で、間に合いそうかな……。間に合ったようなので、準備が整い次第、上映したいと思います。五,六分くらいの短いものですけども、観てもらいます…あ、なんかまだのようなので…、そうですね、と言ってすらすら繋ぎの話が出てくるほど器用ではないんですけども、そもそも、細野晴臣さん。僕の中高時代ってのはYMOがリアルタイムで…何の話を始めようとしているんですかね(笑)、まあ、ビートルズ世代にはポール派とジョン派がいたと思うんですけど、僕らの頃は教授派と細野派、まあユキヒロ派っていうのもいましたが、分かれていて、で、僕は細野さんが大好きで。で、『SFX』は名盤だと思うんです、ぜひ一度聞いてください。あれはYMOの後でしたかね。はっぴいえんど時代もティン・パン・アレーやソロの時代も、素晴らしいアルバムがたくさんあって、常に(その当時の)現在を半歩なり一歩なり先に進みながら、時代を見据えながら、わが道をいっているあの感じが本当にあこがれで…そろそろいいですかね(笑)。大丈夫? はい、お願いします。
(ライブ『映画としての音楽』ダイジェスト記録動画の上映)

※前回のnote「ライブ『映画としての音楽』について」に画像や動画あり

七里:これだけ待たせてこれだけかよっていう反応もあるかもしれないですけど、ちょっとだけお見せしました。で、今日はすごいゲストをお迎えしておりまして、先ほど細野さんのことを散々持ち上げてしてしまいましたが、坂本龍一の音楽番組スコラでもおなじみの、小沼純一先生です。(拍手)そして今の(『映画としての音楽』の)音楽を担当していただいた、池田拓実さんです。(拍手)
小沼:『SFX』いいですよね。
七里:ありがとうございます。
小沼:私、これも好きですけど、あれとほとんど一緒に出たノン・スタンダード(『Making of NON-STANDARD MUSIC』)やモナド(『COINCIDENTAL MUSIC』など)、も好きですね。
七里:八〇年代後半ぐらいですか 
小沼:もうすこし前かも。
七里:(YMOの)散開が八三年くらいだったような(註:『Making of NON-STANDARD MUSIC』が八四年、『COINCIDENTAL MUSIC』が八五年、YMOの散開が八三年)。
小沼:じゃ八〇年代の半ばかな。だから、『SFX』はLPで出たけど、ノンスタンダードはもう少し小さい盤で出たんですよね。
七里:あ、12インチシングル?
小沼:そうです。CDになるときにアルバムに変えて。
七里:じゃあ音楽のデジタル化という話につないでいく感じ、になっているかどうかわかりませんけども、まずは今日五分ほど見ていただいた上演を、小沼純一さんには本番を見ていただいたので、その、どきどきなんですけども、感想をお聞きするところから入れたらなと思っていますけども。
小沼:感想は…、難しいですよね。あれ何分でしたっけ?
七里:53分とか、それぐらいですね。
小沼:ご覧になっていらっしゃらない方にちょっと説明すると、今あったように、スクリーンの向こう側に、役者さん達がいて、そこに池田さんがいらしてっていう、それで映像を観ながら、音は「むこう」からくるんですね。スピーカーは別にありますけれども、マイクでひろって。そのうえで、生でセリフが重なれられる。セリフといっても、歌みたいな場面もあるしというように、とても立体的なかたちになります。当然スクリーンはこう一枚あるわけですが、音はむこうからなので、真ん中、というか、その「あいだ」には人がいない。なので、通常の映画の状態とは異なって、両側に観客がいて、誰しもが横を向いて観ることになる。それがちょっと面白い体験となります。映像だけ観ているんじゃなくて、視界にもやっぱり人がいるので、こうからだをねじらせたり、のぞきこんだりして、観る。体がいったりきたりする。たとえば、爆音でもいいのだけど、サイレントに生音で付けるって場合ともちょっと違うかたちになるわけですね。
七里:はい。あの形式を思いついたところから、ライブをやれるかなと思い始めたというか…。そうですね、説明していただいた通り、空間全体を、ある意味で映画として考えるといいますか、エクスパンデット・シネマ、拡張映画っていう分野がありますけども、拡張映画をさらに拡張するというような。拡張映画って、スクリーンの枠を超えて映像を拡げてく作品のジャンルですけど、それを僕なりに考えてみて、空間全体が映画で、映画の中にいるみたいにしたらどうなのかなって。で、映像が流れるスクリーンの反対側にサウンドトラックを演じる人たちがいて、スクリーンに向かって方々から、というか間に音が飛び交う、で、映像もスクリーンから滲み出るというか影が伸びるように、ネガ像が床に映っている。その中に、お客さんの席もあるような、そういうことをやってみた感じなんですけど。
小沼:しかもそれを記録としてライヴの光景を撮ると、お客さんも映像には当然映ってしまうことになり、お客さんも「参加」してしまっているわけでしょう。観ているだけのはずなのに、作中人物になってしまう。
七里:共犯者にむりやりさせるというか…、これを記録映像として見せるのは、最初から意図したことではないんですが、でもその、映画っていうもの自体どこからきたのかということを振り返ってみると、これ(作品)の中でも青臭いことを色々字幕で出していたんですが、そもそも見せ物だったんじゃないかと。この辺りは小沼先生にお聞きしたいんですけど、初期のサイレントといわれる映画で、音楽を奏でるというのは、ああいう形式ではもちろんなかったでしょうけど、どのようにしてそうなったのでしょうか?
小沼:それもいろんな説があるんですよ。リュミエール兄弟が初めてやったときに、音がついていたのか、ついてなかったのかっていう議論がそもそもあった。そのときに演奏している人がいたんだよっていう説もあるし。スタンダードな形で、例えば映画のすぐそばにピアノを置いて弾くとかっていうのは実際に行われたし、もっと時代が下がっていくと、オーケストラがそのままボックスにいた。それがいつの間にかサイレントからトーキーに変わってきて音楽が録音されたものになって…と。
七里:そのサウンドトラックという発想、それが本当に不思議な意味を持つものだと今回つくづく感じていまして。先ほど切断面という話をしたときに、ちらっと言ってしまったんですけど、何かを表現するというときに、その現実を、映画の場合は映像ですが、その時間を切り出すことなのかな、と。時間を切り出すことというか、時間というものが、映像と音楽というか音の共通事項としてある、これをそのシンクロさせたら、ある世界を作れるという発想に至るまでの、発想が至ったということの凄さというか。そもそもサウンドトラックというのは伴奏とかから自然に出てきたものと考えていいのでしょうか?
小沼:多分そうなのではないでしょうか。今、七里さんがおっしゃった時間の問題って、まぁややこしいとは思うんです。それこそフィルムで、ある一定の時間を撮影して流すと、それはもうすでにここには存在しない、過ぎ去った、いまは「無い」時間ですよね。でも、ある一定の時間の中の物を映し出していることははっきりしていて、それは変わらない。で、実はサウンドトラックで音を重ねるっていうのは、まったく別のところで録った音、つまり別の同じ時間を重ねるということで、共通の土台は、その持続時間だけなんですよね。あとはもうほとんど何もない。もちろん意図的に映像に合わせたっていうようなことを考えるんだけど、でも本来はあんまり関係ないはずです。セリフや物音だって実は別のところから持ってきて重ねているわけだから。忘れているけど。だから、映画の中で音がしているっていうのは、そのたびに何かが出会っている、映像と音響が出会っているということで、それはすごく面白いことかと。よく大学の授業でも、三分いたら三分歳をとっていて、同時に三分死に近づいているっていうことを言うんです。それは映画も同じですよ。ただ、それはそうなんだけど、一方で、映画は何回でも上映されたりするから、見ていない人にだって実はそういうことがいえるのでないかと。わたし『1900年』ってベルトリッチの映画が大好きで、映画館で観たのが池袋の文芸坐だったんです。当時会社員だったから、二週に分けて前半と後半で上映するわけです。あるとき土曜日に見に行って前半見てすごい!となる。でもまだ後半は上映していない。で、月曜日の夜に第二部見に行こうと思って。昼間は当然仕事をしている。だけど、今その第二部が上映されているって思うだけで、もういてもたってもいられなかった。それってつまり、見てないんだけど、見ていない映画が上映されている時間はちゃんとあるし、リアルに感じているということでもあり……。
七里:その問いかけを直裁的に字幕で出してしまったんですけど、映画としての、その時間って、どこにあるんでしょうね?
小沼:うーん、どうなんでしょうか。
七里:要はその時間、映画の時間というもの、目に見えるものの時間と耳に聞こえてくるものの時間、まぁそれぞれの時間の違いについてはもうちょっと詳述しなければですが、それらを合わせたものに、サイレントの時代は例外として、まあ例外というのもカッコ付きで言わなければですが、そこに懐胎があったと思うんです。その「時間」が映画なんだ、切断されてきたどこにあるかわからない、そのどこかに存在するであろう、してほしい「時間」というものが映画なんじゃないだろうかと考えたときに、先ほど打ち合わせの時に感想をお聞きしたときに、あれ(『映画としての音楽』)は演劇と言ってもいいよねと先生に、あ、先生って言ったらダメ?(笑)小沼さんが仰って。でも、あれは演劇ではなく映画なんだという僕の意志があるとすれば、というのは、演劇というのは場が作りだすものなんじゃないかという思いがあって、その辺が演劇と映画を隔したり、地続きの面もあったりすると思うのですが。ちょっと巻き戻すと、一回目の吉田さんとの時に「構成する意思があれば映画はメディアが変わっても映画たるものである」という話があったのですが、じゃあ構成するものがあれば、つまり時間を構成すれば、何であれそれは映画になるのではないか?とも思うんですが…
小沼:時間を構成すればということをいえば、音楽もそうです。そういう意味では、映画と音楽って違うものなのかって話にもなりますよね。池田さんどうですか? いきなり振ったりして(笑)。
池田:急にきましたね。どうなんですかね。
七里:構成ということでいえば、あ、ごめんなさい、言葉を挟んでしまって。実はこれ、長大な録音物がありますよね?
池田:ありますね、はい。全部で十三か十四か作りましたね。それ二年くらいかかっているんですよ。二年かかっているというか、まあ間に半年ぐらい空いたりして。まああの、皆さんソロで活躍されてるミュージシャンの方々なので、そのスケジュールを合わせたりして集まってもらって録音したりするっていうのも、まあ二年の間に、何回かわかんないですけど、十回ぐらい?
七里:集中的にやっている時期と何もやってないときがありましたよね。
池田:そうなんですよね。で、そのときは怒涛のように録音していって気がついてみたら手元にめちゃめちゃな時間のテイクが残っていてしかも全部パラで録っているから、一時間録ったら四時間分のデータが録ってある。
七里:四人分ということ?
池田:四人いたら四時間分です。まぁ簡単に言うとそれを…あー、でもその前に私が、スコアというか、台本のようなもの書いて、このセリフはこのような読み方をするって書いて、 これをやりましょうというような感じで録音して。で、録音したものを最後に編集して、それはまさにデジタルで、パソコンの中に編集してああいう音にして、過程としては(個別の)曲なんだけど最終的にあの曲を構成したのは七里監督なんですよね。ああいう風に重なるとは思ってなかったというか。こういう曲なんだって、あのラッシュを見るまで知らなかった。そこにまさに映画音楽家の気持ちというか、思い通りにならなさ (会場、笑) これが本質か、と。
七里:思い通りにならなかった?(笑)
池田:別に思い通りになることがいいことじゃないですよね。ああいう素晴らしいやり方がある。僕だったらもちろん、別のこと考えるかもしれない。
七里:そう言われると、すごい恐縮なんですけど(笑)。ああいった空間構成にすることと、もう一つライブができるかもしれないと思ったアイデアは、テンカウントリーダーを入れることだったんですよ。今のその、(時間を)構成するということは音楽であっても映画であってもそうだということでいえば、音楽と映画っていうのは相性が良いということなんでしょうかね。だからそれを、その音楽が映画と相対していくことをどう空間化するかって考えていたときに、ふとシーケンスが頭に浮かんだんですよ。例えば編集ソフトとか、フィルム編集で言うとポジフィルムのラインって言ってもいいんですけども、そこに何トラックも音楽を合わせていくときにキューがあるじゃないですか。ここから音が始まる、ここで音が終わるっていう。それをスクリーンで指示を出してみたらどうなんだろうって。まあ最初は、意地悪な気持ちもあったんですけど。すごく気持ちよく歌いあげている途中でも、テンカウントが出たら、非情な意思でね、一〇秒後には必ず終わってもらう。別の誰かが歌ってる最中でも、あなたのテンカウントが出たら(前の歌に合わせるのでなく)そのタイミングで歌い始めてくださいって。指示だけが勝手に出されていく。先ほど池田さんが、こういう風になると思わなかったと言ってたニュアンスですよ。音楽側の欲望とは違う、映画の意図って言ったらいいのかな、それのもとに音楽が区切られていくことを生でやってみたら、それは映画音楽ということのライブでの表現になるのではないかと、チラリと思ったりして。
小沼:最初に演劇的といいましたけど、そこに生の人がいて声を出していること、映像があるけれど、それに音を重ねていって、しかもこの日夏耿之介訳の『サロメ』っていうのがあるので…。それに、最近の演劇っていうのは、ステージの上に映像とかがあっても全然おかしくない。演劇と言ったのは、そういう意味だったんです。一方でリュミエール兄弟でもサイレントでもいいんですけども、そういう時代には映画があって、そこに生演奏をくっつけるっていうのをごく普通にやっていた。そしてそれは何をくっつけてもいい。決まっているわけではない。いや、生演奏でなくたって、そうですよね。『スター・ウォーズ』だっていいんですけど、ジョン・ウィリアムズの曲じゃなくても、別の人だって曲書いてもいいわけです。たまたま、それが完成した形だったらばね。そういう意味では映像と音楽が恣意的な繋がりしか持っていない。演劇なのか映画なのかというのは、ああいう舞台空間とか空間を作っちゃったら、どっちにもなっちゃうから、そこが難しいな、っていう話ではないでしょうか。スクリーンがあって流されるものを見る、私たちはそれが映画だと思っているんだけども、でも、ならば、生声を加えちゃいけないのかっていうことを、逆にあの作品、あの試みは問うていたわけですし。さらに文字がかなり出てくるので、それを読まなくちゃいけない…まあそういう意味では「メタシネマ」ですよね。
七里:一方向に視線を集中させるっていうのも、映画というものの…
小沼:一種の制度ですよね。
七里:そこを、やんちゃにっていうか、集中できないものにしてみるというか。
小沼:映画でなくてビデオ・アートの世界では、ナム・ジュン・パイクのように、ブラウン管を持ってきたりだとか、ありますよね。それが現在のメディア・アートに受け継がれて、複数のものを持ってくる、ならべてしまう、という流れがある。けれど、それが映画というと、とたんにひとつのもの、ひとつのスクリーンとなってしまう。
七里:映画と標榜しておきながら、そういうことをしてみたら映画とは何かっていうことを、僕自身が再考できるんではないかというのはあったりしました。…何言おうとしたんだっけな。忘れました(笑)つないでください。
池田:ちょっと今思い出したのが、『DUBHOUSE』の時にご覧になったお客さんが、「これは映画なんでしょうか」と監督に仰ったってことを伺ったんですけども
七里:ああ、それは束芋さんです。束芋さんが試写を見て下さって、直後にそう問いかけられたんですが、僕が「映画です」と答えたら、アートと言えばアートと言える、むしろアートといった方が通りがいいだろうものを映画だとはっきり言ったことにいたく感動したらしく、そんなメールを後からいただきました。
池田:アートっていうことと映画っていうのは区別しなければいけないんでしょうか。
七里:いやそんなことはないですよ。それを言ってしまうとジャンル化されてしまうじゃないですか、作る側は、束芋さんもそうだと思うんですけど、さほど考えずにやるんですよね。できあがったものが結果的にアートになるというか、アーティストだからアートになる…だから、そういうことの不愉快さを表明されたんだと思いますけどね。
小沼:それが、さっきも話した制度っていうことなのかもしれないけれど…縦割りに、この人はこうやってるから、こういう人だって言ってしまっていいのか、って話ですよね。ただ、欲望ってそういうものではないんじゃないか。欲望がどうあらわれるか、っていうことでしょう。ある人は声を出す、ある人は映像を出すという、そういう話であって、それが複数的になるということが多々あるわけです。ウォーホルでもいいし、誰でもいいんですけど…ウォーホルも映画撮ってました。なぜそういうときに制度的な話だけをするのかなっていうのはひとつある。でも七里さんは「映画」なるものにこだわっているっていうところが問題なんですよね、きっと。
七里:なんでこだわってるんですかね(笑)その話を突っ込んでいくと、言葉に詰まるだけのような気がするんで、別の話にしようかな(笑)。サイレント時代には、スクリーンに投影される映画に対して生で音を付けてましたよね。それを模倣というか、今改めてやってみることは、ちょっと意味が違うというか、変わってくるなと思ってて。「スコラ」(NHKの番組)でも、「電話帳」でしたか、「あんちょこ」みたいなものがあったという話があったと思いますけど、(註:一九世紀初頭、映画上映に音楽をつける際に、あらかじめ用意された譜面からピアニストがシーンの雰囲気に合わせて曲を選び、演奏するという方法がとられることがあった。その譜面のことをここでは「電話帳」や「あんちょこ」としている)映画に対して音を付けていた人たちっていうのは、その人たちの欲望は満たされながら演奏していたと考えていいんでしょうか?
小沼:音楽家たちのですか? 映画館で弾いている音楽家たちには欲望なんかなかったと思いますけどねぇ(笑)。やっぱり雇われてというか、仕事でやってたんじゃないでしょうか。ほかで食えないから映画館で、ってよくある話だったし。
七里:あ、欲望というのは、こういう映像がドカンとくるからここは音をこんな風に伸ばしておこうとか、そういう意味での欲望なんですけど。
小沼: なるほど、そういうことはあったかもしれないですね。ジョン・ウィリアムズなんかがやっているようなやり方とはちょっと違いますよね。しかも、サイレントの場合、音・音楽はフィルムに定着されるものではなくて。その時々で消えていく。だとすれば、ちょっと違うものなのではないかなあ。
七里:それが録音で、サウンドトラックを作るようになって、ある種のディレクションっていうのかな、構成的に、ここのカットまでとか、音をはめていくことになるわけですよね。それ以降はサウンドトラックと映像との間にものすごい戦いというか、(音と映像は)併走してはいるんだけども、そこには埋めようのない溝があって、その緊張感が結果的に映画に力を与えたりすることがあるのかなと。
小沼:それは、「電話帳」みたいにその場その場でつけるとか、あるいはオーケストラでも、ここはこう、という風にあらかじめ指示しておくようなやり方をしていた時代と、この映画を上映するときはこのスコアでしっかり流すよっていうのとは、かなり異なっていると思うんです。サン=サーンスが作曲した『ギーズ公の暗殺』(註:一九〇八年。映画音楽史上はじめて、映像に合わせて音楽家がスコアを書いた曲といわれる。カミーユ・サン=サーンスは一九世紀後半から活躍した著名な作曲家)というのは、スコアがちゃんとあるわけです。そうすると、ある時間内にきっちりと収めることになるし、この映像のこの箇所だから、この音じゃなくちゃ、という風になる。ある程度作曲家も意図しているわけだし、そうしたところで責任みたいなものが生まれてくるのだと思うんです。そういう時期があって、さらにそのあと実際にサウンドトラックをくっつけるっていう時代になってくるのかな、と。
七里:生演奏上映みたいな形式も、何度か僕らは試していて、まあその際に池田さんとも知りあったんですけど、上映に合わせてお約束というかスコアに基づいた音を、音楽を生で付ける、そういうことではない何かを今回やってみたかったんですよ。で、それができたかどうかは分らないけど(笑)。でも、ライブであっても欲望に流されることなく音楽を構成して、というか分断して戦わせるというか。というのも、最近の映画ってサウンドトラックが映像に張り付いてしまっている、という印象があって。映画と音が、よくいえば親密というか、親和性が高くなり過ぎてきている。それがいつ頃からなのかも気になっていて。例えば八〇年代くらいにMTVとかが現れたってことがあるのかもしれない。映画と特に音楽が、非常になんかこう、べったりしてしまっていて、それがどういうことなのか考えてみたくて。無理矢理にでも引き離したいというか。
小沼:さっき打ち合わせをしていたときにそういう話をされていましたね。なんでもいいですけど、これが例えば(手元で実際に物を動かして)タッと音がするとして、もう一回やれば違う音がでる。だけど映画だと、あるものが映っていて、その音がするっていうのは、だいたいそのときの音ではない。あとでくっつけたりしている。そういうことが、いつのまにか当たり前と思われてしまっている、っていう話でした。で、映画の場合、同時録音ということは最初からあまりしていなかったし、できなかった。あとでそっくりの音を付けるということをやってきた。みんなそれが当たり前だと思っていたのに、いつのまにか、今、目の前で実際に起こっている音なんだ、あるいは映像と同時録音であるかのように考えてしまうようになった。それはなぜなのかな?ということがあるわけです。それはもしかしたらホーム・ムービーとか8mmとかそういうものに由来しているのかなって話でした。
七里:ええ、でも8mmってやったことある人は分かると思うんですけど、画と音は別々に撮(録)って合わせるものだったから、もちろん(同時録音できる)サウンド・カメラってのもあったけど、それだって画に対して音が入っているコマがずれているから、映像とサウンドトラックがある、別れているっていうのが身体性をもってとか言うと大げさかなあ、感じられるメディアだったんですよ。それが、ホーム・ムービーが、例えばHi-8のようなビデオカメラになっていったときに、映像を撮ると音も自動的にクリアに録れてしまうことが当たり前になった。これってものすごい変化だし、ある意味でリアリティが歪んでしまったのかもしれないと思うんです。だって、昔はこうして見えているものを複製するには、目に光が入って網膜に像を結ぶように、レンズを通してフィルムに定着して、現像して初めて…だったわけですよね。それに音を付ける、映像から音が鳴るということは、見えていることと耳に振動が伝わって音が聞こえるのを頭の中で合わせて現実を認識することとはずいぶん隔たりがあったような…。ヴァーチャル感みたいなことが流行ったのも、まだ少なくとも日常での現実認識との違いがはっきりしてたからで、それがいつの間にか(映像と音が)なんか張り付いてきている。同じ感覚というか、視覚と聴覚が別ではなくて一体化してきている。それはデジタルというか、こじつけかもしれないですけど、デジタル環境になったときに 音楽も映像も同じメディアで扱われるようになったこと、それが凄く大きいんじゃないかとも思うんですよね。
小沼:iPhoneで撮ったりすると、自然と、映像と同時に音も入っています。我々には普通になってしまっている。でも、確かにその感覚はいつからなんだろうと考えてみると、八〇年代、九〇年代くらいで、二一世紀に加速したということになるかなと。映画の場合、そういうずれが逆に出ていると、ゴダールみたいな例がありはするけど、すごくびっくりしちゃうということもあったり。
七里:びっくりするとともに、それが面白いことであると。映像と音が別ものであっていい、むしろ別ものであるはずなんですよね。そのふたつの時間というのが非常に緊張感を持って相対したときに、どこにあるのか分からない時間が浮かび上がってくるっていうことなのかな、と。
小沼:映像の物語、物語の物語、音楽の物語と、じつは別々の時間が流れているわけです。ただ、それが一致しているっていうのがTVでも一般的な映画でも多くて、見ている人は大体衝撃的なシーンとか、そういうのばかりを見るわけでしょ。別々の時間が流れているっていうのが意識されないんです。
七里:そうですね、別々だと思わせないようにするのがプロの仕事だったりもしますもんね。
小沼:そうですね。
七里:極端な話、音がずれてたりするとそれは商品にならないみたいな。でも実際は、デジタルになると皮肉なことに、きちんと合わせていても、再生環境によってずれちゃったりする場合も往々にしてありますし。
小沼:最初に言っていたベッタリっていうのは、一定の時間が流れているとか、一定のタイムコードが流れている、そんな感じですかね?
七里:そうですね、いやこれはねぇ、これが違和感の源泉だったりもするので、逆に僕が何故こういう違和感を感じるのか知りたいんですけども(笑)。
小沼:そこを解き明かしたらこれが終わるんですね。(会場笑)

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七里:終わらせたいですね(笑)。何かヒントをください(笑)。あの、例えばデジタル化で言えば、音楽のほうが先に、八〇年代にデジタル環境に移行しましたよね。
小沼:ごく一般的には、普通のLPなどがあってそれがCDになったときに、あまり違和感はなかった…、いや、違和感はあったんですよ、すごくあったけど、まあメディアが変わるだけぐらいにしか思っていなかった人が多かったのではないでしょうか。CDでは聴覚には訴えかけないような周波数が落ちてしまう、というような問題はありました。でも、そんなことはどんどん忘れられていったわけで、ごく普通にLPもCDもそれぞれあるねっていうような感覚でいたりした。それらが実は全然違うんだよっていうふうに思うようになったのは、たぶん、九〇年代の終りから二〇〇〇年代になってからでしょうか。で、それはやっぱりダウンロードとか、あるいはmp3で圧縮するだとか、あるいは人にすぐ送れちゃうだとか、そういうことになったからですよね。で、それを、心ある人は凄く嫌いっていって…私は心あると思ってるんだけど(笑)。まあ、「コンテンツ」なる呼び方もそうです。音楽をコンテンツっていうふうに言うようなやつはもうどうにかしたいよっていうのは本音で(笑)。音楽はコンテンツじゃない。
七里:映画もコンテンツって言われます。
小沼:言うんですよね。だから、そういう連中をどうにかしたい(笑)とは思いますけどね。
七里:池田さんは、最初からデジタル環境で(音楽を)されてたんですよね?
池田:そうなんです。元々が…どこから話そうかな、音楽を始めたきっかけみたいなことを言うと、パソコンを買ったからなんですよね。いや、それまでにも実は楽器とかちょろっとやったことはあったんですけども。MTRとかで作ってたこともあったんですけども、面倒くさいんですやっぱり。で、僕がなんか、機材が嫌いで、楽器とか買い集めるのが…嫌いだったんです。だから、何とかレコーディングマガジンとか買うんだけど、読むとこ無いんですよね、ほとんど機材の話で。これはついて行けないなっていうんで、Windowsを買ったのが二〇〇一年とかで。それで、いわゆるノンリニア編集といいますか、それができる中で、音も作れるっていうことが判って、ま、手軽じゃんみたいな感じで始めたわけなんですよね。
七里:ノンリニアって、映像でもデジタルになることによって実現したんですが、ノンリニアで音楽が編集できるようになったことで、どんなことが変わってきたんですか?
池田:そうですね、ちょっと僕はうまく言い表せないんですけど、例えば楽器をやってる人だったら、楽器の録音にPCとか使ってたら、この部分が気に入らないなってのが編集ソフトで見てると見えるから、そこだけすげ変えるとかいうのは、いくらでもできるわけですよね。あと、今回生演奏でもやってるんですけど、一応、録音として完成された曲もちゃんとあるんです。それでいうと、最後もの凄い合唱でやってるとこあるじゃないですか。あれがもともと全然リズム揃ってないんですけども、あれのビートを全部揃えるって作業を一ヶ月ぐらい掛かってやってるんですね。それがまさにノンリニアじゃないとできなくて。ここの差みたいな、要するにまあ、子音と母音の間隔が気に入らないから、そこだけ詰めるとかっていう…
七里:その気に入らないって感覚はデジタルじゃないですよね?(会場笑)
池田:まさに。アナログですよね。
小沼:一応生体だから。サイボーグじゃないから(笑)。
七里:でもそこなんじゃないですかね? デジタルを使っても何かが作れるっていうことは。
小沼:いや、完全にデジタルで音楽をつくるっていうのはありえないみたいですよ、やっぱり。出てる音はアナログですから。完全にデジタルでやろうっていう人もたまにはいますけど。数列から直接オンラインにするとかっていう。
池田:僕もやったことありますけども、あんまり面白いものは作れなかったです。
七里:なるほど、ノンリニアの話に戻ると、ノンリニアっていわれてピンとこない人もいると思うんでちょっと説明すると、ノンリニアの前の編集をリニア編集だとして、映像の場合で説明すると、リニアの頃っていうのは、要はフィルムであればフィルムを部分的に取り出して、こことここをこう繋ぎ変えましょうとかっていうのはできたとしても、基本的には、前から後ろに向かって繋いでいくものだったんですよ。それはビデオでの編集でも、例えば二台のビデオデッキを操るミキサーみたいなものを通して、こっちのラインからこっちのラインへこう繋いでっていうのは一直線の流れだった。それがノンリニアになると…
小沼:コピペできる。
七里:そう。コピペって、あれはものすごい変化ですよ。頭からお尻に向かって時間を繋いでいく映画の作り方って言えばいいのかな、編集するという行為に一昔前まではもっとすごい負荷がかかってたと思うんです。(編集を)やり直すことも大変なことだったし、一回切ったものを、っていうのは、(フィルムの)編集部のやり方で言えば、技師がフィルムを転がして、パシッとハサミいれて切ったとこを助手に渡す、それに助手がナンバー書いて束にして、第一編集の束、第二編集の束と作っていくんですけど、それを監督が「あそこさあ、やっぱりもうちょっとのばしたいんだけどな」って言ったとたんに大騒ぎになるわけですよ。それって第二編集の? それとも第一のときの?って助手さんが手間取ると編集のリズムが狂うわけだから、スクリプターと助監督とでこそこそっと確認し合って教えたり。もちろん察しが良くてさっと出してくる優秀な助手もいるんですね。たぶん、そうやって助手は編集を覚えていく。逆に全くトンチンカンな事態にもなるわけで、「コレじゃない」とかね、そうなると編集も現場だし生ものだから調子が狂ってしまう。「素人じゃねえんだからさ」とかね。だから、ハサミをいれる側もそうですけど、いれさせる側もどこで切るかっていうことにものすごく神経を使うし、ある意味気合を入れてやってたと思うんです。それがパソコン編集だと、アンドゥで何度でも簡単にやり直しができちゃう。コピペの威力ですよね。
池田:だから永久に終らない可能性もあるっていう。逆に言うと、決め手が無いんですよ。これどうしようと思うんですけど、どうされてます?
七里:だから、割と頭から順番に繋ぐんですよ、いまだに僕は。パソコン使ってても。
池田:でも、ここだ、っていうポイントは分かるんですよね、もちろん?
七里:ええ、まあ。フィルムのときとほとんど同じ感覚です。アナログな感覚です。
池田:僕だったらせいぜい、前後一〇〇ミリ秒ぐらいしか分からないんだけど、それがその、長大な、何十秒とかっていうのができるのが凄いなって僕は思っていて…
七里:そうですね…なんか映画昔話みたいになってきましたけど(笑)、僕は最初の頃はピンク映画の助監督とかもやったので、35mmを切った貼ったで、“切った張った”ってなんかヤクザ映画みたいですけど(笑)、編集マンってほんと凄いなあって感心しました。全部頭に入ってますもん。芝居も全部、何テイク目の何で、どこが悪いとかっていうのが全部頭に入ってることにプロは凄いと思った。で、それができるようにならないと編集マンにはなれない、その為に助手時代っていうのが何年もあるっていうものでしたね。
小沼:時間感覚でいうと、クラシックの作曲家に近いかもしれないですね。全体像っていうのが頭にあって。
池田:全体像がないとやっぱり書けないものですか?
七里:記譜する、できるってそういうことですよね?
小沼:まあ、そうですね。でも、人によっては、段々見えてくる人もいるわけです。テーマ作ってそれから展開していく中で、あ、ここはやっぱりこうかな、っていう人もいるとは思うんです。ただ、まあ一応と言ってもいいでしょうけど、全体像っていうのを見ていく。だから、現代音楽の作曲家なんかで、ほんとに一ページずつ、初演に向けて、今日二ページ届きました、最後のページがきたのは前日でした、という人もいて(笑)。でもそれまで順番にきているからいいじゃん、と。なんでそんな順番通りできるんだろう、って思ったりもしますよね。原稿はそんなふうに書いていかないし。
七里:頭の中にすでに使う音が全部あってそれを順番にってことなんですかね。
小沼:そういう人はね。でも、私だったらっていうか、やっぱり全体を構成して、それからじゃないと渡せないな、とは思いますけれど。
池田:全体の時間感覚を持てるっていうのが、デジタル世代にとっては厳しいのかもしれないですよね、逆に。モニター上でいじれるから。見えてるわけだけど、じゃあこのAの部分を一五秒やって、その次どうしよう、みたいな選択ですよね、それってちょっと思いつかない。逆にちゃんと勉強しないとこれは駄目なんだなっていう気はしますけどね。
七里:人の能力が変質していってるんですかね。無限にできるとさっき仰ったじゃないですか。だから、昔の編集は今から考えるとほんと大雑把なことしかできないわけですよね。腕を上げたとこで切るか、腕を下ろしたところで切るかっていう。上げたところで切るにしても、その上げ方のこの部分とかそういう拘りが無限にできてしまうわけですよね。だからそういう感覚が非常に鋭くなってしまうってことなのかしら。でも、古い世代を代表するつもりもないですけど、大雑把にバシンとこう切られた、この芝居をここでダンと割ってバンと続くみたいな、そういうことの力強さみたいなものが、映画から無くなったわけではないけれど、なんかね…そういう骨太なものへの郷愁みたいなものって、音楽ではあったりするんですか?
小沼:それは郷愁なんですかね?
七里:どうなんでしょうか。
池田:僕は無いですね。元々。
七里:細部を積み重ねていくっていうことでしか?
小沼:まあ、ただ無限にできることの郷愁もあるかもしれないし。無限にアンドゥできるっていうことが良かったなっていう時代はこないとは思いますけど…。これじゃないとできないんだよっていう…命懸けてる人もいるかもしれないし。
七里:それはまた別の何かが?
小沼:生演奏っていうのはしょうがないですよね。
七里:(音を)出したら終わり。
小沼:うん、だからやっぱりそういう意味では、作曲をするって言っても、紙でするのかあるいは、ほんとに音作りをしていくのかっていうのでも全然違ってくるし、演奏行為っていうのも違ってくるだろうしっていうところはある。
池田:そうですね、だから例えば最近の作曲家はみんなFinaleとかそういう譜面ソフトを使って書くのね。コピペとかもできるし、結果を音でも、しょぼいMIDI音源で聴けるわけですよね。だから、それによってやっぱり変質してるところがやっぱりあるみたい、なんですかね。いらない音があるかもしれないし、僕なんかちょっと分かんないですけどね。モニターで見えるとか、結果がすぐ取り出せて、それを検討しながらできるっていうのがデジタルの特質だと思うんですけども。
小沼:さっき池田さんが話していたことで面白かったのは、いまは、ひとつの曲っていうのは長さがあっても、みんなそれを波形で見えてしまうっていうところです。どんな曲でもこう始まってこう終るって波形でわかってしまうから、聴かなくてもどういう曲であるか大体見当はつく、と。
池田:そう、だから最近、SoundCloudってサイトがありますよね。で、そこにいろんな人が俺のリミックスを聴けーみたいな感じで上げてたり、録ってきた音を載せたりしてるんですけども、あれなんか画面開いた瞬間に波形がね、最初っから最後まで全部見えちゃうわけですよね。だからこういうダンス系の曲だと、ここに盛り上がりがあってーみたいなのが、もう見えちゃうわけですよね。
七里:あーなるほどね。でもそれってもしかしたら、映像でもできるかもしれないですよ。
小沼:うーん、映像の波形…?
七里:波形とは限らないですけど、要はデジタルに変換するってことは、同じような状態になるわけですよね、信号になるってことだから。何がしかのカラー・スケールみたいなものを毎フレーム表わすことはできるはずだから、可能と言えば可能なはずだけど…
小沼:明るさとか色は、ある種のグラデーションがでてくることはあるかもしれないですね。
七里:実際、パソコンの編集ソフトとかのカラコレでも色をいじったりするときにはそういう波形というかカラー・スケールを出したりするものなんですよ。で、そういうことでいじられた色と、フィルムのタイミング・マンとかオプチカル・マンとかが、撮影部や監督から出た要望をこのぐらいの温度でこのぐらいの時間で焼くと、そうなるという感覚って、多少違ってるのかもしれないですね。
小沼:この前の映画(『映画としての音楽』)のなかで印象的だったのは、夕陽だかなんだかのシーンがあって、鳥がこう飛んでるけど、あれ波が逆行っちゃったりするわけです。一回沈んでいったのが…とか。あのシーンは結構長かったけど、あの長さの中で色々変化があるっていうのがすごい良かったんですよね。
七里:ああ、あれは(ミヒャエル)ハネケの『ファニー・ゲーム』です(笑)。どこが?って言われるかもしれないけど(笑)。あの映画で、悪魔のような青年たちが押しかけてきてその家の家族を監禁して無情に惨殺していくんだけど、女の人が、母親だったかな、隙を見てやっと逃げ出したと思ったら、(悪魔のような青年が)ビデオのリモコンをパッと手に取ってピッて巻き戻しボタンを押す、そうすると、キュルルルルッて時間が戻って捕まっちゃうんですよ。まあその青年たちっていうのは、人間ではなくて神っていうことなんだろうけど、あの感覚ですね。時間を巻き戻す、切り取られたその時間を、再生するとか巻き戻すとかの恐ろしさっていうか、戦慄みたいなものですけども。
小沼:今思い浮かんだすごい低俗な例は『オースティン・パワーズ:デラックス』ですね。あの冒頭のところで、リモコンをつかってヘンな早送りとかしちゃう。
七里:だから、(映画は)時間を自由に操る、そういう欲望に答えるメディアだっていうことなんですかね。本来、神をも恐れぬ行為なわけじゃないですか。音を連ねて、映像を連ねて併走させることで時間を創造するわけですから。もっと畏怖すべきことだったはずが、もの凄く安易になってる。それが、サウンドトラックと映像の距離感にも表れてるってことなのかな。親しき仲にもなんとやらじゃないですけども、なんかほんとに癒着しちゃってる感じがして、あれは何でなんでしょうね。
池田:さっき七里さんが、MTVとかっていうのは音楽に映像をつけるっていうふうに仰って、それが、わりかし通常化しているっていうか。一方でそういうのが増えてしまったっていうのは、一つの商売だし、あるいは表現形式になっているっていうのは確かにありますよね。で、それに対して、じゃ映像があって、それに対して音はどうか、っていうようなあり方が、どの程度、いま仰られたような形で乖離した状態でつけられるか、っていうことなんだと思うんですけどね。
七里:あの空間(『映画としての音楽』)は闘技場のイメージでもあったんです、画と音との。客席はそれを見るようにしつらえたっていうか…。MTV的なことで言えば“ノセる”って言葉がありますね、音楽へのノリがいいとか映像をノセるみたいな。そんなに俺たち仲よかった?みたいな(笑)。でも僕、まさにそのMTV世代で、実際に『時をかける症状』という最初に撮った8ミリ、高校の文化祭のために撮ったものだったんですけど、それがぴあで入選したとき、実は、松本俊夫さんか大島渚さんだったかどちらかに「MTV世代の感覚」って言われたんですよ。確かに自分より前の世代だったらテーマがあって、物語を作って、映像を撮って、こうできたから、音楽をどうしようかとか、そういう音楽へのアプローチが普通だったんだろうし、ひょっとして発想が逆転してたかもしれないなあ、と。だって「地平線上のドーリア」(武満徹)のジャーンていうとこで、わぁーっとズームバックしたらいいんじゃないかとか、そういう風に考えてましたもん…。
小沼:効果としての使用っていうのが先にあるということですか。
七里:あ、なるほど。
小沼:例えば昔のハリウッド映画っていうのは、わかり易いのは、トムとジェリーですけど、階段から人が降りてくるのが、音階とともに降りてくる。それで、こういくとね、(動きに合わせて)ヒューっていくわけでしょ。音がそのまんまなぞるっていう、いわゆるミッキーマウシングですかね。そういうのに慣れてしまうとむしろ、音が鳴っていると、こういう映像がでるっていうのが、分かってしまうっていうか、見えてくるっていうことはあるかもしれない。でも実際、オーケストラ・スコアとかを見ていて、「眺めて」いて、と言い換えたほうがいいかもしれないけど、あ、ここらへんはこうひびくよな、っていう映像的な感じを持つことがあるわけです、たまに。それに近いのかなっていう気がする。
七里:それは共感覚的なものだったりもするんですかね。
小沼:うーん、ちょっとちがうかなあ……。
七里:アナロジー? アナログってことですかね、それもまた。
池田:こういう形のものがあるから、こういう音がするであろう、とかね。
七里:そういう発想で、作品が、映画にせよ音楽にせよ、でき上がっていくということは、別に新しいことでもないような気もしますね。なんか古典の時代から…
小沼:だからデュシャンとか、ごく初期の実験映画とかって、ポーンとかってこう、丸が出たりするじゃないですか。それに近いのかな。
七里:でも効果としてやってるうちは、もしかしたらまだましで、効果でもなんでもなくなっているっていうか…
小沼:条件反射になってしまう。パブロフの犬状態みたいな。
七里:っていうことなのかなあ。映像で起きることっていうのは十年前に音楽で起きているっていうのはどこかで聞いたことがあるんですが、要は、ウォークマンで、それこそ80年代ぐらいから音楽を聴くようになって以来、音楽はいつでもどこでもどこへでもになった。今、iPhoneなんかでどこでも(映画を)持ち出して観れるようになってきたわけですよね、ま、スクリーンに映ってなきゃ映画じゃないという人もいますが、でも観てるものが映画なら映画だということになってしまいますよね。
小沼:『それぞれのシネマ』っていうのがありましたよね。映画についての映画を色んな作家たちが、三分くらいでそれぞれ作った…。それで、『裁かるるジャンヌ』を映画館で見ている人がいて、iPhoneでそれを映しながら「いま『裁かるるジャンヌ』を観てる、素晴らしい」と。で、誰かのところにジャンヌの顔が映っているという作品があったんですけど、まさにいま言っていたことですよね。いつでもどこでも、という風になってしまっている。
七里:そうなった果てに映画がどうなるのかなって考えると、音楽がウェアラブルというかモバイルになったことが、ヒントになるような気がして…デジタル化を経て今、そんなに変わってないんですか、音楽は? 音楽全般…。
小沼:変わってないかもしれないと、思うんですけどね。ただ、モバイルで聴いてるのって音楽なんですか?っていうふうな問い方も、当然できるわけですし。三輪眞弘みたいに、それは“録楽”と呼んだほうがいいんじゃないか、音楽っていう呼び方をするものじゃないんじゃないの、っていうのは、確かにありますよね。ただそこは、うーん、どうなのかなあ。
七里:録楽というなら、音楽って一度、録音という大きな変化を一九世紀に経てますよね。それによる変化はどうだったんですか?
小沼:かつては「今・ここ」にしかないものっていうのがあって、「今・ここ」で鳴ってるっていうのは、同時に演奏者が見えているってことでもあったわけですよね。だけど音楽が、いつでもどこでもという状態になってきて、そうすると見えないっていうことにもなる、という。それで時間性とか、特定の場所性っていうものを失っていくということです。
七里:じゃあ音楽において、録音という技術で時間性がクローズアップされ場所性が失われてきているなら、データ化される以前の録楽に(レコード盤とかテープとか)物質性があったってことは、もしかしたらすごく特異なことだったっていう…そういう特異な一時期だったっていうことですかね?
小沼:え?
七里:まあ複製文化というようなものが現れて、取沙汰されるようになったのが19世紀からだとして、これが今どこへ向かっているのかというのはもう全く手に負えない大きな問題なんですが、もしかしたら(複製文化が登場する以前の時代に)先祖帰りしているのかもしれないという気もちょっとしていて。
小沼:有り体な言い方をすれば、どんどんダウンロードできて、モバイルに音楽が入ってというような環境の中で、逆にライブに行く人の人口が増えているっていうようなことが、まあいわれたりはするわけです。路上ライブでもいいですけど、生でモノを聴くっていうことも増えるとかいうこともたしかにあるのかもしれず、一方で、池田さんもそうなのかもしれないけど、楽器ではない何かを使って自分が音を作るっていうこともある。昔は、音楽家は「別」の人だったわけでしょ。(観客は)作ったりとか出してきたものを享受するっていうものだったのに対して、もっと自分が参加したりとか自分で作っていくっていうことが一方であったりする。様々な享受の仕方っていうのはあると思うんだけど…で、そうした中で、かつての音楽というか、始まりがあって終わりがあるわけではない音楽もいっぱいあるわけじゃないですか。それを音楽と呼ぶのかどうかも問題あると思うんだけど。
七里:それって、YouTubeにたくさん上がっている映像を映画と呼ぶかどうかっていうことにかなり近いですよね。
小沼:うん、そうですよね。どうすんのっていう話ですよ(笑)。だから、それはもうその人の感性によるとか、ある種自分のロジックでこれは音楽じゃないっていうのかっていうことになりがちです。それは纏まりがつかないとは思う。
池田:作ることの消費ってある。まあ受け手もそうなんですけど。で、収集がつかなくなる。だから僕なんかが思うのは、いや分かんないですよ、思い込みかもしれないんだけど、みんなが作れるようになったからなのかも知れないけど、ちょうど二〇〇〇年ぐらいから、音楽雑誌ってのが減ってきたみたいなことがあって、作り手がでてくる、どんどんどんどん、語り手が交代していったっていうのは感じますよね。
小沼:そうですね。一方で私が思ってるのは、美術におけるワークショップとかね、増えてるじゃないですか。「アート体験」とかいうじゃないですか。すごい嫌いなんですけど、実は(笑)。安易にアートとかいうなよ、って思うわけですよ。子どもとか、或いは一〇代でも二〇代でもいいんですけれど、参加しただけで、それでアートです、とかいうでしょ?  その一方で、ヨーロッパや日本の美術の展覧会をやっているわけじゃないですか。それらをすべて一緒にアートっていっていいのか、って私はしょっちゅう思うわけです。もちろん、自分で作ったりとか触れたりして、感じるのはいいことだと思うし、感性を豊かにするとも思う。でもそれと、これまで積み上げられてきた何かを鑑賞するっていうのはまた別のことで、同じ「アート」って言葉を使うとどうしてもなにか一様のものになっちゃうんじゃないかな、と。もちろん英語のアートだったらいいけど、この列島に持ってきたときにその語をもともととおなじようなニュアンスでつかえるのか、と。それは音楽も同じで、楽器の音をだすのは楽しいかもしれないし、声をだすのも楽しいかもしれないし、パソコンで何かをするのも楽しいかもしれないけど、一方で、やはりそれまでの作品へのリスペクトみたいなのは、ヒップホップ的なリスペクトではなくても、あるはずで。そういう中で、いま言ったアートと同じように、音楽というものをどう考えるかっていうことはあると思う。例えばiPhoneで黒猫の映像とか撮ってみたりすると、可愛いじゃないですか(笑)。だけどそれと、フィッシュリ&ヴァイスの猫がミルク飲んでいる作品がありますけれど、ああいうものを同一にしていいのか、っていう話ですよね。
七里:結局、後戻りができなくなってきているっていうのは、二回目の渡邊さんが言ってた通りで、僕はソーシャル化の話を聞けば聞くほど、そこから何か僕が得るヒントはないって思ってしまったんだけども(笑)、でも、デジタル化と同じように後戻りできない、で、その中でどうしたらいいんだろうと考える中では、やっぱり時間っていうことを、また戻ってしまいますけども、その、時間を切り出してくっていうことの、意義を考えることしかないのかなっていう…だから、文字で連ねていく、さっきの雑誌の話でいうと、批評が弱体化していってるってことですよね、それは言葉の方もっていうことですよね。言葉を使うこと自体も、まあ有り体に言うと、想像力の弱体化とか欠如とかって言われてますけど、言葉に対する切り結び方みたいなものかな、ものすごく安易になってきてるみたいな。だから、ほんとに今回のサロメは、「院曲サロメ」、日夏耿之介のこれに出会わなければこんなことを始めることはなかった、日夏訳のこれっていうのは、まさに切り結んでるっていうか、訳すっていう、違う言葉にすることから、もの凄い創作が生まれていて、言霊を信仰しているわけではないですけど(笑)、でも古井由吉とかほんとに凄いと思うのは、あの人はマジで言霊って言いますからね。
小沼:一日かけて一行書けるか書けないかなんでしょ?
七里:はい、いやでも、“杳子は一人深い谷底にすわっていた”とか「行隠れ」だったら“姉はその夜のうちにこの世のものではなかった”とか、ちょっとうろ覚えですが、冒頭の一行目でもうガーンってなるっていうか(笑)。それはもう一日一行しか書けないことの何かなのかもしれないですね。すいません、なんか纏まらないですねこの話は、いつまでたっても。それは当然なんですけど。ちょっと時間押しちゃった上に、そろそろ終わりの時間になってきているもので、纏まらないってことで終ってもいいですかね、今日はね。
小沼:纏めようと思いました?
七里:思いません(笑)。
(会場笑)
小沼:じゃあ、いいじゃないですか。というか、こういうのは答えがでるものではないですから。やっぱり、こういう所にいらしている意識的な方々にお持ち帰り頂くという、それがこの場の意味なんじゃないでしょうか。
七里:はい、ということで持ち帰って頂ければと思います。ええと、今回で、“映画以内、映画以後、映画辺境”は一旦区切りにしようと思ってます。で、ちょっと充電期間をおいて、いつか何がしかの形でこういうことをまたやってみようかなとは密かに思っております。
小沼:今日までに少し予習していたんですが…頂いた資料の中に、『眠り姫』のパンフレットありましたよね。その中にチャートのようなものがあって、あれを見たとたんに、これ以上予習をするのは止めよう、と思ったんです。すごく面白いものが載っているので、もし機会があったら七里さんの『眠り姫』のパンフレットをお読みになるとよろしいのではないかな。で、それがどんな過去の映画作品と自分の作品とかとの関わりがあったかということが書かれているんですよね。特に音とか台詞がある作品、或いは人が出てこない作品とかっていうような中で七里作品を観るのっていうのは、これは面白いな、って…。妙に、枠つけるの好きですよね、七里さん、自分に。
七里:あ、そうですね、職人でありたいっていう妙な欲望があって。で、アーティストなんて絶対になれないと思うんですね、何か枠がないとできないんですよ、その中で考えることしか。例えば今回で言えば、ライブで映画をやってみるということとかなんですかね。
小沼:そういうことも色々ちょっと感じたりしたことは、楽しゅうございました。ありがとうございます。
七里:てなことでちょっとすいません、なんかまとめられなかったんですが、これにて、閉会したいと思います。長々と、ありがとうございました。

会場:渋谷アップリンク・ルーム

※各回の要約があります。↓

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