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第7回(第二期四回)「彼女の声が響くのは、そこに彼女がいるからとは限らない」〜デュラスはサウンドトラックと映像をどのように考えていたか?〜 2015年1月28日 登壇者:小沼純一×吉田広明×七里圭

七里:では、ぼちぼち始めたいと思います。この会を催させていただいております、七里と申します、今日はよろしくお願いいたします。これは「映画以内、映画以後、映画辺境」というタイトルで、二〇一四年のちょうど二月の二日が第一回だったと思います。なので、おかげさまで一年つづけてこられまして、年も明けてめでたいかと思いきや、世の中も私の身の周りもあまり明るい状況でもなく、今年はどうなるのかなと思っておりますが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。
 この講座は、僕がこの十年ぐらいの間に、映画と一口に言ってきたものが、だんだん何か昔知っていた映画と違ってきているような、映画が映画のようなものになってきているような気がするっていうぼんやりとした違和感からはじまりました。そうしてそのデジタル化だとか、ソーシャル環境だとか、そういう色んな、なぜその違和感がおきてくるのかっていう話を、識者の方を迎えながら、お話をきいているうちに、今日はちょうど一番向って上手側にお座りになっている吉田さんから、それは、映画だけに限らないのではないかと、社会文化全般において、たとえばリアリティっていうものが変質してきているのではないですかっていう提議がありまして、では、それを主軸に据えながら十一月以降は、毎回テーマをかえながら多角的に掘り下げようとして、掘り下げられずに進んできております。で、今回はデュラスということで、小沼純一さんをお迎えしております。よろしくお願いいたします。
小沼:よろしくお願いします。
七里:なんでデュラスなんだっていう話は後から突っ込まれるかもしれませんが、簡単に言ってしまえば、十一月に平倉さんとゴダールをやったから、次はもうデュラスをやるしかないだろうっていうだけなんですけれども。じゃあ、デュラスってどういう作家だったのかっていう話は、はじめにこんな映画を撮っていたとか、皆さん多分、ご存知の方が多いと思うんですけれども、振り返りながら始めたほうがいいような気もするんで、ちょっとそのへんから僕はほんと何も知らないので、吉田さんにお聞きしたい。
吉田:デュラスというのがどういう映画を撮ってた人なのか、で、デュラスはもともと小説家なわけですけれども、なんでこの人が映画を撮っているのかっていうことをある程度概説的にお話をして、そこから広められればと思っています。まあ、ゴダールにしてもデュラスにしても、やっぱり映像と音声の関係ってことを考えている人だってことはあって、だから、ゴダールを取り上げ、デュラスを取り上げ、七里監督はそういうものを見て、今現在ああいうものを作っているという流れはあるでしょ?
七里:そうですね、まあ、そんなことでもなかったりするんですけども。
吉田:でもデュラスに影響を受けているっていうのは確かなんでしょうから、何かつながりは当然あるだろうと思っていて、そのへんまで話ができればいいけれども、どうなるかわからないので、とりあえずデュラスっていう作家が映画作家として、どんなものを作っていたのかってことを、最初に見てもらいましょうか。
七里:そうですね。
吉田:一番最初に『ヴェネチア時代』からいきますか?
七里:はい
吉田:冒頭部分を見ていただいて、ある程度、これが究極っていうか、あの第一の極点なので…。
七里:流します。

〈映像:廃墟の内部〉
〈音声:女乞食の歌〉
〈音声:Une mendiante.〉
〈音声:Folle ?〉
〈音声:C’est ça...〉
〈音声:Ah oui… je me souviens. Elle se tient au bord des fleuves… elle vient de Birmanie…?〉
〈音声:女乞食の歌〉
〈音声:Elle n’est pas indienne. Elle vient de Savannakhet. Née là-bas. 〉
〈音声:女乞食の歌〉
〈音声:Ah oui… oui… Un jour… il y a dix ans qu’elle marche, un jour, devant elle, le Genge… ?〉
〈音声:Oui. Elle reste.〉
〈音声:C’est ça…〉
〈音声:Douze enfants morts tandis qu’elle marche vers le Bengale… ?〉
〈音声:Oui. Elle les laisse. Les vend. Les oublie. ( Temps. ) Vers le Bengale devient stérile.〉
〈音声:女乞食の歌のみ〉
〈音声:Savannakhet, Laos ?〉
〈音声:Oui. ( Temps. ) Dix-sept ans… elle est enceinte, elle a dix-sept ans…( Temps. ) Elle est chassé par sa mère, elle part. ( Temps. ) Elle demande une indication pour se perdre. Personne ne sait.〉
〈音声:女乞食の叫び声〉
〈音声:A Calcutta, elles étaient enceintes, la blanche et la loupe, oui c’était pendant les mêmes année. 〉
〈音声:インディア・ソングが流れる〉

吉田:これが『インディア・ソング』の曲ですね。今映っていたのが…、じゃあ『インディア・ソング』の冒頭もいきますか?
七里:あ、続けて。これは、要するにあれですよね…。

〈映像:紫色の空、そして、沈む夕日〉
〈音声:女乞食の歌声『ヴェネチア時代の彼女の名前』の冒頭と同じ曲〉
吉田:こっちが『インディア・ソング』です。
七里:サウンドトラックは同じってことで。
吉田:そういうことです。あと日が沈んでいくのが…。
七里:どっかの映画で見たかなみたいな。(笑)
吉田:まあ、ようするにサウンドトラックが同じだということを確認してもらえればいいんですが、女の二人の声が出てくるあたりまで見ますか。

〈音声:女乞食の笑い声〉
〈音声:女乞食の話し声〉

七里:製作は、こちらが先。で、一年後でしたっけ?
吉田:そうですね、なんか一個、挟んだはずですけれど、その後一年後かな? で、二人が喋っていますね。

〈音声:Une mendiante.〉
〈音声: Folle ?〉
〈音声:C’est ça...〉

七里:でも、一年後に公開されたってことは、製作までの期間っていうのはどうだったんですかね?
吉田:どうなんでしょうね。だって、ここに『インディア・ソング』のときに使っている建物がもう一回訪ねてみたら、ああなっていたということでしたよね。
七里:でもあれ、フェイクですよね? 別の場所で撮ってますよね?
吉田:『インディア・ソング』の方が?
七里:はい。その後デュラスの研究書が出て、(この大使館とは)別場所で室内を撮っていて、(『ヴェネチア時代』では)もともと廃墟になっていたこの大使館の中で撮った、ということじゃなかったかな。
吉田:ちょっと僕は正確には覚えてないけれど。

〈音声:Ah oui… je me souviens. Elle se tient au bord des fleuves… elle vient de Birmanie…?〉
〈音声:Elle n’est pas indienne. Elle vient de Savannakhet. Née là-bas. 〉
〈音声:Ah oui… oui… Un jour… il y a dix ans qu’elle marche, un jour, devant elle, le Genge… ?〉
〈音声:Oui. Elle reste.〉
〈音声:C’est ça…〉
〈音声:Douze enfants morts tandis qu’elle marche vers le Bengale… ?〉
〈音声:Oui. Elle les laisse. Les vend. Les oublie. ( Temps. ) Vers le Bengale devient stérile.〉

七里:何がなんだかわからない人は…そうはいないと思うんですけれども、ようは、『インディア・ソング』のサウンドトラックが、その映画のロケ地の廃墟に響いているっていうのが、最初に見てもらった『ヴェネチア時代の彼女の名前』。
吉田:そう、『ヴェネチア時代の彼女の名前』っていう映画ですね。実はこれ、「インディア・ソング三部作」っていって、実はもう一作あるんですけれど、やっぱり背景としてある程度、小説の話もしておきます。『ロル・V・シュタインの歓喜』っていう小説があり、それは、ロル・V・シュタインっていう、婚約者もいて、ハッピーだった若い女の子が、その婚約者であるマイケル・リチャードソンっていう男と、東アジアの植民地で、フランス人社会の中で、ある時舞踏会に行った。で、舞踏会に行ったときに、そのマイケル・リチャードソンっていう男がアンヌ=マリ・ストレッテルっていう女の人にいかれちゃって、その人についていっちゃう。その二人の様子を見て、そのロル・V・シュタインって人が、狂ってしまうっていう。その後、なんとか立ち直って、他の人と結婚したんだけれども、やはり恋人がいる、女の人の恋人を奪ってしまうわけです。とにかく、彼女にとってトラウマ的な出来事をもう一回自分が繰り返すっていう、『ロル・V・シュタインの歓喜』はそういう小説なんですけれど、その後に、『ラホールの副領事』っていうのがあって。この『インディア・ソング』は、『ラホールの副領事』の映画化と言っていいのかなと思うのですけれども、あるわけですね。で、そこの中では、アンヌ=マリ・ストレッテルって人が色んな男の人を受け入れて、ただし、このアンヌ=マリ・ストレッテルに惚れている男がいるんですけれども、彼だけは受け入れない。そのラホールの副領事が、この『インディア・ソング』のなかで、狂うわけですね。アンヌ=マリ・ストレッテルが他の男と踊っているところを見て狂ってしまって、狂気の叫び声をあげる。あともう一点、今見ていただいた映像のなかで一番最初のほうで、東南アジア系の言葉を喋っているちょっと狂気じみた、笑い声のようなしゃべり方をしている女性がいますが、彼女がラオスからカルカッタに一人で歩いてきて、何人も子供を抱えていたんだけど、子供を売ったりしてここに辿り着いて、いま(スクリーンを見ながら)『インディア・ソング』のなかで彼女がパーティーの会場のあたりをうろうろしているんですね。この人も狂気の人ですけれども。そういうのがあって『インディア・ソング』っていう映画は、そういったアンヌ=マリ・ストレッテルが中心となっている舞踏会の様子と、副領事が狂気に陥るところと、それと、その周りで女乞食がうろうろしているところ、これらを語っている。一応そういう背景で作られている映画ということになります。
七里:同じサウンドトラックなんだっていう話をしたくて見せたんだけど、見せたところがたまたま両方とも、風景ショットだったから、分かりにくかったかもしれないけれども…『インディア・ソング』の方には登場人物がいるわけですよね?
吉田:そうですね。
七里:それで、今吉田さんがお話してくださったような物語が展開しているように見えるんだけれども、その人たちの会話がシンクロでは聞こえてこない。
吉田:ああ、そうですね。そこのところ見てみましょうか。

〈映像:明るい部屋の中、JAがピアノの横に立っている〉
〈音声:C : vous pouvez parler d’elle ?
—Irréprochable.
 Rien ne se voit : c’est ce que nous entendons ici par ce mot.〉

吉田:そのうち、デリフィーヌ・セイリグという女優さんが出てきますけど…。

〈音声:——Après Venise, elle n’a plus donné de concert ?
    ——Non jamais.〉
〈映像:アンヌ=マリ・ストレッテルが階段をおりてくる姿が鏡越しに画面に映る、その後、二人が踊りだす〉
〈音声:——Ils se connaissent ?
    ——Ils ont dû se voir dans le parc.
    ——Qu’est-ce qu’il regarde ? ( voix anglaise )
    ——L’ambassadrice de France qui danse avec le jeune Attaché.

七里:鏡だったんですね。
吉田:この鏡というのが大事だと思うんですね。像が反復されるという。デュラスの映画ってやっぱり反復の映画だと思うので、こういふうに映像自体も鏡を使うことによって増殖するというところもあって、他の映画もだいたいそうですね。
七里:聞こえているのはこの二人の会話?
吉田:いや、あの一番冒頭にもありましたけれど、なんかこう…声なんですよ、誰だか分からないけど噂話として彼らの物語を語っている声があるわけですね。

〈音声:——Si vous écoutez bien la voix a des inflexions étrangères.
    ——C’est peut-être ça qui prive de la présence cette origine…
    ——Aussi, oui peut-être.〉
〈音声:A-A.M.S. : Je voudrais être à votre place, arriver ici pour la
première fois pendant les pluies. ( temps ) vous ne
vous ennuyez pas ? Que fait-vous ? Le soir ? Le
dimanche ?
    J.Attaché : Je lis, je dors… Je ne sais pas très bien… 〉

吉田:この言葉は、二人が喋っているもののはずなんだけど…。喋っている内容はたいしたことじゃありません。
七里:これ口はあってるんですか?
〈映像:JAとアンヌ=マリ・ストレッテルがダンスを踊っている場面〉
〈音声:A.M.S. : ( temps ) Vous savez, l’ennui, c’est une question
personnelle, on ne sait pas trop quoi conseiller.

〈映像:アンヌ=マリ・ストレッテルとJAが踊っている姿〉

七里:こういう(画質の悪い)ビデオだとわからないですけれど。
吉田:これは口は開いてませんよね。

〈音声:J. Attaché : Je ne crois pas m’ennuyer.
    A.M.S. : Et puis… ( arrêt )… ça n’a peut-être pas la gravité
        qu’on dit ( temps ). Je vous remercie pour les colis de
        livres, vous me les faites porter très vite au bureau…
J.Attaché : Je vous en prie… ( Silence )

七里:なんか微妙に唇がぷるぷるしているようにも見えるところがおもしろいですね。人ってあんまり口あけてしゃべんないですもんね。
吉田:まあ、そんなに大きくは開けないですから。

〈音声:A.M.S. : Vous savez, presque rien, n’est possible aux Indes…
        c’est ce que l’on peut dire…
J.Attaché : Vous parlez de quoi ?

吉田:ただ、やっぱり違和感があるでしょ?もうちょっといくとこの音楽止まるんですよ。止まると踊りやめて、で、また音楽が始まるとまた踊りだすんです。だからあれ合っているのかなっていう、いや、合っていない、そういう感じに陥るという。

〈音声:A.M.S. : Oh… de rien… de ce découragement général… Ce n’est
ni pénible, ni agréable de vivre aux Indes… ni facile,
ni difficile… ce n’est rien… vous voyez… rien…
    J. Attaché : ( temps ) Vous voulez dire que c’est impossible ?
A.M.S. : C’est-à-dire… peut-être… oui… mais à ce point, vous
voyez, c’est sans doute une simplification…

七里:映像と音っていうか、映っているものの声だとか物音だとか、その劇版的な演出でもいいんですけれども、それが、同期しているということが当たり前のようになっているんですかね? わからないけど。それが当たり前だとすると、デュラスはそうではない。
吉田:そうではないものをあえて作っているんですね。

〈音声:J. Attaché : Le Vice-consul de France à Lahore vous regarde.
Pas de réponse
J. Attaché : Il vous regarde depuis le début de la soirée.
Pas de réponse
J. Attaché : Vous ne l’avez pas remarqué ?
Réponse indirecte
A.M.S. : Où souhaite-t-il être affecté, vous le savez ?

吉田:とりあえずここでは登場人物たちが映っていると。映っているし、その人たちが喋っている言葉はあるんだけど、『ヴェネチア時代』になるともう、それがなくなるんですね。

〈音声:J. Attaché : Ici à Calcutta.
A.M.S. : Teins…
J. Attaché : J’avais imaginé que vous le saviez...
Pas de réponse.

七里:この今聞こえているサウンドトラックが、たとえば、この部屋の十年後なのか百年後なのか、わからないけれど、その廃墟に声だけが聞こえているっていうのが、最初に見てもらった『ヴェネチア時代』ということですね。

〈音声:音楽がとまる〉
〈映像:二人はダンスをやめる〉

〈音声:J.Attaché : On dit que vous êtes vénitienne.
A.M.S. : Mon père était français. Ma mère était de Venise.
J’avais gardé son nom.〉

吉田:まあ、もうこんなもんでいいんじゃないですか。あともうちょっとすると音楽が始まってまた、踊りだすんですけれども…。そういうふうに話が一応あるにはあって、それを噂話的に喋っている声があるんですね。こういうふうにやっぱりなんか反復していくというか、反響していく言葉っていうのがあるような気がしています。だからこういう風に物語自体が誰が喋っているのだかよくわからない、そういう誰のものとも分からない声によって増幅されていくっていうのがデュラス的な世界なのかなと思っているということですね。
七里:でも、なんでそんなことし始めたんですかね?
吉田:僕の意見ですが、ある物語があるとして、それを直裁的に小説として語るという、あるいは直裁的に映画としてイメージとして出すっていうことをデュラスはしたくなかったのだろうと。それは何故なんだろうかというと、言葉が持っている、あるいはイメージというものが持っている、その現前性を、言葉を読んだときに頭に映像を思い浮かべたりとか、あるいは映像を見たときにその中で一つの物語を自分で構築するとか、そういう作業を人はするわけですけど、それをこうぶっちがえさせることによって、どこでもない場所を作ろうとした、現前性を消去しようとしてきたんだと、僕は思ったんですね。ちょっと判りづらいですけれど、小説だけで作られる世界、それから言葉だけで作られる世界、それから映画を見て、映像を見てそこに何かこう物語を読み込んでしまうという習性というか、その二つをぶっちがえさせてずらすことによってどっちも殺しちゃおうとしたんだ、という風に思った。そういう場所を作ろう、場所といっていいのか分からないですけれど、そういう場所を作ろうとしたのかなというふうに思っているんですが。
七里:そういう場所が映画であると? デュラスにとっての映画である。
吉田:映画と小説、言葉っていうのをぶつけあうことによってその両方の持っている現前性を相殺するというか消去するというか、二つ掛け合わせることによってできたことなんじゃないかっていうことですね。
七里:現前性ってなんですか?
吉田:うん…ちょっと難しいですよね。言葉を読んだときに思い浮かべてしまうイメージ、それを言葉が語っているのとは違う映像をぶつけていくことによって、言葉を殺す。それから、映画の場合ふつう、イメージを受け取ってそれが語っている物語を、見る人が頭のなかで構築していくんですけれど、このイメージが語っている物語と違う物語を音声として乗っけることによって、イメージを読み込んで見る人間が頭のなかに思い浮かべるストーリーを殺すというか、二つのことをぶっちがえさせることによってどっちも…僕は「相殺」するという言い方をしますけれど、そういうことをしているのではないかなと思います。
七里:どうなんでしょうか? 小沼さん。

小沼:いきなりそこですか(笑)? 僕は「殺し」はしないと思っているんです。て、やっぱり「ずれる」んだとは思うんですよね。ずれたものが、実際には殺しているということなのかもしれないけれど、やっぱり見ているものは見ているし、聞いているものは聞いているので、そういう意味でずれながら、しかしそこにある、とは思っています。で、同時に、「小説と映画」というふうに仰っていたわけですけれど、デュラスの作品って、特に七〇年代から八〇年代の頭にかけては、小説っぽいけど小説じゃないもの、まあ、『インディア・ソング』がそうですよね。芝居っていう媒体があるから、一概に小説と映画とは言えなくて、芝居ってそこに「いる」ものですからね。否応なしにやらしく「いる」「ある」んですよね。だからそういう意味では、この三つがどういうふうになっているのかっていうのがすごく難しいところだと思うんですよ。私がこのデュラスの映画を面白いなと思って見ているのは、もともとデュラスって、自分の小説が映画化されて、それに対して不満を持って自分で撮るようになったっていいますよね。で、それはそうかもしれないけれど、だいたいそういう風に撮るようになった作品って、ふつうならぜんぜん他の人が監督したくないような作品ばっかりでしょ。これ、ならないよね、映画には、みたいなのばっかり撮っているわけですよね、で、映画って、リュミエール兄弟から始まって、サイレントにいきますけれど、その頃は、映像があって台詞はそのあとじゃないですか、ずっと後ですよね。で、台詞はもうちょっとしたら出ることがあるけれど、でも音楽はその前についていたわけでしょ。そういう意味では、まず映像があってそれから音楽があって、台詞と、そういう流れがある。で、デュラスはやっぱり作家だから、どうしてもテクストがある。だから映像だけの作品って存在しない。ないじゃないですか。必ず言葉があって、否応無しにせいぜいあとは音をつけるとかね。そういうあり方なんじゃないかがある。それから映画っていうのは、ソシュールの「意味するもの」(シニフィアン)と「意味されるもの」(シニフィエ)というのがありますけれど、あれはその恣意的(arbitraire)だっていいますよね、いう訳じゃないですか。視覚映像とその意味が恣意的である、映像もそうだってデュラスは考えているのではないか、というかね、映画ってそうなんだと思うんですよ。だから音響と映像って決してこれがこうだからこういう音がしなくてはいけないっていう必然性は何もないわけですよね。実際には私たちはこういうのをこう振ると音がして、それはこの物体のマテリアルな属性によって何らかの音って決まってくるけど、映像の場合はそこにあるものがそういう音がしなきゃいけないっていう必然性がないから、そうやってずらしていくっていうかな、そういうことをやっていると思うんですよね。
七里:それって、発見したんですかね。デュラスが実際に作り始めたときに。それとも、最初っからそう睨んでやり始めたんでしょうか?
小沼:うーん。
七里:僕、今の話で思ったんですけど、もちろんその文学、小説、まあ詩でも文字のものも部分的に作っていくっていうことはあるとは思うんですよ。頭からお尻まで書いていくものではないとはしても。経済効率で言えば映画ってアフレコの方が安上がりなので、おそらく、まあデュラスの最初の映画のときに、どういう予算で、どういう体制で撮ったかまでは僕は知らないんですけども、まあ、アフレコだったんじゃないかなと(笑)。で、そうすると撮影をしている時間とそのあとに撮ったフィルムを見て、まあ録音するわけですよね。
小沼:現実の作業の中でそういうのは発見したんじゃないかっていう話?
七里:ええ。
小沼:それはあり得ますよね。
七里:あのそれは同じ時間じゃないですよね、それって。
小沼:全然違いますよ。それこの前(二〇一四年五月一〇日の第3回)も…。
七里:そういう話を、ええ、ええ。
小沼:うん、撮ってる時間と実際に映し出される時間と、それこそ喋っているのと、全然違う時間が、いっぺんになっているわけでしょ。で、あのそれこそアラン・レネがロブ・グリエの『去年マリエンバードで』撮ったときに「これは何日かの話じゃなくて、九〇分だとかそういう時間内の映画なんだ」っていう風に言ったわけですよね、じゃない。するとある意味では同じにおもえる、ですよね。
七里:ある九〇分なり六〇分なり一二〇分なりの、その時間の中にいくつもの時間を存在させられる。で、それは吉田さんと打ち合わせしたときの言葉を借りると、今回のチラシの文言にも使っていますけども、「現在の声」なのか「過去の声」なのか。時制を変えることが出来る。そういう使い方を発見していったのだろうか、みたいな。
小沼:みんな知っているとは思うんですよ。現実にだって七里さん知っているわけでしょ。
七里:いや知らなかったですよ(笑)。
会場:笑。
小沼:でも映画撮っている人ってみんなズレてるってことはわかっているわけじゃない。
七里:はい。同じ音じゃなかったりしますもんね。
小沼:それをこう作品として提示するときに、そういうことをこう、その立体化っていうかな、ディメンションがいくつもあってっていうのをバーンっとこう作品化するっていうことは、まああまりする人はいないよね、っていう話じゃない?
七里:なんでそういうことをし始めたんですかね。デュラスについては、そこに興味があるんです。
吉田:同期しないっていうことを…それを創意にしてしまったという、ことなんですよねぇ。たしかになんでそこを、そういうことを思いついたかっていうのは…『ガンジスの女』で初めてそういうオフの声というのを発見して、それが自分にとっては映画でなした最大の貢献だ、みたいなことも言っているわけなんですけどね。
小沼:ただ『インディア・ソング』について言えば、作品論としては、結構明確だと思うんですよ。あの人々の声っていうのは、見ている視線で、見ている人間がその場で語るっていうことなんでしょ。現在形で語っていて。でもあの連中はみんな死んでいるよねっていう話だから、そこでどこで見ているのかわからない。天上かも知れないし、地獄かもしれないし、その時間はズレてるけど、ともかく「今」見ている。で、音楽はどこにあるかっていうと、そのあっちの人たちも聞いているかも知れないし、自分たちも聞いているんですよね。だからそういう意味では、そのディメンションとしては最低三つぐらいあって、で、なんかこう半浸透というか、両方に音が流れ出していて、それが媒介としている。それであの音楽を聞いている連中は踊れるし、自分たちも「J’ écoute la  India Song」という風に言うわけでしょ。「J’entends」とは言わないわけですよね。「聞こえる」とか言ってなくて「ああインディア・ソングを私は聞いている」って言いますよね。その現在形っていうのは、次元は違うし、過去のはずなのに、そこで音楽の自制は現在にしちゃっているっていうのは、その構造がすごく面白いと私は思っていて。
吉田:それは例えばデュラスの条件法とか条件法過去で書くっていうことと関わりがあることですか?
小沼:うーん、どうなんですかね。ただね、最近読み返して気がついたのは、ヘンリー・ジェイムズの小説を演劇化した作品があって。
七里:デュラスにですか?
小沼:うん、で、それはね、『密林の野獣』というのだけれど、二つバージョンがあるんですよ。それで、新しいバージョンだと最初、ト書きみたいなものまで読むのね。音が聞こえるんですよ。あの「なになにがある」っていうか。で、最初その男性と女性がいるんだけど、その人たちは出てこないわけ。声だけするんですよ。で、やっとあとで二人は出てきてっていうような。で、そういうようなのっていうのは、もちろん映画の方が先なのかも知れないけど、そういう演出ってすごく変だし、しかも…それって六〇何年だったかな。まあいいや。それで前のバージョンっていうのは今読めないんだけど、その、うーんと。
吉田:六二年って書いてある。
小沼:そうですか。
吉田:六二年に演出、上演されている。で八四年に。
小沼:八四年だったかな。
吉田:八四年って書いてある。
小沼:まあ、そのあたりでもう一回作り直す。で、そのときはデュラス自分でもとのやつを読みながら、カセットに録音して、でそれを自分で聞いてまた書き起こして書いたテクストなんですよ。
吉田:へえー。
小沼:だからそういう意味では、まあそれについてもうちょっとややこしい話はあるんだけど、まあそれは置いといて。声にして即興的に直していくっていう作業とかね、その間に映画が介在するっていうことを思うと、なんかその声の発見っていうか声がズレていくこととかって、すごく不思議なんですよね。で、それこそ自分の声を聞くってことでしょ? 録音して、自分で読んで聞いて書くっていうのは。で、それってたぶんオープンリールのテープレコーダーだとやんなかっただろうと思うんだよね。で、そういう意味ではメディアの問題もあって、オープンリール知らない人いるかも知れないけど(笑)。
七里:あのー、『モデラート・カンタービレ』をたまたまちょっと読み返していて、これって五八年に日本では出たって書いてあるので、その時代より前ですよね。どこだったか忘れたんですけど、えっと…。小説って会話と地の文とあるじゃないですか。で、地の文が会話を追い越している箇所がいくつもある。だからもう映画への意識の前、まあ演劇もあるとして、そういう文学以外のものへの意識が芽生える前から、そういう次元、ディメンションの発想っていうのはあった人なのかも知れない。
小沼:うーん、ただまあそこらへんはね、フランス語の時制の問題も…。
七里:ああ(笑)。僕、翻訳でしか読めないんで(笑)。
小沼:そうそうそう。それで作家ってやっぱり自分のイメージと書くことっていうのが、それこそ書く速度とイメージがここにあるのとっていう、それこそズレがあるじゃないですか。それで、それが行ったり来たりする人っていますよね。
七里:あの、そういうことから発想すると、非常になんか映画とかっていうのは、そういうことがやりやすい…?
小沼:うーん。
吉田:うーん、まあたしかにそうですね。
七里:レトリックを駆使するとかいうことではなく、非常に物理的に出来る、この面白さというのに、しばし没入していった時期がデュラスの例えば『インディア・ソング』三部作の頃だったりするのかなぁと思っていまして。
吉田:芝居っていうのはご覧になったことがあるんですか? デュラス演出の。
小沼:ありますよ。ただまあ彼女が演出したわけじゃないけど。
七里:どんな芝居なんですか?
小沼:真っ当な芝居(笑)。
会場:(笑)。
小沼:いや、真っ当な芝居もあるし、そうじゃないのもあるから。ベケットみたいなものもあるから。
吉田:今回その僕も『木立の中の日々』というのをボックスで初めて見たんですけど、わりと普通な感じ。
小沼:これ普通ですよね。だからそれはたぶん普通に芝居でやっているやつをそのまま撮るみたいな。だから昔のそれこそ日本の歌舞伎を撮るっていうのが映画だったっていうような、それに近いというところがありますよね。で、全然違いますね、他のやつとはね。
吉田:『アガタ』とかにしても、舞台だとどうなるかわからなくて、舞台に二人座っていて、で、喋るわけですけど。ただ、喋ってる内容が過去のことであるっていう時制のズレがあって。で、それくらいのズレしか演劇だと無いのかしら、みたいな感じにも思えるんですけど。
七里:でも、そもそもそうやってズラすことは、なにがそうさせていたんですかね。
吉田:うーん。まあズラすっていうか反復しているうちに、非人称化していくということなのかなぁと僕は思っていて。『インディア・ソング』にしてもそうですけど、誰だかわからない人が喋っていたりするわけじゃないですか。まあデュラス自体がもう同じことを何回も何回も語り直すっていう人だし、自分の植民地時代の、娘時代の話とか、そういうものを『インディア・ソング』三部作にしても小説にしても映画版にしても、同じことを何遍も何遍も語り直す。で、語り直していくうちにどんどんどんどんズレが生じていって、で誰の声だかわからない、誰の話だかわからない、まあ一応固有名詞はあるにはあるんだけど、それによってようやく繋ぎ止められているだけで、語られている内容自体は、もうだんだんだんだん非人称化していく…ようなことをしているのかなあ、と。誰のものでもない時空というか、ストーリーにしていく、ためにそういうことをやっているのかなぁという気がしているんですよね。でも本来歴史として今ココとしてあったものをだんだんだんだんそういった非人称化して、誰のものでもない経験にしていく、そういうことかなと思っていて。それが特に出てくるのは「ユダヤ性」っていう風にデュラスは言うんですが…。彼女がいう「ユダヤ性」っていうのは、ユダヤ人というのはもう故郷を奪われてて、言葉にしか国がない、だからこそ誰にも奪えなくて、誰にも壊せなくて強いんだ、言葉でしか記憶が保てない人たちということだと思うんですが。『オーレリア・シュタイナー』なんかについて言っていることで、そういう言葉が出てきたりするんですけど、まあ『オーレリア・シュタイナー』なんかにしてもそういう風に二部作として作ってて、まあ三部作なんか、映画化されなかったものもあるんですけど。
七里:見ます? 入ってましたっけ?
吉田:いや無いと思いますよ。
小沼:『オーレリア・シュタイナー』というのは、いくつかあるんですけど、人は出てこなくて(笑)、またこう語ってて、で映像がこう映っている「だけ」っていう、人によっては「環境ビデオ?」って感じになっちゃうっていう作品ですよね。
吉田:まあ彼女自身はユダヤ人ではないんでしょうけど…。
小沼:面白いんですよ。ここにある『ゴダールとの対話』っていう、ディアローグ。この本の中でユダヤ人の話をしてる、そのゴダールが「あなたユダヤ人だっけ?」って聞くのね。そうすると「いやぁ私はクレオールよ」って言うのね(笑)。「インドシナから来たのよ」
みたいなことを言っている。やっぱそのユダヤ人っていうことは、ややこしい話なんだけど、ずっとあとの方になると、またゴダールとの話の中で、二人は『ショアー』の話をするのね、ランズマンの。で、非常にそこへの関心がこう強いっていうか、今お話を聞いていて、そういうところ、「ユダヤ人性」っていうようなところ、まさにイメージとして残せない、残ら「ない」っていうようなことが非常に強い。でそれのあくまで痕跡っていうかな、浜辺とかなにか撮っていたって、別にそれは私たちは見えるけど、それはなにもない。ってもしかしたら不在っていうことを、こう言っているのかも知れない。ってそういうところがある。ですよね。
吉田:そうですね。だからそういった不在というものを成立させようとしてるっていうことなのかなぁと思うんですけどね。
小沼:うん、それこそさっき仰っていたけれど、固有名だけが同じで、あとはみんなズレてってその本当はよくわからないっていう。で、それはそのズレの中、それぞれの物語っていうのはそれぞれまあ面白いわけじゃない、それなりに。だけどそれがズレていくことで私たちの中に形成されてくる、そのまさにズレそのものっていうのが私たちの中にあって、その運動っていうのは、なんて言うのかな、ズレっていってもおかしいようなもので。それってすごくデリダっぽいとでもいうのかなぁ。的だと思うんだよね。デリダはデュラスについて言わないけど、実はそのデュラスの中にあるディフェァラレンスっていうのはね、まさにテクストと映画と、っていうようなこと含めて言えるんじゃないのかなっていう気がするんですけどね。
七里:あのー、それってアレですかね、意識とか記憶ということを考えていたんですけど、そこには歴史があるってことですか?
吉田:うん、うん。デュラスにとっての歴史があるんだと思うんですよね。デュラスにとっての、結局デュラスはそういう形でディファレンスを組み込んでいって、誰のものでもない物語、誰のものでもない言葉にしていってしまうんですけど、その根拠としてはやっぱり植民地時代の彼女の記憶だとか、あるいはアウシュヴィッツという歴史的な出来事だとか、そして、彼女にとって「愛」というのがほとんどそういうアウシュヴィッツと同じような強烈な体験だったと思うんだけども、そういうものと密接に関係してて、でそれを多分、デリダ的に言うと「散種」していくという作業をずっとしているんだろうと思うんですよね。で、ただあくまでその根拠として、インデックス性というのはちゃんとあるんだと思うんですよね、デュラスの中に、個人の中には。そうした歴史の中で確かに刻印された痕跡がだんだん消去されてって、どこでもない、誰でもない言葉とか映像になるわけですが、打ち合わせの時七里さんに、そういうのは、なんかすごくサイバー空間的じゃないですか?って言われて、呆気にとられたというか、「あぁそうか」みたいな風に思ったところもないではなくて。
七里:まあ歴史は消滅している空間ではありますよね。
吉田:そういう空間。
七里:だから…違うんですよね。
吉田:うん、そういう映像。それと同じじゃないですかって言われたときに、まあ現象的にはたしかに同じだけどっと思ってちょっと唖然としたというとこはあるんですけど。そこがやっぱりデュラスはデュラスでやっぱり必ずインデックス性っていうのはあるんだよなぁと思ってそこは完全に違うだろうと思って、そのときは反論はしたんですけど。
七里:うん。そのー現象的に同じなんだけれども、決定的に違っているのは、インデックス性、まあ歴史があるっていうことなんだとしたら、じゃあまたあえて唖然とする質問をするかも知れないですけれど、デュラスがビデオで映画を撮るっていう発想ってあったんだろうか。
吉田:うーん。
七里:もし今の時代に生きていたらですよ。今の時代に映画を撮ろうとしたのだろうか。
吉田:うーん。
小沼:3Dでとかね。
七里:そう(笑)。
吉田:まさにその……アップ・トゥ・デートな話題が。
七里:どうですかね?
吉田:どうでしょうねぇー。
小沼:まあでもやっぱり…。
七里:どうだろうなぁ…
小沼:わかんないなぁ…。
吉田:なんでしょう、そういったあの匿名的な映像にデュラスの映像がそうなってしまっているとして、じゃあそれをそういうもんだとして、あのー我々が全くデュラスという人を知らずに見て、でそれでデュラスに実はそういった歴史というものに対するインデックス性がきちんとあるんだっていうことを知ることとの間の、あの間隙というか落差というか、だから僕はそこは、デュラスの映像を見たときに、なんでこんなことが行われるのだろうかっていう風にやっぱり知りたいと思うし、で知るためには色々本読んだりとか、色々映像集めてみたりとか、そういうことしないといけないことになるわけじゃないですか。だからデュラスの映画自体は本当にもう今もしかしたらYouTubeとかでパッと見れるようなものかも知れないけれども、あのーそういったものを、そういったサイバー空間的なものとして、映像として…。
七里:これで(DVDボックスで)見ているのはそういったことですよね?
吉田:あーまあそうですね。まあでもそこはさぁ、あのー苦労して集めているのもあるわけだから(笑)。
七里:でもそれがネット空間では…。
吉田:そうそう。
七里:拾えたりするんですよね、今。
吉田:あっという間にボチッとで見れてしまうっていうことがあって。
七里:で、今回だからそのそういうこともあって、わざわざってわけじゃないんですけども、パソコンでデュラスを見返してたんですよ。
吉田:ほーう。どういう感じでした?
七里:いや、でもそうやって見ても、『アガタ』とか、『アガタ』のその繰り返し繰り返し波が押し寄せてくる浜辺の画とかやっぱうっとりしますよね。それでも。
小沼:まあ、そうなんだけど。
七里:ええ。
小沼:今、だってあれ撮ったのそれこそ七〇年代か八〇年代ですよね。時代的にはすごい昔じゃない。
七里:三〇年。すごい昔ですね。(笑)
小沼:でしょ。あれ、例えばそれこそ大きな画面で流してみてもいいんですけど、うーんやっぱり人によっては環境ビデオだって思いますよね。
七里:ちょっと流してみましょうか。
小沼:(笑)。音が付いてるからアレなんだけどね。
七里:ちょっとだけ、DVD屋さんごめんなさいって感じで。
〜上映開始〜

画像1

七里:(映像を見ながら)うん、最初が見せたいな。……ビュル・オジエ、くぅー。
小沼:(笑)

(ピアノの音楽)

七里:これ環境ビデオじゃないですよ、素晴らしい!
会場:(笑)。

七里:このまま見とれるしかないので(笑)、やめましょう。
吉田:音が無かったら環境ビデオっぽく見えるのかな? 
小沼:いや、「環境ビデオ」って言ったのはね、わざと挑発して言ったの(笑)。
七里:はい(笑)。
小沼:それはどういうことかっていうと、こういう風に大きな画面で、暗くして見る環境っていうのが今は無いっていう、そういう意味ですよ。それで、例えば小さな画面で、こう見てたりとか、あるいは、色んな人が出入りするような場所でかけていたら、やっぱりフッと見るだけで終わっちゃうでしょ。例えば、109の大画面ここんとこにバーッとなってても、こう通り過ぎちゃうわけじゃない。
七里:うん。だからデュラスが映画って言ってるものはやっぱりリュミエールの映画ですよね。
小沼:そうなんですよ。
七里:闇の中に身を沈めて光の方を見るっていう環境の中で見る映像を…だからそういう空間が保証されているから、そこに声が入り込んでくるっていうか。でもそれが携帯でも見れるようになる、こういうの(PC)でも映るっていうのは、そのエジソンに振れてきてるような…。
小沼:でもそれちゃんと説明しないとわからないですよね。
七里:説明できないですけど(笑)。みなさんの方がよく知っていると思いますけど…エジソンの映画の方が一年早かったんでしたっけ? エジソンの映画っていうのは覗き穴から覗いて見るものだったと。それがリュミエールの投影して観るものに圧勝されるわけですよね。ほぼ、一旦は駆逐されたんだと思うんです。いわゆるジュークボックス的なものとして、エジソンの映画も世に喧伝して普及したんだけれども、ほとんどリュミエールの映画が映画の代名詞というか、イコール映画になっていって、一〇〇年以上経った。それが、ビデオで映画をみるようになってからなんじゃないかと思うんですが、ひとりで視聴する、しかも自分のツールで観れるようになってくることによって、むしろエジソンの方の逆襲が起き始めていると。山田宏一さんもそんなこと書いていたと思いますけど。
小沼:そのことは思い浮かばなかったんですけど、昨日原稿を書いていたんですね。アメリカ版ゴジラのBL/DVDが二月の末に出るんです。けど、そのための原稿で、わたしゴジラ好きなんですけど(笑)、今回もすごく良かったんですね。で、一応家で見たんですよ。いろいろやっぱり違うんですけど、劇場で見るのと。やっぱり家で見ると、明るいんですよ、家が。当たり前なんですけど。DVDって必ず、健康のために注意しましょうみたいなことが注意書きとしてでてきますよね。あかるくしてたら、絶対わかんないじゃん、細部、っておもう。それって。大体、ゴジラとムートーっていうのが戦うのは暗い中で戦うわけですよ。細かい動きとかがあるわけですよね。それはやっぱり暗くしないとわからない。映画館じゃないとわかんない。っていうことがあって、そういうのって、『エイリアン2』もそうじゃないですか。そういう環境の違いってすごくあると思うんですよね。そうやってソフト化され、自由にみられるようになって、逆にれがなんとなくソフトになってて、自由になっちゃうから、作品を裏切っちゃうというか。そこで実はそこで思い出したことがあすんです。って、ジョン・ケージの『4分33秒』っていう曲は何も起こらないっていう風に言われているけど、でもそこにある音は全部その作品の要素だ、とも考えられる。で、デュラスの映画ってわりかしケージの作品に近いんじゃないか。と思っていて、ケージはその音楽作品によって「あんたたちはちゃんと聞いてないでしょ」って言いたいんだ、と思うんだよね。こんなにいろいろな音があるんだよ、だけどあんたたち聞こえてないよねって。で、デュラスもああいうのを見せながら、あんたたち見てないでしょ、って言いたいんじゃないかと思う。それと同時に、さっきひとりで視聴するっていうことを言っていたけど、ケージの作品って基本的にレコードで聞くものじゃなくて、演奏会場で、それも二人以上で聞くっていうのが本当なんですよね。それはやっぱり他者がそばにいて、一緒に耳を傾けるってことなんじゃないか。多分映画っていうのも…もちろん映画館でひとりっきりっていうのはあるかもしれないけど。
七里:時々ありますよね(笑)
小沼:でも基本的には人がそばにいるっていう、その中のアフォーダンスというのかな、それに近いような中でたぶん映画って見られるものだったんだと思うんだよね。でもそれが変わってしまった。メディアを通して環境そのものが変わってしまったのを、デュラスの映画ってそういう事態を如実に示しているのかなっていう気もしないでもない。
吉田:そうですね。体感的にいって、やっぱりモニターで、DVDでデュラスを見ていると時々つらいですよね。それはたぶんそういうことなんだと思いますよね。
七里:辛くなかったのは異常だってことですかね(笑)
小沼:それはやっぱり映画作ってる人だからじゃない?
七里:編集とかもするようなiMacの画面で見ていると、もちろん粗い画像で見ているから微細なところはもちろんスクリーンで投影されるような美しさではないんだけれども、波をこうじっと見ているだけで気が付いたら三〇分くらい経っているんですよね。あ、これはあと一時間いけるなっていう風に思って、そのまま見て、またリフレインして最初から見て(笑)っていうのが昨日の晩でしたけれども。
吉田:確かにデュラスはカメラマンにすごい人を使っているっていうのがあって、確かに画だけで見せるっていう力はあるんでしょうね。
七里:構造的には『アガタ』って、一番実験してない気がするんですよ。外連味としての面白さ、サウンドトラックと映像とのズレだとか、そういうものを外連として見る僕みたいな人間からすると、一番何にもしてない状態。でもここにたどり着いたんだっていう、ある種の吉田玉男の文楽みたいな、最後動かなくなったみたいな、そういう最終形、声と映像が同じ時制ではなくてもいいっていうものもここに辿りつくのかなあと。僕は『アンファン』とかその後見てないのでそういう風に納得しちゃったりもして。面白さでいうとやっぱり『ガンジスの女』は本当に面白いですよね。
小沼:でもガンジスって言いながら、みんな分厚いコート着てるんだよね(笑)
七里:ガンジスの女も見ますか? 冒頭ちょっとかけましょうか。これは吉田さんが苦労して集めてくれた海外のDVDです。
吉田:小説としては三部作、『ロル・V・シュタイン』、『ラホールの副領事』、で三作目が『愛』という流れで、『ガンジスの女』はその『愛』の映画化なんですよね。長編小説としては一番最後のやつが、『インディア・ソング』の映画三部作の中一番最初の作品になっているっていう、ちょっと逆転してるんですけど。

(上映)

七里:この時点ではわからないじゃないですか。同録の映画ですよね、普通に。同録というかシンクロの映画ですよね。
吉田:画として、イメージとして出てきている人の声はあると思いますけれど、そのあとオフの声も出てくる。
七里:ちゃんと足音もついてるし。

(しばらく『ガンジスの女』鑑賞)

七里:波音は付いているんですよね、画に。突っ立っている様だけでもう、やられちゃいますよね。
吉田:歌っている声も誰が言っているかはわからないんだけど、一応、彼らが見ている画とは合ってるんですよね。彼らが帰ってきているとか。喋っている内容も今のことを言っているんですけど。帰って来た男がマイケル・リチャードソンで、これがロル・ヴェー・シュタインですね。あと黒いのを着ていたのがアンヌ=マリー・ストレッテルっていう女性。…この画がすごいですよね。
七里:こう来ちゃいますかね(笑)。
吉田:これまでで小説で出てきている人が全部出てきているんですよね。この中に死んでいる人もいれば、気が狂っちゃった人もいれば、それが全員揃って出てきちゃうっていう。
小沼:これもやっぱり、大きな画面でみてわかることですよね。例えば私滅多に見ないですけど、ホラーとかで見なくちゃいけないのとかあるじゃないですか。ホラーの場合はできるだけ小さな画面で見ますよね。そうするとまだ怖くない、っていう。
七里:スプラッターとか僕嫌なんですよ。血が怖いんで。じゃあ小さくしてみればいいってことですかね。
小沼:そうです、そうです。小さくて絵の具だって思えばいいんです。ゴダールじゃないけど。すみません余計なことを。
七里:エジソンとリュミエールっていう話をいきなり持ち出してしまったんですけど、明らかにデュラスはリュミエール的な映画を映画だと思っていると。
吉田:映画館とかっていう空間で考えてる人なんでしょうね。
七里:映画館のスクリーンを窓だとすると、窓の向こうにも映画館を置いてたっていうことですかね。つまり、声が聞こえてくるとか。
吉田:うーん。まあとにかく、彼女は、語りのある空間、それが「暗室だ」みたいなことを言っちゃうわけだからやっぱり暗室、暗い空間、暗い中に隙間があいていて、そこにスクリーンがあったり、窓があったりっていう空間を念頭に置いて、そういうものを基本にして映画を作っていたのは確かなので、やっぱり映画の人なんですよね。リュミエールのひと、つまり映画館の人。
小沼:現在の問題で言えば、そういうのがごっちゃになっちゃって、ということなんでしょ?
七里:そうなんでしょうね。ごっちゃになっていくってことであれば、それを整理することができるんですけども…。
小沼:それは作る側とか作品っていう問題だけじゃなくて、視聴する側の環境の問題とか、もっと…世界的というかな、いろんなことに関わっているから腑分け、切っていきにくいっていうことなんじゃないですか?
七里:そうですね、全方位的にごっちゃになっているというか塊になっているというか、
小沼:解きほぐせなくなっちゃっているっていう。だからそれを映画についてだけいうとか、視聴体験だけについて語ることはすでにできなくて。で、リュミエール的映画を考えていても、でも一方で、(七里さんも)スマホかなんかで使っちゃったりするわけじゃない。ちょっと何か見ちゃったりとか。そこらへんの写真撮っちゃったりとかするわけじゃない。それがもうすでに切り分けられないっていうことなんじゃないですか?
七里:もう後戻りはできないんだってことは、二回目の渡邉大輔さんにつきつけられてはいて、どうしようかなっていうままなんですけども(笑)。
吉田:環境自体は早くに移行しちゃっているので、頭がついていかないというか、どうこちらが受け止めていいのかわからないっていう状態なんですよね。ジレンマがあって。
七里:でも頭が受け入れなくても、体はもうその中にっていうか、例えばデュラスのことを語るのにこんなに簡単に「じゃあちょっと見てみましょう」っていうのができること自体が何かすでに、狂っているんですよね。
小沼:でもね、余計な話なんですけど、去年の三月に立教大学でデュラスのシンポジウムがあって、一応映像のパートで喋らなきゃいけないとていう枷はあったので、そういうつもりだったんです。でもわりかしのんびり構えてて、一月になったらその大学の図書館のライブラリーにビデオ・カセットがあるっていうのがわかっていたので、一月になったらゆっくり見よう。前に見たものがほとんどだし、と思って行ったんですよ。それで、じゃあ見て下さいっていって、かけるでしょ、そしたら全然見られなかったんですよ。ビデオ・カセットがカビ生えちゃって(笑)それで六本くらいあったんだけど、全部そうでしたよ。それで、聞こえるのはかすかな音だけ(笑)。シャーっていうのの向こうにかすかに地平線が見えますみたいな、これは実はデュラス的体験かなってちょっと思ったりもし(笑)、でもやっぱりそうはいかないだろと思って、結局話は別の話をしたんです。けど、でもそれってそうかもしれないですよね。デュラスはきっと怒っちゃって、もうそんなので見られたくはないっていう。
七里:カビを生やしたんですね(笑)。デュラスが特異だったのかっていうのも、六〇年代、七〇年代、例えばフランスで言えばもっと過激なギー・ドゥボールみたいな人もいたわけですし。その辺はどうなんでしょうね。同時代性としてのデュラス。いきなり話が戻ってしまいますけれども。
小沼:でも面白いなと思うのは、ゴダールと何回も対話していたりっていうのがありますよね。同じように昔だったらアンチ・ロマンとか、ヌーヴォー・ロマンって言っていた文脈で言えば、アラン・ロブ=・グリエが撮ってるわけでしょ。それで修士論文を書いている人もいますけど、でもデュラスと違うよね。あっちの方が普通というか真っ当な映画でしょ。そういう意味ではデュラスの映画の居心地の悪さっていうのは確実にあるわけじゃないですか。
七里:その居心地の悪さっていうのは、すごく強度があって、今ごっちゃになっているだけでまだとどまっているとして、これが本当に、リュミエールの映画もエジソンの映画も区別がつかないということになっていき、映画っていうものが本当に映画のようなものに成り果ててしまった時に、やっぱり環境ビデオになっちゃうんですかね。すみませんなんか揚げ足をとるようで申し訳ないですけど…。
小沼:それはちょっと違うと思いますよ。環境ビデオのように見えるかもしれないけど、徹底して違和感がある。違和感っていうのはその見ることそのものを問うて来るので。それはゴダールもそうだって言ったらもちろんそうなんだけど、ゴダールの問いかけ方とは違うじゃない。ゴダールってわりかし練れているというか…戦略的というか。だけど、デュラスってある種、変に愚直だっていうか、ストレートでしょう。そのまんま来るから、提示の仕方がしかも作品によってだいぶ違うので。決して一つの方向でじゃなくて、これでもか、これでもかっていう形で、あなたたちはこんな風にして映画を見てないでしょうっていう風に。いままとめて見るっていうことはすごく難しいし、確かにいま三本のボックスとかになってはいるけど、でもこれはやっぱり三本だし、バンとこうあったりしたらまたそれぞれ全然違うものとしてっていうのはあると思うんですよね。
七里:そうやってボックス化されて、非常にエジソン的な環境の中で見られることで、見えてないでしょ、っていう風なんですよね。
小沼:「普通に見ようと思えば観れてしまう」っていう蓮實見さん的な言い方をすれば、そうじゃないからでしょ。
七里:デュラスっていうのは「不可視の映画」っていうことなんですか?
小沼:かな。多分。
七里:「不可視の映画」はあり得ると?
小沼:うん。いや、わかんないですけどね。でも私は二十年くらいデュラスから離れていて、デュラスあんまり考えたくないなとずっと思っていたんです。それが、この間、また見なくちゃいけないということで、見始めるとね、気になってしょうがないんです、これが。わかんないんですよ、本当にわかんないんですけど、でも逆にそれだからちょっと、本棚の奥とかにしまっちゃうんですけど、やはり気になるんですよね。そりゃゴジラの方が楽ですよ(笑)。
七里:DVDも気をつけて下さい、反っちゃうと見れないので。そろそろ時間なので…ぼちぼちまとめに入りたいと思います。
小沼:でも昔は、ここにいらっしゃっている方はご存知かもしれないですけど、昔はデュラスの映画祭みたいなのがアテネ・フランセとかであって。
七里:羨ましい。
小沼:こういうすごく立派なプログラム(と大判の解説付きプログラムを見せる)とか、偉い人たちがいっぱい、自分が学生時代とかに読んでいた人たちがたくさん書いていた。こういうものができてしまうこと、そういう環境があったんですよね。でもそういうことが、例えば今デュラスの全映画っていうのをここでやったら…どうですかね。
七里:いやここではできないですよ、フィルムかけられないから(笑)。
吉田:やってどれだけの客が来るかね(笑)。
七里:その上映って僕が東京に出てくる前なんですけども、その時の熱気っていうのはおそらく、ここでしかもう無いっていう。
小沼:いや、熱気があったとは思えないんだけど(笑)。
七里:でも八十四、五年っていうのは、レンタルビデオがこれほど当たりまえになる前ですし、好きなときにいつでも観れるっていう映画環境ではないですよね。今見逃すともう観られないですし、それまでに観てたのは蓮實さんくらい?(笑)それくらいレアだし、イベントとして熱いものだったのではないか? 話まとまらないですね。いつもまとめられないんですけど。吉田さん、何か。
吉田:えー、まとめ。まとめ。まとまんなくていいですかね。
小沼:やっぱりこういう話って七里さんまとめたいんですね、どっかでね(笑)。っていうかまとめないと終われないっていう意識が働くんですかね。
七里:終わりたいっていう意識なのかもしれないですね(笑)。もしかしたら。でも結局死ぬまで終わらないっていうのがわかっているので、もう終わってしまいたいっていうことなのかもしれないです(笑)。だから前回小沼さんに来ていただいた時も、本当にまとめる気ありましたか?って聞かれて。こういうことは皆さんに持ち帰っていただくっていうものですのでっていうありがたいお言葉をいただいたんですけど。
小沼:結論出ないような気がして。
七里:結論は出ないんですよね。
小沼:ゴダールがあってなんでデュラスなの?って聞きたいなって。いやわかってるかもしれないんだけど。
七里:そうですね。うーん…やめときます。
小沼:でも要するに、映画の中のある種の極北というか、極北でもないかもしれない、もっと先鋭的なものもあるのかもしれないけど、でも一応普通の人たちが見ることも可能で、でもそういう意味では商業的っていうのじゃないんだけど、人が近寄ることができる限界点、臨界点にいて、でもそういうことをやっているっていう二人の作家っていうことなんじゃないですかね。しかも映像と音っていうのが分離していて、っとていう……。
七里:はい。なおかつもう一つ言葉を足すと、これが劇映画に分類されているっていう。それは本当に個人的に切実なんですけども、僕は実験映画をやってるつもりは全然なくて、それなのにエクスペリメンタルなものという風に(言われる)。で、エクスペリメンタルには、もちろん非常に興味があるんですが、エクスペリメンタルと劇映画を分けることの、ジャンル分けの無意味さ、無神経さをすごく感じていて。で、僕の作品をご覧になってない方もいると思うんですが、半分真っ暗だったりする映画とか人が映らない映画とか撮ったりすると、かつて助監督をやってた師匠たちやそちらの業界の仲間からも、お前何やってんだとか、ちゃんと劇映画撮れとか言われるわけで(笑)。かといって、実験映画の人たちから仲間に入れてもらえるわけでもなく、「あの人は劇映画の人だから」と言われたり(笑)。僕は何をしているんだろうって思う時に、え? デュラスはどうなの?ゴダールって実験映画? みたいな風に思ったりは、よくするんですね。だから「以内、以後、辺境」なんぞやっていう話はいつかしたいと思ってるんですけど、その中でゴダールを取り上げたんだからデュラスも取り上げざるを得ないというか、取り上げるべきだと。
吉田:デュラスにしてもゴダールにしても、ごく単純な物を組み合わせることによって、これだけのことをしているっていうことでしょう。だから、この前平倉さんとの間で貧しいデジタルとお金持ちのデジタルっていう話をしてたけど、ごく貧しいわけじゃないですか。
七里:貧しいですよ、これは。お金かけなくてもできますよね(笑)。
吉田:音と映像をちょっとずらすだけとかね。それだけのことでこれだけのことができちゃうっていう、そこはゴダールにしてもデュラスにしても同じで、それは貧しさをいかに豊かにしていくかっていうことをしていることができてるひとっていう意味で、範にするべき人たちなんじゃないですか?
小沼:そして「美しい」ということがわかってる。
七里:はい、美しいですよ。それを平倉さんはものすごく、愛らしい人だから全く憎めないんだけど、「ビューティフルという汚らしさ」と。『アワー・ミュージック』を切って捨てたけれど、でもやっぱり(フランソワ・)ミュジーの音も美しいし、デュラスの音の使い方も美しいですよ。これはもう本当に僕は、好きだなと。
小沼:そう、『インディア・ソング』の二人の女性の声とか、素晴らしいですよね。最初の、狂った女の声も、笑い声ともなんともつかぬ…。
七里:あそこから入って、たまんないですよね。
小沼:で、あれは歌っていて、叫びになったりしながらこう来て、それで日傘をこうして、あれが落ちきるとそこでピアノが鳴るんですよね。あの絶妙さは美しいという以外ない、なと。映画はそれでいいんじゃないですかね? わかんない人はわかんないよ。
七里:映画は映画だと、それでいいということで。まとまったということにしましょうか。
次回は大谷能生さんと荻野洋一さんをお招きして、「リュミエールからエジソンへ」という話を、特に音の面に関して、お話をして頂こうと思っています。長々とご清聴ありがとうございました。

会場:渋谷アップリンク・ファクトリー

※各回の要約があります。↓



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