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第8回(第二期五回)「のぞき穴を見ている人に聞こえるリアルな音って、何?」 〜リュミエールからエジソンへ揺れる映画史を再起動する〜 2015年2月13日 登壇者: 大谷能生×荻野洋一×七里圭

七里:よろしくお願いします。映画以内、映画以後、映画辺境第八回、今回は第2期の最終回ということになります。「リュミエールからエジソンへと揺れる映画史を再起動する」と、すごい副題を付けてしまいましたけれども、映画ってそもそもリュミエールから始まっただけじゃなかったんじゃないかと。エジソンの映画があったではないかと。いったん忘れられたのだけれども、最近の映画の現状を見ているとそれは多分レンタルビデオなどが隆盛になりビデオで映画を見るような習慣が、もちろんその前もテレビでの放映とかもありましたが、モニターで映画を見るようになってから段々そういう傾向になってきたのかもしれないが、今やもうスマホの中で映画がたくさん流れている訳だしPCでも見ますしこれってもしかしたらエジソンへの回帰なのかもしれない。ちらっと前回も触れたのですが、今回はそのことにフォーカスを当てて、音楽家で批評家の大谷さんを招き、そして映画だけでなく幅広く文化批評をされている荻野洋一さんと共に話してみようということなのですが…。そもそもこの話題は、大谷さんと打ち合わせのような立ち話をしたときに…。
大谷:ポンポンポンと三つか四つくらいテーマを出している間に、興味としていくつか挙げて…僕は音楽にまつわることを書いたりしているんですが、音と映像がどんなふうにくっ付いたり離れたりしてきているのかということに関して…音楽の場合だと、レコードという形で個人が私有できる状態に割と早めになったんですね。二十世紀前半ぐらいには。トーキー初期の頃から、大衆はレコードを買う行為を結構楽しく皆やりはじめていたと。なんですが、そうした形で「映像」を個人で買って持って一人で楽しむという状態というのは何でこんなに長い間、というか二十世紀いっぱい一般化しなかったのか、ということがもともと結構疑問に思っていたところで。そうして調べていくと最初期の状態でエジソン社、トーマス・エジソンは実はなんにも作っていない、基本的に社員が全部作っていて彼は発表するだけだったという説もあるんですが…。まあ、一番最初はもちろん彼がやっているんですけども、すごい技師で、しかし、機械技師なんで、よくて電気までで、根本的に電子や電波のことは分かってなかったという話です。なんだけど、すごくマスコミを使うのがうまい人だったと。エジソンの名前で「発明王エジソンの新しい発明です」というとマスコミがわっと来るわけですね。すると金を引っ張って来れるわけですね。電力会社とか。基本的にそうした形で色んな優秀な社員を集めて作ったのを発表していたという状態がおそらく正しいんだろうな、というのが最近(の結論)なんですが。その中でエジソンが最初に作った動く動画は、個人ユースだった。皆さん映画に詳しいのでご存じだと思いますけれども、のぞき穴を見る形で、その中にお金をチャリンと入れて見るとこういう形で映画が見れて。ジュークボックスみたいな形ですね。一番最初の自動販売機だったと。コインを入れると動くという発明でもあったみたいですね。そうした形でチャリンと入れて見て終わったら終わる。そしてもうその時には中にエジソンのシリンダーが入っていて音楽も聞けると。チャリンと入れるとこうやって見れて「おお」って。終わるとバッと消えて次の人と変わるというようなシステムで動く映像を商業化した人としてのエジソン、という話なんですが。
七里:スピーカーはなかった?
大谷:なかったです。
七里:イヤホンで聞いていた?
大谷:はい。
七里:なんか最近の状況を…
大谷:そうですね。今のこういうスマホでイヤホンという。今はチャリンと入れなくてもカチカチとやるとピッとなりますが。You Tubeですね、完全に。こういうのがペニーアーケードや遊園地に新作ですとかいって置かれて週間ごとに変わるとか。そういう感じの状態だったんだと、いまあるような映像状況は、映画の最初からあったじゃんというような、今見てる状態で皆みてたじゃん昔、と思ったというのが最初の状態なんですけど。
七里:それは一八九二年とか?
大谷:九一年とか結構古いですよ。リュミエールより古いですね。
七里:リュミエールの一、二年前ですね。
大谷:キネマスコープですね。最初は人気があった。
七里:どのくらい普及していたんですか。
大谷:それは多分データは出てくると思いますが
七里:人気はアメリカの方ですよね。
荻野:最初はアメリカの遊園地とかアミューズメントパークなんかで行列させて見ると言う形式ですよね。それがシネマトグラフリュミエールと違うのは行列することによる商業的な成功の限界というのがありまして。
七里:一度に多くの人が見せられないから回転数を多くするしかないという。
大谷:短くしてぱっぱと取り替える方がいいというのがそこも面白い感じですね。エジソンの方は多数がいっぺんに見れるより、一個ずつ金取った方がいいじゃんという派だったらしいですね。スクリーンに映したら皆で見ちゃうからダメじゃんと。
七里:それは何でダメなんですかね。
大谷:そこが分からないとこで、エジソンってすごい変わってる人で、一応大発明をしたと言われているけれども基本的なシステムは全部違う人が発明した方が主流になっているんですよね。電圧だと直流と交流の二種類の内、エジソンは絶対直流派で。発電して電線で家庭に配る時に絶対直流の電気でなければだめだとか言ってて。結局直流電気は遠くまで送ると電圧が落ちちゃうので、当然交流システムになるんですが。瘻管レコードも円盤系になっちゃったし。
七里:瘻管だったんですか?
大谷:もともと管がこういう状態だったんです。そういう風に刻んだやつがあるらしいんですね。どっちでもできるんですけどね。でもそれだとコピーが大変で、これだとたい焼きみたいに焼けないんですね。それで円盤型が主流になったと。
七里:結局彼が作ったものってそのままの形で二〇世紀に残ってないんですね。
荻野:だからどこかが欠けているんじゃないんですか。企画競争で勝つためには。
七里:ちょっとおかしい人だったということで。
荻野:変だったのはその都度みな気づいちゃうところがあったんじゃないでしょうか。
大谷:彼の個人的な欲望とか、耳が悪かったとか色々あるんでしょうが、何にしてもさっきの話もそうですけれども、こうやって個人で映像を見た方がいいじゃんと最初に思った人がいるっていうことですね。今から考えるとそれだとお金儲からないんじゃないとか、えっそれでいいのとか思うんですけど、最初の段階で動く映像を発明した時に、箱に入れて個人で見るようにしようよと発想した組があったんだということは…
七里:意外と忘れられて
大谷:忘れられた後に言及されたときには、その話が映画の本質に関わるものだとあんまりみな思わないまま来ているな、と言うのが発想で。ちょっとその映像エジソンを見てみましょうか。
七里:そうですね、えっとこれはリュミエール?
大谷:はい。リュミエールも見ます。エジソンの最初期に、ニューヨーク郊外なんですけどスタジオブラックマリアと名付けられた。
荻野:ああ、「ブラックマリア」ですよね。
大谷:黒い監獄みたいな、その中に入って撮るというやつがあるんですが、その映像を何本か拾ってこれたので。
七里:ボクシングですね。

(エジソンの映像見る)

七里:これつまり見世物小屋を覗けるみたいなことなんですかね。発想として。
大谷:分からないです。分からないんですけど一つ特徴としてはスタジオで撮っていて後ろが黒幕なんですよね。要するにロケーションじゃなくて。
荻野:外で撮るわけじゃない。
七里:つまりノイジーじゃない
大谷:ということですね。
荻野:その辺り、今日のテーマとして重要な部分ですよね。
大谷:世界最初の動画で、何を撮ろうかという時に、まずスタジオにカメラと被写体を入れて後ろを黒にして…何が面白いんでしょうね。(笑)。まあ結構面白いけどね、これね、下に犬がいるという、ゴダールの犬ですね(笑)。いや、違います。これね、ボディビルの有名な人らしいんですよ。黒幕の前でポーズ取らしてそれを撮っている、それを個人が見れる箱に入れて皆が金出してみるということを商売として考えた人がいるわけ、ちょうど百年前に。

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七里:これは直接エジソンがディレクションしたんですか?
大谷:ディッケンソンというイギリスの方がやったらしいんですけど、基本的にエジソンの手が通っているので、エジソンはこういうのがいいんだと思ったということです。
七里:じゃあ今で言えばプロデューサー?
大谷:要するにどういう物を作って売るのかという感じで。
荻野:これが天下を獲ってしまう可能性があった。
大谷:あったんですよ。その当時これを見たいと言う人が大挙して押し寄せれば百年くらいこっち側で我々映画を見ていたはずなんですが。これも有名な、ダンサーの人呼んできてスタジオでカメラの前で踊らされてという状態で。何がないかというと、ここにはストーリー・脚本はないです。お話がない。で、ロケーションがない。で、当時、結構ある程度の名前が売れている人を呼んできて撮ってるんですよ。これはボクサーで、つまり、スター・システムな訳です。最初から。当時の人はこれ皆知っている人らしいんですけど
七里:すごく話飛んじゃうんですけど…
大谷:はい
七里:テレビ的な発想かもしれないですよね
大谷:たぶんそうですね。テレビの本質って、ラジオだと思うんですよ。何を言っているんだって感じですけれども(笑)。要するにみんなで知っているものしか基本的にそこにはない。遠くから届けられる近いもの。「テレ」「ビジョン」なわけで……。これは同じ場所のすぐ外で撮っている状態ですね。この人も有名な人で。こういうのでも最近テレビ出ている人でいますよね。四時のドラマとか四時のニュースとかでちょっと挟まってるみたいな。

荻野:純粋に運動論的な映像が続く感じ。
大谷:はい、そうなんです。方向性としては変わった動き、純粋に運動に還元されていく方向で記録を撮っていくという、科学的な視線という状況ですね。これもね、何だかね。最近読者投稿でアイフォンでこういうの撮っている人いませんか。
七里:「踊ってみた」とか。
大谷:はい。それも持ってきたんで一緒に見てみようと思うんですけど。
七里:当時の有名な芸人だったり有名な見世物だったりするんですか?
大谷:見世物というか出ている人は有名人です。見世物かどうかは分からないです。どっちかっていうと黒枠の黒バックの前でそういうことやらせて抽出化するみたいな感じですね。
七里:これは(映像見ながら)なんかちょっと寸劇的な。
大谷:寸劇ですね。こういうの呼んできて、でもポイントというかよく思うのは、要するに黒幕の前でやるという気もちが…。
七里:それを覗くわけですよね
大谷:一人で見るわけ。
荻野:我々は今みんなで見てるけども、ではこれは反エジソン的な行為ですね
大谷:ところが今ネットにつなげば全員、個人で、一人で見れるわけで。
荻野:当時はこれが遊園地なんかにボックスがあってそこの前に行列して料金払いながら一人ずつはいお次の方って言って見ていったんですよね。
大谷:スターシステムの先駆けとも言えるというか、スターを出してそれを庶民が見るという話で。
荻野:どこかの時点でリュミエールがエジソンに勝つっていうのは…
大谷:映画史的に。
荻野:映画史的に。映画の歴史が人類の歴史に似ているんじゃないかってさっき大谷さんに言いかけたんですけど、結局人類の歴史もカインとアベルの殺人から始まったわけですよね。どっちかがどっちかを亡き者にして。
大谷:ハードコアなキリスト教的原理ですね。要するに最初の段階でこういう対立があったと…そういうことが映画史の中では語られていない、一回忘れられているというか抑圧したんだろうなという感じなんですけど、リュミエールをちょっと見てみましょう。
七里:比較しましょう。言いたいことが溜まり始めているんですけど(笑)
大谷:これがリュミエール。五、六年前に、もっと前かな、ボックスセットが出たんですよ。
荻野:いいですね!
大谷:リュミエール・セットが出てDVD四枚組で一枚に九十本入っている。四×九十=三百六十本見れるという。一日一本見ても一年見れるというやつが出まして、もうこれは本当に楽しくて楽しくて
七里:リュミエールって、まず映画として素晴らしい。
荻野:本人が撮ってたわけじゃない。リュミエールのカメラマンたちが撮って来たものだけど。
大谷:最初にカメラ回したリュミエールの則に沿ってますよね。画角とかフレームがはっきりしているっていう、これね、ちょこちょこセットで冗談が入っててね、いらっとするんですけどね、はい次行きます。
七里:これ金魚ですね。
大谷:金魚鉢。
七里:有名な(笑)
荻野:これ大谷さんたちの著書の中でも触れられていますよね。
大谷:はい触れてますね。

(リュミエールの映像見る)

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七里:さっきエジソンを科学的という風に仰ったんですが、こっち(リュミエール)の方が観察的というか。
大谷:一見これクローズアップしているのでエジソンっぽいかなと思ったんですけど、見てみると感覚が全然違いますね。本当に家にあって珍しい風俗を撮っているという感覚で、リュミエールは基本的にロケーション撮影で街中にカメラを持っていくわけですね、基本的な動きとしては。自分たちの周りにあるものを対象として撮っていく。それをみんなで見て楽しむっていう傾向がはっきりあって、なのでリュミエールが黒幕でああいう風にとっているのって見たことないですね。こういうカメラを街中に、これは出し物、こういうのもたくさんありますけど。

(さらにリュミエールの映像見続ける)

大谷:今日はもうこれで八本くらい見終えた。エジソンから数えても十本くらい見てますね…、これも出し物系なんですけど、その人たちをスタジオに呼んできて撮るという感じではなくて、あるところに行って切り取っていくという形の欲望、街中の風俗を撮りたいそして見たいという状態。これもなんか面白いですね。これも多分ボードビルでこういうネタがあったんでしょうけど。
荻野:起点をなすのは写実ですね。
七里:そうですね、写実主義、快楽的といっても、自然主義。
荻野:『ラ・シオタ駅への列車の到着』とか『工場の出口』といった有名作品も、あれら全てが演出はされているにしろそこに写実というものがある。
大谷:そうですね。基本的に自分たちの周りに世界があってそれを切り取るんだっていう姿勢があって、エジソンはちょっと違う感じですね
七里:エジソンの方が企画性がある?
大谷:リュミエールも企画ではあるんですが。
荻野:これは船の出港ですね。
大谷:ヴァレーズ号の船出というやつです。これは処女航海に出る時らしいんですけど。すごいCGです。嘘です(笑)。カメラの置き場所とフレームがかなり意識しているんですよ。で、見ている人が意識するように作っていて、エジソンの場合はほとんど意識されないというか。接写で見に行くっていう感じなんでフレームがどうとかカメラワークがどうとかは全く関係ないです。これはこのフレームでしか撮れないですね。
荻野:素晴らしいです。このフレームワークは現代映画とそう違わないですよね。
大谷:おなじようなところから今船出を見送った人を撮ったのが次のやつです。カメラがあることはお客さんも分かっている。船出の後、ちょっとふざけている人もいたりして。みんな帽子かぶってるな、とか思いますね。
荻野:十九世紀から二十世紀初頭にかけての本当の人々の本当の姿
大谷:そうですね。その当時の。
荻野:ええ。ブルジョアジー階級の人たちですが。
大谷:船出に立ち会っている。わーってカメラにフレームインしてくる。見てると止まんなくなっちゃうね、リュミエールは。
七里:なっちゃいますね。
荻野:映画としての完成度は、これはもう相当完成してしまっているような…。
大谷:いやだから、そこでこれを映画と言ってしまっていいのかということを言いたいんですよね。こっち(リュミエール)側でしか映画を考えないじゃないですか。
七里:そう。
大谷:エジソンはどうだったんだっていうことを今日言いに来たんです。
七里:ですよね。
大谷:映画の人はリュミエールのを見て、必ず映画として完成されてるって言うんですよ。それはいいんですけど…。
荻野:いやでもね、否定される前にだからリュミエールの伝統から行きますとね…。
大谷:いや、否定はしないですよ。実際の話として、パッと見ても出てくるのとしては上映システムとして劇場で公開するっていうことを最初から考えて、これぐらいの大きさで映写して見るように撮っている訳ですよね。そこで見たいものを撮っていて。マスメディアであったということと、あとスクリーンに拡大して見るんだと。エジソンは小さいままでいいんだと。葉書ぐらいの大きさにしかならないですよね。それでしかもバックライトなんですって。だから目に直接ライトが当たるんですって。今と一緒なんですよ。反射していなくてフィルムそのものを見るんですよ。ということは完全に今のモニターと一緒なんですよ。モニターは光源自体を見ている。映画は光源自体を見ない。
七里:映写は影ですよね。

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大谷:そこは全然違って、現代はモニター以降で、光を直接見るようになっている。ロケーション撮影。(リュミエールが映るスクリーン見ながら)これはコサック。どこで撮ったか分からないんですけど、モスクワの近くで撮ったらしいですが。で時事風俗を撮ると。色々なネタが多めで。構図とかカメラとかフレームへの意識だとかがはっきりしている。それは多分投射するからだと思うんですけど。基本的にはリアリズムで出ている人と見ている人の距離が非常に近い。サウンドがないんですが劇場システムなので劇場に楽団がいるので…楽団は手が空いていると演奏しちゃうので、基本的にずーっと映画の間は演奏していたらしいんですね。要するに常に音楽の…劇場と絵画…フランス絵画の伝統的な物を一部として使っている。これは完全に絵と同じ構図。
荻野:もう素晴らしい構図ですよね。完成度が高い。

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大谷:うん。これでさっき(エジソン)の棒を転がしてるのをみると(笑)なかなか味わい深いものがあるわけですが…エジソンの場合だとスタンドアローンで覗き込み上映なわけですね。個人メディア。
七里:個人メディアで発想すると、ああいうことでいいということになるわけですかね。
大谷:なのかなって思わざるを得ない。個人で観ると思ったらあれでいいのかっていう例で言うと、エジソンはこのシリーズの中で速攻キスシーンを撮っているわけですね。体を触りあう男女を撮っているわけですよ。要するにポルノを一番最初に撮っているわけ。リュミエールは、それは絶対やらなかったのね。
荻野:なるほど。
七里:それ、ビデオデッキが家庭に普及したのは…
大谷:まぁエロビデオを観たかったからですね。
七里:だから販促のサービス品として、つけたという話もあるじゃないですか。町の電気店が。
大谷:そうですね、八十年代こっそり。ラベルがあんまし書いてない、擦り切れたようなビデオを、これをつけるので買ってくださいって。二十五万くらいのデッキを買って家でこっそり観る。
七里:それに近いことがエジソンの頃にも発想されてたということ?
大谷:えっと、すぐそこにいくかわかりませんが、リュミエールと比べてもね、撮る物と観る物が違うと思いませんか。システムとして個人で観ると考えていていたエジソン。動画のことどう考えていたのか。それが二十世紀、顧みられなくなっている。全員であれはやめようぜという、抑圧か何かあったのかもしれないんですけど、それが生まれ変わったのがヘイズコードだと思うんですよ。一回殺して抑圧したわけだから、後からかえってくるわけですけど…それがちょっとずつ映画の歴史の中にあるんじゃないかなと思っていて。カメラの中でエジソンがやったのはモデルを撮影、モデルというよりタイプを撮影して抽出してみる。構図はどうでもよくて対象者に密着する意識ですよね。演出もそれを強めにしてみせてやる。
七里:企画性ですね。
大谷:そうですね。強めにして、観せるっていう意識。
荻野:なんかYoutubeの映像みたいじゃないですか。
大谷:それが映画の最初期の段階であったでしょ、っていうことなんですよ。それが何故か一九三○年代、四○年代、五○年代というのはアウトで、そういう物って言うのは堕落していて映画の伝統的にはかっこ悪いものなんだという時期があったんじゃないかと。
七里:やっぱり、リュミエールは…。
大谷:ホッとするでしょ?
七里:「これが映画だよ」って言ってしまう人たちがいるのは分かる。
荻野:リミュエールを観たときに映画ファンの方は映画だなって思うわけじゃないですか、葉っぱ揺れているとか風とかふいているとか、映画だなと考えるわけじゃないですか。
大谷:映画的楽しみがある。「映画的記憶」か。
荻野:リュミエールとその後のジャン・ルノワールと、そしてそのあとのヌーヴェルヴァーグの映画っていうのはもうそんなに距離はないですよね。
七里:ここにモンタージュが加われば映画ですよね。
荻野:移動、クローズアップも。
大谷:こっち(リュミエール)はノゾキアナでは観るつもりなそうですね。
七里:面白いですけどね、走ったりして。
荻野:これはみんなで一斉に観る物に非常に適している。社交的なものになっていると思うんですけれど、エジソンのやつは非常にオタク的で。
大谷:まあ、そういってしまうと、二十世紀的な話で。ほんとうにエジソンはオタク的なのか、これは映画じゃないのか。だって、最初からあったんですよ。で、どっちかを方向性として、当時の人たちが選んだわけで。方向として、エジソンはやばい。やっぱりみんなでみる、みんなというものを作り出すリュミエールでいいんじゃないのってね。まぁ、いいのかな(笑)って気もしますけどね。

(エジソンの映像見ながら)

荻野:これはもう完全に純粋運動として動画という物。
大谷:「おどってみた」みたいですよね?
荻野:これをこうするためにやっているということですよね。
大谷:カメラの前でしている。
荻野:こうしようっていう意図がある。七里さんがさっき企画性とおっしゃっていたけれども、これはこういう動きをするということが目的化しているだけであってリミュエールの場合、目的化されていない世界そのものの広がりが映り込んでいる。
大谷:それを映したかったわけですよね。エジソンの場合は、これが見たかった訳ですよね。映像を目的化しようとういう。
荻野:これはしかし、全く世界から寸断された…。
大谷:でも、全員がリミュエールを観たかったわけではないということをですね、確認しておきたい。これを見たかった人がいるんですよ。
荻野:これは今、我々から観ると秘密結社というか、なんかね(笑)。
大谷:いや、そうなんですけど、二十世紀の間にこっちは秘密結社においやられてしまった。でも、下手したら世界を制覇していたかもしれない。実際にでも…ほんとうに面白いな、エジソン何やってんだっていうね。
七里:でも、これってやっぱりノゾキアナを覗いているからこういう物をみたいと思ったわけで。
萩野:つながっているわけですよね。
七里:世界制覇できなかった。
萩野:できない因子はありますよね。
大谷:内容というより技術的な問題、経済的な問題があるわけですよね。でも例えば、今のテレビと同じ状態で家庭に一個動画を持てる技術がすでにあったわけですね。一九一○年代で。値段は大量生産すれば安くなる。カメラも自分でこの時まわせるんで。ってことは自分のおじいさんとかお母さんを撮るとか、自分ちのエジソン・システムに保存しといて、家族だけで観るとか、おじいさんの映像を死ぬ前に撮っておいて、死んだあとに子供がそれを観るとか。さらに音声も一緒に観るっていう形で、儀式のパーソナルメディアとして、各家庭に一個ある記念アルバムみたいなかたちで、これを使うことができたはずなわけ、動く映像を。ところがそういう風にも普及しなかったわけです。
荻野:夫婦の営みを個人的に押し入れの中に8mmフィルムで残っている、そういうエジソン的な映画史が百二十年間の歴史の中で語られないまま…。という可能性。
大谷:そういう欲望みたいなのが隠匿されて、映像を個人が個人で楽しむ・コントロールする・制作する歴史というのが、最初の段階で、リミュエールとエジソンの間にあるズレっていうのがあったんじゃないか、という見立てです。現在の一般的な映画史の中では、一回それが忘れられるというか、完全にアンダープレッシャーというか。でもそれが、抑圧されてどっかに脈々と意外な形で残っているのではないだろうか、それがいま携帯とともに帰ってきてるんじゃないか……という。
七里:それって、僕らの世代の小型映画、八ミリとかもその揺り戻しだったのかもしれないですよ。かつては、活動写真ってお金持ちの遊びだったわけじゃないですか。それが、一般家庭にでも持てるようにした八ミリ映画とか、もしかしたらエジソンの「呼び戻し」の始まりだった過程なのかもしれない。
大谷:「呼び戻す」って言うよりは…常にこれまでもぴょこぴょこ出ているわけ。それがメディアとのかかわりの中で全面化しているんじゃないか、と。最近こういうものを観てるんですが(初音ミク流れ始める)まぁエジソンですよねー。さっきの、棒動かしてるやつと一緒ですよね。
荻野:おんなじですね(笑)。
大谷:音切ってみると全く同じ。
荻野:心なしかバックの背景の公園が、書き割りのように見える。
大谷:その時にあった欲望と同じものが、再リリースって言うより、「リュミエール的映画」に抑圧されながらも実は常にあり続けていた「エジソン的映像」の欲望が……個人ユースになって、個人で観るってなった時にこういうものをすぐにやりたがる人がたくさん出てくる。それは消されていたっていうよりはいつもある。何か映像を観ているときには。
七里:いつもあるのに今までこれが主流にならなかったのはどうしてなんですかね?
大谷:って言うようなことを考えたい、というかお聞きしたいんですよ(笑)。
荻野:まぁ理由のひとつは明らかにあまりにもリュミエールというものの普遍性があまりにも強すぎて…。魅力が。
大谷:魅力が強かったんですかね? これ(初音ミク)どうですか? リミュエール的に。
荻野:これはエジソンとつながっちゃいますよね。同じシリーズの中に継承されている物でしょうね。
七里:実はね、この会話はデジャブのようで、去年の三月にあったんですよ、揺り戻しと言えば。渡邉大輔さんを呼んだ第二回目に、初期映画っていうのは彼が映像圏と名づけた現在のソーシャル環境の映像にものすごく似てると。ミクミクダンスはねあの時、エジソンの、アナベルのバタフライダンスだと。

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大谷:同じこと考えている人がいるんだー、よかった(笑)俺がおかしいんじゃないんだ。
七里:いやいや、結構研究者の間では言われていることらしいですよ。あの時はミクミクの『千本桜』を流したんですけれど、その後でアナベルを映して、「これ一緒でしょ?」って言われた時にね、その時は僕と吉田さんが相手をしてたんですけど、「これ一緒か?」っていう風になっちゃった。
大谷:でもね、とりあえず比較してみるとこっちだよねって言うのはわかりますよね。エジソン側だよねっていうのが。
七里:そう、エジソンとリミュエールとっていう補助線を引くと、たしかに(笑)。
大谷:同じことやっている(笑)。で、これは映画からハブにされてきたわけじゃないですか。
七里:その時(第二回)にね、紛糾とは言わないけれど、むきになって渡邉大輔さんが力説をし始めてしまって。それは打ち合わせの時までは納得してたんですよ。でもそれは、パソコンを見ながら打ち合わせをしていたからで。それをスクリーンに映して「ほら一緒ですよね」って言われたら「ちょっと違うかも」と思った。

大谷:スクリーンでみんなで見ると……でも、覗き穴からこれを観て興奮する者がいるんだという話ですよね。さっきの比較で例えると、『船出』とかよりは筋肉ムキムキを接写で撮ったほうが楽しいって思った人が映画の誕生の時にもいたわけ。
七里:それは、スクリーンに映すという行為が何か抑圧、こういうものを抑圧することになるのかもしれない。
大谷:それは絶対あると思います。個人なら大丈夫だっていう物もあるので。
荻野:『アフロディズニー』の中で「子供部屋」っていうキーワードを使っていますよね。そこには社交がない、子供部屋なら抑圧がなく、自分も好きなものだけでできる。
大谷:みんなで観てみんなで確認し合うっていう行為のほうに、映画の歴史は確実にある、進化していった歴史が確実にある。サイレントからトーキーになって当然アメリカが主流になってその時にそうなっちゃうのはわかるんですけど。だけど、動く映像が作られたときに、そうではなくて個人的に
魂の暗部っていうか、「これは俺のものだ」っていう、人に渡したくないし、自分だけが観ていたいしずっとそれにinしていたいっていうような欲望っていうのはあったはずで。それっていうのをどれだけリュミエール的な物が押しつぶしてきたのかっていう形で考えたほうがいいのじゃないかと。最近それが緩んで、で、世間的には続出しているわけですよ。画面をみんなで見なくなった瞬間に全員が自分の観たいものだけしか観なくなるっていうことがあって、それは最近の話って言うより、一〇〇年間ずっとあったんじゃないか、その欲望を映画館というシステムが抑圧したんじゃないか。映画館の中から映画を追い出す試みって言っているんですけれども。映画館システム自体が映画の中に入っている。そいつをなんとか映像から追い出したほうがいい。すべての映画館で上映されるために作っている映画の中には。
七里:なるほどね、でも、今映画というと映画館で上映されるというわけでも…
大谷:その(映画は映画館で見るという)時期が長かったのに、それはほぐれてきちゃっていてモニターが増えてきちゃっていて。個人で撮って個人で観れる状態っていうのが一般化してきているので。それまではまず映像の私有率はものすごい低くて、テレビもそうですけれどもコントロールされていたわけですよね。上映する人と観る人はわかれていた。
荻野:シネフィリーの抑圧の一つとしては劇場至上主義みたいなことはあったと思うんです。ビデオで観た気になってはだめだと。劇場で観て初めて映画体験になるのだという。まぁそれと同時に、劇場でスクリーンに目を向けるという行為というのは、隣にも人がいて観てるっていう行為をお互い監視、まぁ監視まではいきませんけども・・どこかその、社交空間の一つとしてみんなで集まって観るっていうという所に、いや当然これはいい意味でも悪い意味でも抑圧が働くわけでして、そこで感想を述べ合ったり、ある作品を褒めたことに対して、「君は馬鹿か」と怒られたりする。そういう抑圧の中で人というのは社交力とそして、人生を歩む上での力を蓄えていく、そういう成熟をしていくわけじゃないですか。映画を通して・・ただそのエジソン的な映画の脈々と続く…。
大谷:欲望に身をまかせると…。
七里:そういうものは発動しにくいでしょうね。
荻野:それが今立ち上がっているというよりは、そもそも一度として滅んだことなかったのだと…。 
大谷:もともと映像自体はそういう力があるんじゃないか、と。それを映画って形でとらえたときに映像の力をはずしていく、それを社交のモノに使えるようにしていく歴史があったのだろうなと思うのですね。
七里:そしていま、映画が映画じゃないものにかわっていく。ボディスナッチャーみたいな。何かものすごく漠然とした違和感だったんですよね。
大谷:それは、子供のころに抑圧されたものがリリースされて今返ってきたんじゃないかと思った方が正確なんじゃないかと。
七里:精神分析されてる(笑)。
大谷:分析というよりは…映画ファンの人というよりは、映画観たことない人が今あるメディアで何撮るかっていうと、さっきみたいなものが多いわけ。自分で撮って全員で観れてそこで社交を行おう、そういうのとは違う形での切り離しとまとめあげが携帯の映像にはある。エジソンだって別に社交を考えていないわけじゃなくて、あれを使ってお金もうけをしているわけですし、基本的にこういう形で撮ったものをこういう風に観て貰いたいっていう形で、あたらしい視聴者はできていくわけですよね。それを今は一回百年間くらい忘れていたものでやり始めているんではないかっていう。
荻野:恐ろしいですねエジソンという人は。
七里:映画もそうだったとして、レコードがそうですよね。
大谷:そう。実はこれは逆で、レコードの方が先なんで、レコードが完全にそういう独りで聞けるような状態…。音楽のほうが圧倒的に、最初に家に持って帰れるものになった。個人ユース音楽の商品の中で最大の、中興の祖みたいなやつが、オリジナルサウンドトラックだと思います。LPになったときに七十分近く音が取れるようになって、何をやろうとしたかというと、映画を持って帰れるようにしたわけ。家で映画を好きな時に好きなように楽しめる、音だけですけどね。とういうのが一九五十年代の時に爆発的にヒットした。外にいかないと観れなかったステージ、外に行かないと楽しめなかった芸能というのを自宅で楽しめるようになる、ということがレコードにまず先にあって。
荻野:その発想なんでしょうね、エジソンの発想というのは?
大谷:うーん。エジソンの発想はよくわからないことが多くて、だって、あんなムキムキしたの観たくないじゃないですか、まぁエジソンが家で何回もあれをみるかというと、そういった人だったら観るかもしれないですけど、ともかく、音楽も映像も一人で観て聴くものでしょ、ということ。そういう思考があるんだ、人間には。それは今に珍しいことではなくて、エジソンの前にもいたわけで、世界が始まった時から、動く映像ってあったわけで、二〇世紀にエジソン的方法というのは、それはあってはならない、観ない、知らないそんなものに興奮しないという感じで、今に至ってるんだなと。
荻野:シネマトグラフ・リミューエールの勝因のひとつとして、リュミエールのああいう写実的なブルジョア生活の切り取り方だけでなく、その後ジョルジュ・メリエスにシネマトグラフの権利を売却せざるを得なくなったという事情がいい方向に働いた。スコセッシのこないだの映画(『ヒューゴの不思議な発明』のこと)もありましたが、結局そこである種半分程度エジソンに場を譲るというか、メリエスの空想力によってエジソン的な欲望を接ぎ木して貰って、それで養分を得てシネマトグラフというのは太っていくわけじゃないですか、エジソンにどうやらそういう異種交換の欲望はなかった、自己完結したスタジオの世界だと思うんですけれども、リュミエールの場合は写実には終わらず、ジョルジュ・メリエスの空想力とか、グリフィスのストーリーテリングへの一つの洗練化とか、色んな異種混合する要因、因子を持っていたわけですね。それが「社交」と言ってもいいのかもしれないですけれども。
大谷:エジソンのスタイルは二〇世紀に入る直前くらいに、ほとんど絶滅しちゃうんですよね。そのあとエジソンは完全にバイタスコープにいっちゃって、二〇世紀に回るんですけれども、そのときは全然タッチしていないですね。映像はオフィシャルな物だということに呼び寄せられていって、プライベートな映像って物は世の中から一回消える勢いになってしまう。
荻野:イーストマンコダック社は…。
大谷:と、組んでいるのは最初からですね。あれ面白いのはアメリカはフィートが基準なのになんであそこだけメートル法なんですかね。未だによくわかっていないみたいですね。
七里:でも、フィルムはフィートで換算しますよ。
大谷:八ミリとか何故あそこだけメートル法なのかっていうと、コダック社のテーブルがちょうどそういう大きさだったというのをこの間読んだんですけど、本当かなって。エジソンの時はもう少し大きいやつで回転数ももう少し早かったと思うんですけど…なんにせよ、そういうのを直接観るっていうスタイルは十五年くらいでなくなっちゃっていて。みんな「そんなもんいらない」と思ったのか、思ったから無くなったというのが映画の歴史だと思っているけれども、実際はそうじゃないんじゃないか、つぶされたんじゃないかというのが、最近のiPhoneとかyoutubeとか観るとそっち方向にチューニングされているんだよね、どの映像も。
七里:リミュエールの映画って明らかに進化していくわけですよね。
荻野:他者をとりこんでいく因子があったわけですよね。
七里:例えば、エジソンの映画って最初から音があったわけですよね。
大谷: そうなんですよ。でも、シンクロしているわけでなくてBGMとしてです。蓄音機のやつが箱に入っていて、ヘッドホン・イヤホンで聞く。
七里:リュミエールの映画は当初音がなかったんですよね?
大谷:考えてなかったみたいです。投射式なので、当時ステレオで三〇人くらいに聞かせるのは結構難しい状態ですから。アンプリファイするのは二〇世紀に入ってから。
七里:まぁ技術的に無理だった。で、伴奏がついたと。
大谷:伴奏がついた。劇場なので何から何まで伴奏がついて、無声映画の時は、常に音楽流れっぱなし。
七里:で、エジソンの映画はリニューアルをしていかなかったんですか?
大谷:リュミエールからここには結びつくじゃないですか。エジソンが「踊ってみた」とかに結びつかない。
荻野:あれはあれで完結している。
大谷:その先があるとすれば、実験映画とか、極端にいうと僕はそれはポルノだと思うんですね。エジソンのラインっていうのは。
七里:いや、というか、音に関して蓄音機があるのなら朗読をいれるとか。そういう発想は起きなかったんですかね。
大谷:エジソンは基本的に「音楽」があんまりよくわからなかったみたいなので、作った時には声を撮るメディアとして考えていたみたいなんですね。書かなくても証文として、裁判用に作ったっていう話もあります。
七里:面白い。でもエジソンの映画には声はついてない?
大谷:基本的についてない…いや、声がついてる場合もあるんですが、それ確認できない。本読んでくと、登場人物がしゃべってるのはあるそうです。けどちょっとわかんないんですよね。
七里:あれ。ということは、そっちの方がトーキー最初ってこと?
大谷:初…。いやでもトーキーっていうのはずっとたくさん実験はあったので。うまくいっていれば箱の中からしゃべりかけるものになっていたのかなと。
七里:そうやって改良していったら、かなり刺激的なものじゃないですか。
大谷:箱の中の人が、その人の声でしゃべりかけてくるというものを、自分の家で保存するっていう。で、夜になって、寝る前に毎日見るっていう。
荻野:洗脳されそうですよね。どっかそういう、なんかこう、結社的なね、秘密の。
大谷:そうか、そこで結社という発想が出てくるのが、映画の人って感じですよね(笑)。
荻野:シネマトグラフの連続体としてのポチョムキンっていうのは完全に…。
大谷:これはもう結社感というよりは、人民感というか、組合感といいましょうか(笑)。
荻野:完全に劇場の表現物として。
大谷:劇場の表現ですよね。これどう考えても劇場で見るように作ってますもんね。これスマホとかで作っていたらすごいことですもんね。
荻野:この本にもありましたけど、専用のサウンドトラックっていうものがすでにドイツで出来ていたということを仰られてますよね。
大谷:曲も作ってあったんですよね、このように。
荻野:この時点でコンサートであるとか、演劇の上演であるとか、そういう隣接分野と結託あるいは異種混合をする意思というのがあるわけですよね。サイレントの時代から。
大谷:劇場でってことですよね。みんなで集まって観て、音楽もバーンと高らかに鳴らされてっていうことで、フィルムの中に入れなくてもまあ、別にいいんですよね。音楽だったら。声が、だから、別なんですけど。
荻野:声が別っていうのが大事で、今日みなさんがご覧になった七里監督の映画(※講座の前に『映画としての音楽』がプログラムされた)もそうでしたけど、はじめから人間は映画を音付きのものとして見たいという欲望があって、サイレントでいいとは誰も思ってはいなくて、それもいずれは、トーキーになる。今は無理だっていう状況が二〇年くらい続いたわけですけど、最初から音を欲しがっていたことは確か。日本でも最初から楽団付きで、神戸かなんかで最初やったんですか。演奏付きでシネマトグラフが上映された時には、
大谷:京都が最初ですね。
荻野:京都が最初ですか。神戸はエジソンのキネトグラフかな。関西の方ですよね。フランスのリヨンで染料技術を学んで大坂で起業した稲畑勝太郎がシネマトグラフ、ガブリエル・ヴェールっていうリュミエール社の技師を連れてきて公開したのが最初ですけど。その後、結局、音と画っていうのはセパレートされたもので、一向に構わないというのが、最初からあったと思います。例えば、歌舞伎であるとか能楽であるとか、そういった先行した分野においては、声の主というのは必ずしもその登場人物の声である必要がないわけですね。浄瑠璃であるとか、そういった後ろのバックバンドが主人公の声を代行すればいいということが、もう既に江戸時代からあったわけで、そういう下地の上に映画が発明されたとすれば、母親の叫びをシンクロで女が言わなくてもいい。
七里:「ああ、母は叫んだのでした」とか言えばいいんですよね。
荻野:弁士が代わりに叫んで、それに対して一向、誰も文句を言わないわけですよ。弁士っていうのはある種、DJ的だったらしくて、自分がこういう風に語りたい、こういう風に音を出したいという欲望に基づいて、映写スピードを早めたり遅めたり縦横無尽に、ここはいっぱい語りたいっていうところはほとんど静止状態にするぐらいな感じにして、この辺はさっさといこうっていうところでビューってスピード出したりとか。
大谷:ポチョムキンに弁士入れたらすごく難しそうですね。これね、いっぱい言うことありますもんね(笑)。巻き戻してもう一回言ったりとかして。
荻野:一人の人が多声音出さないといけないですもんね。
大谷:それくらいモンタージュがすごいね、これね。
七里:でもきっと、画に当てないと思いますよ。
大谷:それにしてもポチョムキンを説話するのはとっても難しいですね。弁士一人じゃ無理なくらい。そうするとまあ、これはほんとすごいな。今観ても。
荻野:すばらしいですね。
大谷:すばらしいですね。やっぱりエジソンよりこっちの方がいいですね。(爆笑)「踊ってみた」とかより。俺やっぱりこっち派だなあ。
荻野:それが、今の言葉がこの一二〇年の歴史をおそらく実証…。
大谷:教育されている私たちは。こっちのがいいや(笑)。
七里:話があっちこっちして恐縮なんですけど、こういう話を渡邉大輔さんとした後で、小沼純一さんとサウンドトラックの話を、それは僕のめちゃくちゃな質問なんですが、映画が映画のようなものになった違和感の一つとして、サウンドトラックがのっぺりと映像に貼り付いているような印象を、デジタルシネマになってから、生理的な感覚なのかもしれませんけど、そういう印象がするのは、あれは何でなんでしょうと聞いたら、そんなの分かりませんよと。(笑)

荻野:卑近な理由を言うなら、作曲家でなくても音効さんという職種の人たちがフェラーリかなんかに乗ってびゅーっときて、その場で既成の音をべたべたべたべた貼りつけて、それで仕事した気になっている。それに対して演出家さんも、いやあ、いい音持ってきてくれましたとかいって、それでダビングがめでたし、っていう感じになるんですよね。それに私たちもならされていますから、ここでなんでSE入ってないのって いや必要ないでしょみたいな議論はだんだんだんだん麻痺して、かなりオートマティックに済んだ、済んでしまうというのが、卑近な理由としてはあると思います。
七里:あー、いや、うん。自分の質問に対して、自分で気付いた回答なんですけど。例えば、弁士だったら、ああ、っていう叫び声を、丁寧に一言一言は当てないと思うんですよ。そして女は叫んだのでした。ああ、乳母車が云々かんぬんって。映像と音の間に距離があるというか。でも、これをエジソンの映画に例えると、やってみた欲望の延長上で音を考えた時に、その人が直にしゃべっている方に魅力を感じる。この欲望が最初からインプットされているんだとしたら、それがデジタルシネマになってから、全面的に出てきて、のっぺりしてきてる印象につながっているのかー?みたいな。
大谷:七里さん、これこれ。ちょっとこれどうすか。どう見えますか。これ、ワンカメ、カメラのマイクで取ってると思うんですけど、ノイズが結構乗ってるんですよ。カメラのマイクにあとで音を足しているっていう。これに耐えられるか耐えられないかがかなり二十一世紀の分かれ目かもしれない。

(『セブンのティーン まりっか』上映) 

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七里:音だけじゃなく、踊りも貼り付いてる感じがする。
大谷:そうなんですよ。実際これ、歌っているのを普通にワンカメでおさえてるだけで、その後に音を足している。それでシンクロさせてる。
荻野:音楽先じゃないんですか。
大谷:音楽先です。イヤフォンで音楽聞きながら歌ってる。なんだけど、今歌ってる声は録れている。ノイズが乗ってる。
荻野:同録なんですね、これ。
大谷:同録プラス後ろにカラオケのトラック。
荻野:すごい。そっか。これって『レ・ミゼラブル』ですよね。
大谷:そうですね。ワンシーンワンカットですよ。学校の長い廊下ってこれに使えるんだなっていう。(笑)
荻野:今までミュージカルっていうのは、この、今やっていることは不可能だったんです。プレスコっていうのがあって、プレスコに合わせて、結局それを口ぱくで演技するってのがミュージカルの定式だったんですけど。今ここで起きていることは『レ・ミゼラブル』と同じで、プレスコで演奏が行われつつ、歌は同録でやるっていう問題。マイクは後でコンピュータで消すってやり方を『レミゼ』ではとっていたらしいんですけども。
大谷:ヘッドホンを取ったら『レ・ミゼラブル』と一緒になるんですよね
荻野:そうなりますね。
大谷:CGで。これはどう考えても個人に向けて作ってるわけですよね。当たり前かもしれないですけど。この表現が、例えば…まあここまでにしておきましょうか、こういうのとアステアと並べてみると。
七里:アステア見よう!(笑)
大谷:どのくらい、どう違うのか。

(アステア&ロジャースのダンス・シーンを見る)

荻野:梅本さんだったらもうここで泣いていると思いますよ。一瞬で。
大谷:もう泣いてる。さっきの『まりっか』で三秒で泣く人が多分出てくると思うんですよ、これから。
七里:確かに、アステア・ロジャース、もうちょっとできるんじゃないのみたいな、そんな気がしちゃいますよね、『まりっか』見ちゃうと(笑)。
大谷:それを、先ほど言った個人向けなのか一般向けなのかとか、何で見るのか、要するに何向けに作っているのか、技術的な問題というよりは、欲望がどこに向かってるかということですよね。
七里:そこですね。多分。きっと。
大谷:踊ってみた、も含めて、こっち直接来るわけですよ。ガン見してるわけ、完全にこっちの方を。それは、モニターあるから、近すぎるからっていうのもあるんですけど、ガン見しても大丈夫ってあっちも思ってる。どんだけアピールしてもこっちは触れないんで、だからいくらでもあっちはパワフルに念を送ってくるんですよね。それを勘違いしちゃう人がたくさんいて、いろんな事件が起きてると思ってるんですけど。触れないんだから。これってちょっと違いますよね。エナジーの方向というか、スクリーンを介してる関係性のあり方っていうか。その場合どうするんだっていう。今これが出来るか出来ないかっていうよりは、どういう状態なのかっていうことを確認したいってことなんですけど。
荻野:アステアのダンスについては…。
大谷:これはもうしょうがないというか、
荻野:神話的なものであるわけですよね。そして、その神話を私たちはアステアとロジャースのダンスについてはもう持っているということがあると思いますね。
七里:まあ、持ってない人も、
大谷:持ってない人がどうなるのかっていうことと、映画をどうやって観るようになるかというより、これはこれであるよね、っていうくらいの。あと、アステアとロジャースの個々の個別な映画や技術に回収したくないんですよ、そういうんじゃない、彼は素晴らしかったっていうのは置いといて、ってことだと思う。今見たら、もどかしいとかいらいらする人いっぱいいると思うんですよね。一八くらいの人って。
七里:と思いますよ。
大谷:全然こっち来てくれないみたいな。だって、アイドルのPVとか見てると、ほんともうこっちガン見ですから。カット割りもくそもなくて、五人でかわるがわるにこっちに眼力とばしまくりみたいなのばっかりなんで。あれは映画じゃないのか、という感じ。

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七里:それはエジソンの映画なんだってことですよね。
大谷:エジソンにあったんだっていうことで、エジソンの映画は一〇年くらいでなくなっちゃうんで。だけど、もし見てみると、それに近いものが、動く映像が出た段階であるっちゃあるよっていうこと、最近できたんじゃないよってことが言いたくて。でも、ここにはないじゃないですか、エジソン的なものが。どこ行ったの? ヘイズコードは何であったの?っていう。それは、エジソン的な映像がアメリカとしてはやばかったからじゃないって。
荻野:やばいものにふたをするというのはやっぱり、文明人としての一つのやり方なわけですよね。権力に対して自己防御しなければならないわけであって、権力からあれこれ文句を言われる前に、自分たちで責任ある態度を示すってのが大人ですから。大人であることを示すためにヘイズコートが発明されていくわけですよね、自主規制として。わたしたち映画業界というのは、こうこうこういう責任感を持って映像を提供しているし、セックスや暴力の描写に対して責任を持って、子供が見ても大丈夫な映像、あるいは一般の人たちに悪影響を与えない映像を送り出しますということを、業界が自ら規制することによって身を守るという、それがヘイズコードというものの成り立ちで。
大谷:それが何で発動したのかというときに、完全に映画は商業で、マスメディアで、それでもそれを後ろで支えているのは、パーソナルな部分で映像を所有したいという欲望があったはず。個人で。買い取って家で寝る前にこっそり見たい、というのを叩き潰すことを、劇場システムはやったわけじゃないですか、それは変態のやることだってことで。それがだんだん解けていって、自主規制もなくて、恐ろしいことにYoutubeですごい画像がたくさんあって、それを見たいしっていう人もいるし、それこそ「イスラム国」じゃないですけども、そういった形で宣伝にも使って。あれは、スクリーンにかかってないわけですよね。映像の方向として、ああいうのが出来るようになっている。その時倫理ってどこにあるんだっていう話も含め、映画の中からそういうものがどういう風に出てきたのか、または、潰しておいたものが、いつ吹き出てきたのかっていうことを考えると、つなげて考えられるのかなあっていうのが。やっぱりこっちの方がいいですけどね。どう考えてもリュミエールの方がいいと思っちゃうな、やっぱり。古い人間なんだろうな。もう一回見ましょうか、みたいな。
荻野:天然記念物みたいになってきちゃうんですけどね、私たちが。
七里:でも、そういう世代はやがて死んでしまいますよね。
荻野:大谷さんは横浜国大で教えてらっしゃって、私も教えてたんですけども、今の学生、生徒の人たちとは映画の話は出来ます。何がいいとか、ゴダール観に行こうとか、そんな話ができるんですけど、それより後の世代になると、ちょっともう分かんないですよね。
大谷:こういうところに、例えばエジソン的なものをマーブルに混ぜていくことが出来ると思うし、そういう映画監督はいっぱいいると思うんですよ。極端に言うと、ブロマイド私有するという形の、映像の私有、そういう形で、とにかく画像を個人的に持って、個人的な快楽のために使用したいっていうのと、パブリックなものに置いておきたいっていう欲望の、二個の引き裂かれ感というのは、二〇世紀ずっとあったんだろうなっていうことを思っております。で、ほんとはここから先が本題で、それに対して、音楽と言葉をどうつけるのが正しいのかっていう。
七里:それが知りたい。
大谷:エジソン的な画像に対して、音楽と音と言葉っていうかセリフとか声とかっていうのは、どう配置するのがいちばん正しいのか、正しいっていうか、どう配分するとどうなるかっていう。ちょうど良く引き裂かれ感のある状態と、どのようにすれば緊張感のあるものになるのかなあっていうことが、実をいうと音楽家としての興味なんですけれども。ここまでの説明でずいぶん時間がたってしまったなあ。
七里:ごめんなさい。
大谷:いえ、これを言わないと全然……それに、こっちも結論はないんですよ。全くまだ。これはいいなとかよくないな、というくらいの、そんな話しかまだ出来てないんで。分かってないんで。
荻野:大谷さんは映画のサウンドトラックも担当されていますよね。
大谷:作っています。あれは監督と一緒にスタジオ入って、監督とエンジニアと僕と三人でつけたんですよ。『乱暴と待機』ってやつ。パラで録っておいて、フルートの音だけ使ったりとかっていう感じで、最終工程まで三人で。ツーミックスで渡したんじゃないんですよ。音効さん、というか、音の効果音をほぼそうやって、
荻野:一本一本のトラックを音効さんに預けて、ばらして、
大谷:音効さんじゃなくて、スタジオのエンジニアの人と作ったんですよ。音効さんはいなかったんですよ。音をもらってあって、セリフだけは一本になってたんでいじれなかったんですけど。
荻野:ゴダールの映画とかっておそらくそんなような風な作り方でしょうね。あれだけ音の出し入れが縦横無尽ですからね。
大谷:もともと、フランソワ・ミュジーが全部やっていたって話だったんですけどね。今回いないですよね、彼。今回、というか前回はいましたよね。
七里:前回いたんですけど、多分ファブリス・アラーニョがずいぶん侵食してったんじゃないですかね。
荻野:今回の音の使い方、ゴダール3Dですけど、やっぱり変わってましたね。
七里:いや、でも、ソシアリズムから変わってます。
大谷:ソシアリズムの延長ですよね、基本的に。クラシックの使い方がまたまためちゃくちゃになってて。
荻野:乱暴になってますよね。
大谷:乱暴すぎる。おもしろすぎる。バーン、で、字幕で「3D」とか、絶対ギャグだろっていうこれって。
荻野:もうちょっと聞きたいのに、なんかスポンと落しちゃったりとかね。
大谷:それを四回も五回もやったりしてね。
荻野:しつこくやるんですよ。
大谷:あれ、繰り返しのギャグですよね。天丼ってやつですよね。

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七里:ゴダールってどっちなんでしょうね。
大谷:そう、わかんないですよね。それも含めて、どっちも入ってるような感じがするなあっていう。
七里:しますよね。
荻野:ゴダールは映画史のごく普通の歴史からいえば、リュミエールからつながってきてはいると思いますよ。ヌーヴェルヴァーグっていうのも明らかに写実的なバザンの映画理論から来ているわけですから。そういう意味では、ゴダールはリュミエールなんですけども、ただ、どこかでゴダールにはリュミエールの裏で死んだはずのエジソン的なものと。
大谷:余談ですが、今回ゴダール3D観て、いちばん思い出したのはゴダールの昔の、「カラビニエ」。似てませんか。どこかエジソンぽいっていうか。
荻野:エジソンっぽい。
大谷:カラビニエに似ているなと思ったんですよ。長さも同じくらいだと思うんですけど。まあ、思っただけで見比べてないんで、何とも言えないんですけど。なんとなく。戦争行って帰ってくる話っていうか。
七里:なるほど。
荻野:ゴダールを問う前に、七里監督の先ほど上映された映画も、どっかでエジソンが侵入してないとも限らないような感じは受けましたね。
七里:そうですか。どこだろう。そういう意味では家でパソコンに向かってこちょこちょ作ったわけだから、そういう欲望が全開して
荻野:変なところ行ってロケしてるわけじゃないですか。
七里:変なとこ行ってはロケしますね(笑)
荻野:すごいいい崖ですよね
七里:リュミエール的?(笑)
荻野:ロケではあるにもかかわらず、あれらの崖や太陽、夕日であるとかがまったく現実のものとして映っていなくて、七里監督のビーカーの中の化合物であるかのように見える。非常に無機的…。
七里:それがノンリニアでやるってことのあれなのかもしれないですね。
大谷:そういう映像をもてあそびたい欲望とか、個人的に付き合いたいっていうのを、リリースしちゃうんでしょうかね。ノンリニア編集になってきて。
七里:ノンリニアは確実になんか変わったと思いますよ。フィルム編集で、編集技師がいて、助手がいて、スクリプターがいて、みたいな、そういうところで僕、助監督で、こうやって映画って編集するんだあっていう風に学んでいたものとは全く違うのかもしれませんね。ひょっとしたら。同じことをやっていても。
大谷:その時に何かが違って、どういう方向に表れちゃうのかということが、わかればいいんですよね。
七里:多分パブリックだと思うんですよ、編集が。ノンリニアと違って。ラッシュをスクリーンに映して見るようなところ。
大谷:みんなが見てるって思うんですよね。
七里:そう、実際みんなで見てる。でもそれと、WEBに上げた映像をラインで云々かんぬん言い合ってっていうこととは違うような気がするんですよ。そこに節度がある、切断があるというか。
大谷:自宅じゃない、みたいな。
荻野:その節度っていうのは、会場で観客の皆さんがスクリーンを見ているときの節度とだいぶ近しいわけですよね。
七里:多分架空のお客さんというものがいて、それは架空の存在なんですけどね。お客さんに対してそういう編集はないだろう、こういう風に見せるのが編集だろうとかっていう、おそらく荻野さんも記憶にあると思うんですけど、そういう議論。議論を戦わすまでもない、なにがしかの、暗黙の了解じゃないけど、そういう制度の中で、映画を完成していくみたいな。フィルムを切るということは血の流れることなんだ、みたいな、そういうようなやり取りを聞いたこともあるんですけども。でもこれも、欲望として、例えば、ゴダールなんかもそうだと思うんですけど、ドキュメンタリーの監督は、昔からスタインベックの前で自分でやってましたよね、編集マンを立てずに。だから個人的に没入していって、イメージと戯れながら、紡ぎだしていくというか、何か、その中に没入していって、何かを表出させていくっていうことも、フィルムでもできたのかもしれないけど。でも、ノンリニアのコピペ、何度でもやり直せる。
大谷:Ctr+Z。
七里:あれはちょっと。
大谷:あれは恐ろしいですね。
七里:あの全能感が怖いのは、それは「嘘」じゃないですか。嘘なんだけども、現実の全能感じゃないんだけども、それがあたかも全てが出来るように、やれてしまう環境というか。あれがない。のじゃないのかな、フィルムでは。リュミエールから続いてきた映画の編集の中にはなかったものなんじゃないかな。
大谷:スタジオで録るのがハリウッドでは当然普通になりますけど。なにかしら違う風が吹く、というか、違うものが入ってた方が面白いものになるっていうようなことと、黒幕の前で抽出して、はっきりしたイメージを作り出すというのが、どっちもできるわけですよね、映像的には。でもやはり劇映画はどういう配分かというとロケ的な方が、そこにスターが入ってくるわけじゃないですか。スターはスターとして撮るいろんな配分があるんだろうな。
荻野:そうですね。いろんな配分の中でリュミエール的写実主義でだけではない配分も…。
大谷:だったらその辺にいる人を撮っておけばいいということになるわけで。当然混ざってくるわけなんですけど、その時に、でも、一切触れないようにしているところもあるんだろうなと、あるものが一回、今言ったような形で切り分けてみると、逆にいろいろ、オーソン・ウェルズはどうなのかとか、いくつかの形で見方が変わるかもね、と思っております。音楽の方も結構そうで、編集っていうのがどんどん入ってくるんですよね。マルチトラックで録ってどうやるか。デジタルになった後に、非破壊的編集ってこっちでは言いますけれど、マルチトラックで録って、いくら直しても元は壊れないんで、どこまででも最初に戻せるっていう。上書き保存とか間違ってしない限り。そうなると、編集の作業がすごく長くなって、それによって耳が変わってくるんですよ。でも、今のところそれがどっちかっていうと、音楽ってスクリーンに投射されないので、消えてなくなるじゃないですか、捕まえられないので、分析がしにくいと言われていた。批評の中では音楽の分析ってすごく遅れてたんですけど、非破壊的編集になってから、圧倒的に進んだんですよ、解析が。特にリズムの解析とアンサンブルの解析というものが網目をかけて細かく切っていって、しかもそれを戻したり変化させたりするとこれになるとか、そういう形で一回シャーレの上に乗せて見れるようになったんですね。それをもう一回生身の身体でやり直すっていうのが今の状態。
七里:生身の身体でやり直す。
大谷:それを演奏できるんです。切り貼りするといくらでも伸ばしたり縮めたりできるんですよ。それを耳で覚えて、その身体っていうのはデジタルの身体をアナログでやり直す。そうすると聴いたことない音楽ができる。聴いたことないっていうか相当変わったものが。でもそれは実はビートルズあたりからずっと皆がやってたことで。
七里:あのー、ウォール・オブ・サウンドの人、何ていいましたっけ?
大谷:えっと、フィル・スペクター?
七里:フィル・スペクターはどうだったんですか?
大谷:フィル・スペクターは気狂いなんで、参考にならないんで(笑)
七里:ならないんだ(笑)
大谷:拳銃とか持って脅す人なんで(笑)。
七里:あー、ヘルツォークみたい。(笑)
大谷:あの人は頭でそういうのが鳴っていたんですよ。それを、でもデジタルっぽく相手の人権とか無視してギター四台とか並べて自分の頭と同じ音が出るまでやらせるっていう。これ本当ですよ! 録音もそうやって録って、同じ音になるまでやらせるっていう。それを拳銃で脅したりしながらやるっていう。で、ああいうことになってる。そういうのをもっとカジュアルにできるようになったっていう。
七里:いやいや、でもそういうことですよね、ええ。
大谷:だって何回やってもControl+Z、Control+Zってやり直してくれるんだもん。ちょっと違う、ちょっと違うとか言って。昔だったら一発録って直せないんで。
七里:そこなんですよ。それがだから、編集マンやスタッフに対する節度になってたんですよね。大体ネガ一回切ったらコマ落ちるから、ネガ切ったらお終いだし。編集は。
荻野:また探さなきゃいけないですしね。
七里:ポジのときはそれがあるし、限度があった。でもその限度が、際限が無くなるわけですよね。
荻野:何度でもUndoできるわけですよね。今観た映画(『映画としての音楽』)もUndoの歴史を感じさせるというか。
七里:でも割と僕、通しで作るんですよ。
荻野:あ、本当。天才ですね。
大谷:でも調子良いときは一発でいきますよね。
七里:そうなんですよ!
大谷:悩んでるときはすごくうまくいかなかったり。
七里:そうなんですよ、そうなんですよ。
大谷:そうですよね?
七里:基本一発です。やり直し始めたらあんまりうまくいかないんですよ。
大谷:一回寝たほうが良いですよね。
七里:リセットしてもう一回やってみたら、あ、これで良いじゃんっていう。パッと置いてパッとできた時が一番面白いんですよ。
荻野:じゃあこれ、一発OK的な勢いがさっきの映画にもあるんですね。
七里:はい、あんまり時間かかってないんですよ。編集は。
荻野:わあ、すごい。
大谷:正解は絶対あるんで。一番最初が正解っていうか、その時間の中でここに何を置くとかはそんなに悩まない時のほうがやっぱり良いものができて。
荻野:はい、はい。
大谷:曲作りとアレンジって録る前に時間かかる。
荻野:はい。
大谷:録ってからはほぼ時間かかんないです。
七里:見えてればね。全体が見えるまでにすごい時間がかかる。それは映画でいうと多分編集の段階じゃ無くて…
荻野:あの、構想二十年とか平気で言うじゃないですか。
大谷:ロケハンとかそういうやつですよね。ロケハンとかシナリオ書いてる時間がこっちではControl+Zっていう。同じループを何回も聴いていて、あ、これ使える、出来た出来たってなるとパーって出来るっていうふうになりますね。
荻野:さっきの映画…すいませんね何度も。
七里:僕のは、もういいじゃないですか(笑)
荻野:あれは、言葉による注釈っていうのが不躾なぐらいぐーってあるのが特徴ですよね。
七里:すいません、なんか押し付けがましくて。
荻野:それが却って、その押し付けられて来る感じが、すごいわけですよ。あれは傑作だと思う、という風に私は思っていて。なんか、何なのかな、と思っていて、私に言わせると、丁度何て言うんですかね、水墨山水を見ているような感じだと思ったんですよ。どっかにも書いたことがあるような気がしたんですけど、水墨山水画っていうのは結局能楽とほぼ同じ時代に、室町時代に発展しましたが、あのテロップワークっていうのは、水墨画におけるですね、まあ「賛」みたいなもので、大体落書きいっぱいしてあるんですね山水画っていうのは。この絵画の成り立ちは、とか或いは文学的なコンテクストは何なのかっていうことを謎かけするための漢詩みたいなものがいっぱい書かれるわけですね。ですので、どこかその能楽を観ているような印象を受ける今日の映画で、恐らく能楽と、山水を見ながら賛を書くっていう行為、字が消えたり現れたりするところまでかなり細心のタイミングが為されているわけですけれども、あれは「賛」だな、と思いましたね。で、山水っていうのは写生じゃないですよね。だから印象派の画家たちのようにその現場に行って写生するのではないわけなんですね。
七里:なるほど。じゃ、エジソン的ですね。
荻野:エジソン的なんですよ。山水っていうのは。
ここでエジソン的な言葉として一つ提示したいのが、胸中山水っていう言葉がありまして、胸の中の山と水って書くんですけど、
大谷:めちゃくちゃですね(笑)
荻野:これ要するにもう目の前に山水が無くても山水が描けることの精神状態にまで持っていかないと、水墨山水画って描けないんですね。
七里:それってイメージへの没入ですよね。
荻野:はい。そのために文房具ってものが発明されたわけで、文房具の『文房』って場所、要するにスタジオってことなんですけどね、そのスタジオで扱うノンリニアだか分からないけどその道具として文房具があって。
大谷:少林寺三十六房の房なわけですね。
荻野:はい。硯それ自体がもう山水。
七里:あれ、山と川なんですね。
荻野:それは胸中に山水が生じてる状態ですね。ですから今日の映画は胸中山水が現代において滅んでいたと思っていたら実は滅んでいなかったという。
大谷:心の目で見ろ、みたいな話!
七里:ええ、でもそうか。まあ、でも逆に言うとリュミエール的なもの、映画っていうものがものすごい歪に…。
大谷:考えたほうが良いんじゃないかっていう気は。
七里:だったのかも知れないですね。
大谷:まあ、観て面白いって今思うかなあって。やっぱ本当、面白いですよリュミエール。観てて飽きないっていう。
荻野:さっき私感動しましたもんリュミエール、画面観てるだけで飽きないですよね。
大谷:でもこれがどれくらい映像の歴史の中で歪なものなのかってことを考えたほうが良いのかもっていう気が。
荻野:それは考えたこと無かったです。
大谷:これはスタンダードじゃないんだ、この欲望は変なんだっていう。
七里:だからなのかな、リュミエールから映画が始まるっていう、ゼロ年があること自体がすごく作為的な感じがして。
荻野:その分かり切った感じがまた良いじゃないですか。何年何月何日、パリのどこそこのカフェで、初めて上映されたのが最初ですって全部言えちゃうってところが(笑)。
七里:でも、映画の歴史ってもっと前からあるんじゃないかっていうのが。
大谷:まあもちろんそうなんでしょうけれども、その時にそれが強い言説としてある程度残っている。リュミエールが発明した、と。いやいや、エジソンだよ、と言ってもなんとなく旗色が悪いっていう時にやっぱり映像との関わり方が入ってきているわけですよね。それが最近、リュミエールだよって言ってる人の旗色が悪くなるような方向に行きがちだとするならば、それは単にメディアが変わった訳じゃないと思います、っていうような話で。じゃあ正確に向き合ってみようということで、こういう大画面に、エジソン的なものはじゃあ一体何かっていうものを抽出していくのはまだまだこれからの作業だと思うんですけど、一個ずつつないでいって。それは先ほどサンプル的に観たブラックマリアの映像にはやはりある程度の特徴はあると。やっぱリュミエールとは違うねって、あれだけでも思う。もしかするともっと違うかもしれないけれど、でもああいうのが欲しかった人がいると思うし、実際今でも欲しいんだっていう、映像に対してああいう傾向が。それがアメリカの中でどうなっていったかっていうようなことは、もしかすると考えられるかなあ、っていう。エジソンの場合は音楽はいらない感じになるんですよね。必要なのはやっぱ声ですね。こういうのに必要なのは音楽じゃなくって声。女性の喘ぎ声でもいいから、本来なら台無しになる声も含めて、個人的なそこにいるって状態の声って。
七里:じゃあ物音とか。
大谷:物音は、どういう状態で使われるのかっていうことがやっぱり一番気になるんですけど、ドラマが無いとやっぱ物音いらないんですよね。
七里:なるほど。
大谷:うん。で、YouTube、またはiPhoneで見たら入ってないわけ、物音は。基本的に声と歌だけで、それはアル・ジョンソン、『ジャズシンガー』の時とほぼ同じ状態、セリフは字幕にしてあって、歌の時だけ音楽が録音で流れる。てことは、よく考えたらその目の前にそれまでは楽団がいたってことだと思うんですよ。あの、レコード式で。楽団はそれまでサイレントで字幕の時こうやって音楽を弾いてて、パタっと手をやめると、スピーカーからアル・ジョンソンが聴こえてくる。
荻野:はい。
大谷:ショックですよね、多分。
荻野:すごい事件性を持ってたと思いますね、それ。
大谷:あれ何だろうと思ったらアル・ジョンソンがバーって歌い始めて、また変わるとこっちのほうでみんなBGMがつき始めるっていう。
荻野:それがトーキーの最初ですよね。
大谷:最初の段階は多分そういう状況、パート・トーキーって書いてある。
荻野:パート・トーキーね。
大谷:パートカラーならぬ。
で、セリフ、じゃなくて歌、しかも歌だけでセリフがなくて、セリフ字幕なんですけどね。こういう感じの。これ有名なシーンですけど。(上映しつつ)これ、お父さんが亡くなるシーンですけど。これ歌はサウンドトラック。で、こういう状態になるんですけど、息子が一回芸能界に入って、勘当されるわけですよね。教会のカウンターなんですけど。戻ってきて、というかお父さんが死ぬ時に教会で歌うっていうシーンなんですけど。歌聞こえるんですけどセリフが入ってない。
荻野:サイレント映画からトーキーに移行する端境にですね、こういういわゆるパートトーキーというか、まあサウンド版て言うんですかね、そういうのが何本も制作されていますね。日本でも清水宏監督の中期の作品なんかも、このサウンド版が数多くありますよね。
大谷:教会というのも面白いですね。セリフが字幕で出るんですね(笑)
荻野:そうです。これは完全にサイレント映画のスポークンタイトルというやつですよね。
大谷:なんでセリフだけ字幕なのって。
七里:エジソン映画は字幕あったんですか?
大谷:エジソン映画、えっと覗き穴時代は無かったみたいです。音で入ってたみたい。だから何度も言いますけど、エジソン的っていうのも大雑把な言い方で、もう少しちゃんと調査をするべきなんですが、私は映画に関しては基本的に素人なので、思ったことを言いに来ただけなので、こっから先は映画のプロパーの方にエジソンのブラックマリアってどういう状態だったのかっていうことを、なんとなく調べながらこういう形態で発表して欲しいんですけど。そういう感じでそろそろ良い時間じゃないかと。
七里:ですね。こんなところでよろしかったですか?あの、縦型の話とか。
大谷:ああ…!うーん。それもまあ思いつきだからなあ。
七里:まあ、でも、コレ(iPhone)で僕も最近映像を撮るようになって。
大谷:そうなんですよねえ。
七里:カメラの人は昔からその、縦にして撮るじゃないですか。
大谷:はい、はい。
七里:でも、その発想がコレを使い出すとありなんですよね。
大谷:ですよね。うん。
七里:なんで横だったんですかね。
大谷:なんで未だにスクリーンが横長なのかっていうのが、非常に疑問で、縦で良いんじゃないの?っていうと「はぁ…」って言われるんですけど(笑)「縦?」って。なんでスクリーンって一般的な画面がずっと横長なのか、まあ劇場が横長だからでしょうけど。ステージが、基本的に「こう」じゃないですか。縦長のステージってあまり無いじゃないですか。
七里:でもそれもタブレットになってから、多分、縦でも良いことになりますよね。
大谷:うん、なので、まあ電話が縦なので。
荻野:YouTube見る時はでも横にしてみなさんご覧になるんじゃないですか。
大谷:横で撮るんでね。でも縦型の画面もたまに、っていうか多いんですよ。で、こっちは切れてる。スタンダードサイズの逆、逆じゃない、激しい版みたいになってて。なので、撮る時に縦で撮るひとも最近多いんだけど、投射するスクリーンは常にまだ横長なわけですよね。その意識は、どこでうまれてなんでこうなったかっていうので、エジソンのスクリーン見ると丸いんですよね。覗き穴があって。よく考えたら目の視界って丸いはずなのに、なぜコイツは四角なんだろう、ってことも含めてなかなかちょっと分からないことだらけで。
荻野:それも考えると面白そうですね。木下恵介も丸い映画一本つくってますよね。
大谷:はいはいはい…。
荻野:『野菊の如き君なりき』っていう、あのほんと泣いちゃう映画なんですけど。あれ丸いんですね。
大谷:あれ、丸かったんでしたっけ。そうなんだ、あれ?
荻野:四隅がこう、涙っていうんですかね、ちょっとアイリス、ガスみたいなアイリスでくるまれた額縁みたいになってて、笠智衆の少年時代の悲恋の物語は、要するに『野菊の墓』ですよね、伊藤左千夫の。あの物語は、ガスみたいな丸い額縁の中で展開するってこと。そういう実験を木下恵介は、画面は四角くなくて良いと思ったのか知りませんけど、制度に反抗するためにやってますよね。
大谷:まあ、それこそ映画はマスメディアということでフレームを決めてしまわないとまあ経営ができないですよね。一般、フランチャイズでやれないでしょうし。
荻野:そうですね、規格ってものが一番大事で。
大谷:スタンダードをどうするかって。その時に個人メディアになってきた時に、映される対象自体の形が変わる。それによって画角どころの騒ぎじゃなくってフレームも何もかも変わる。
荻野:観る側も縦にしたり横にしたりこう、その都度工夫しながら観るけど、ベッドなんかでこう寝ながら観てるとクルックル、クルックルあの、いたちごっこみたいになって、非常になんかあれ、止まってくれって言いたいんですけど、こうやってクルってなっちゃったり、九十度。その辺がまだ縦と横の不安感をあのiPhoneがまだ解決できてない、そういう感じしますよね。
七里:でも止める方法ありますよ。
荻野:あ、あるんだ(笑)。私、毎晩毎晩、クルックル、クルックル家でいたちごっこしてて。
七里:じゃ、後でお教えしますね。(笑)
大谷:俺、ガラケーなんで全然。(笑)何が面白いんだろうって。みんなこうやって(指を)何だろうって。
七里:でも最近、ある某有名ダンサーのお宅にお邪魔した時に、まだ一歳くらいの赤ちゃんが、やっぱり、もうやってましたね。
大谷:やってるよね、こういうの。みんなこういうの使ってるじゃないですか子どもは。
七里:それはだって周りがこうやってますからね。
大谷:子どもはみんなこういうノートみたいなの(タブレット)持ってるよね。
七里:あっそうそう、だから、タブレットが鍵盤になってて。(ピアノを弾く真似)
大谷:うん、やるやる。何を当たり前のこと言ってるんだみたいな感じになって。全然やらないんで分かんないんですけど。まあ、とにかくその画面が映す先ってことにならないんで、プロジェクションされないんで、その時にじゃあどういう、じゃあ縦で良いよねっていう気がするんですけど。縦型の劇映画って観たくて。誰か早く作ってくれないかなー。
七里:いや、でもバーティカル映画っていうのが、実験映画の方ではありますよ。
荻野:寺山修司がドアに映写するための映画を作ったことがあるのは有名で。
大谷:普通に『ダイ・ハード2』みたいなのを縦のやつで観たい。
荻野:ああ、そういうね。
大谷:ビルとか撮るのにちょうど良いじゃないですか!(笑)
七里:そうそう、そうなんです。だから教会とかの空間で縦長の映写をすると、多分七十ミリの映写機を九〇度横にして投影するんだと思いますけど、すごい迫力あるみたいですよ。
荻野:それをこう、縦画面で観る? ものすごい奥深い焦点で、あっちから走ってくるとか。
七里:それなら例えばビル・ヴィオラとか、アートの映像作品ではもうありますよね。縦の。
大谷:そうなんです。あと色んな楕円形フレームとか、一個一個のインスタレーションはあるのですけど、そうじゃなくて、いわゆるリュミエール的映画で縦にしてほしい。
荻野:おそらくそういうことは想定されたことはあるとは思うのですけど、どうやら横長の長方形が良いってことに経験的に収まっていくんでしょう。
大谷:それがリュミエール的だというわけですよね。

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荻野:そうです。だからハリウッド映画で、経験則から来るベスト・オブ・ベストを選んだ結果こういう映画ができてくるっていう、横長にもつながるし、それは演劇というものがプロセニアムと言って完全に横長の舞台を経験的に選んだわけですよね。千年以上ある演劇の歴史の中で。
大谷:いや、でもその中で、先ほどのエジソンの話じゃないですけど、最初に潰されたものがあるんだ、っていう発想です。残ってるんですよ実は、やっぱり。歴史的には選ばれて横になってるけど、気がつくといきなり縦になってる可能性もあるよっていうのが僕の説で、だいたい個人で向き合うのって縦の方が良いんですよ、十字架とかもそうですけど、お祈りするときは目線がこういう感じなんで。縦長のほうが真剣に向き合える感じがする。
荻野:ええ。
大谷:なので、縦長になっていくんじゃないかな、スクリーンは徐々に。っていう気はして。
七里:手の平にもね、収まりやすいですね。
大谷:一対一で見るには縦の方が良いんじゃないかってね。それ用の、しかもリュミエール的な映画ができたらどうなるんだろうっていう発想を、それじゃそこに流れる音楽はどんなだろう、とかいうことを、ぼんやりお風呂に入る時に考えたりする毎日なんですけど。七里さんよろしくお願いします。
七里:あ、この辺で終わりましょうってこと?(笑)
大谷:いや。作ってください、っていう。(笑)
七里:いやいや、まあ何か。(笑)じゃあ、告知をさせていただきますが、三月末に新作をやります。二十七、二十八日に三ステージだけなんですけど、両国門天ホールという小さいホールに、小さいんですが二十数台のスピーカーを持ち込んで、檜垣智也さんのアクースモニウムで上映をします。まだ詳しい情報は告知できないんですが、かなり良いキャスティングで…
荻野:これやっぱりオスカー・ワイルドをまたやってるわけですか。
七里:そうですね、『映画としての音楽』と同じ。
荻野:『サロメの娘』?
七里:あ、仮題は発表しちゃってますね。そう、『映画としての音楽』の延長上にあるものです。で、延長上と言えば、今回で連続講座第二期は締めなんですが、充電をして、できれば第三期をまた始めたいなあと考えております。しどけなく終わってしまって恐縮なんですけど、何かのヒントというか、皆さんに持ち帰っていただく話は出来たかと思うので、この辺りで。大谷さん、荻野さん、ありがとうございました。
大谷:ありがとうございました。
荻野:ありがとうございました。
七里:ちょっと間が空きますが、再開したら、皆さんまた足を運んでいただけると嬉しいです。では本当に長々とおつき合いいただきありがとうございました。

会場:アップリンク・ファクトリー

※各回の要約があります。↓


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