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第5回(第二期二回)「サイボーグになった私達の眼差しはイメージをどう捉えるか」 ~映画分析においてデジタル技術が持つ意味~ 2014年11月27日 登壇者:平倉圭、吉田広明、七里圭

七里:えーっと。始めようかなと思います。こちら平倉圭さんです。今日はですね、『サイボーグになった私達の眼差しはイメージをどう捉えるか 映画分析においてデジタル技術が持つ意味』というタイトルで参りたいと思います。というのは、この講座の第一期のなかで、今日も来ていただいている映画批評の吉田広明さんから表象体系、ちょっと難しい言い方ですけども、何かを使って何かを表すという、それは映画だけではないと思うんですが、そういう表現の機能が変容してきているのではないかっていう提議があり・・・。
吉田:うん。
七里:で、どう変容してきてるんだろうということを、ここ近年読んだ本の中で衝撃的に凄かった『ゴダール的方法』の著者の平倉さんをお招きして、何かもっと突っ込んだ話をお聞きしながら考えていきたいなと思ったのが今日の趣旨なんですけども。そこで、そもそも表象体系の変化ってどういうことなんですか?
吉田:そうですね。表象というのは必ず何かによって何かを表すわけですけど、その際にこうリアルから何かが欠如するところがあって、そこを補うような形で当然リアルなものから何かを切り出してく。それ自体も何かを欠如を抱えることだし、それを何とかこうイメージを接合していくこと、モンタージュしたりしていくことによって映画はできていくだろうし、言葉もそういう形で構成されていくので、まぁ表象というのはそういう形で欠如を抱えているからこそ想像力を働かせる余地がある、豊かなものになるのだろうと。そう思っていて、そしたらそれが変容してきたっていうのはどういうことかというと、今現在の映画とか観てるとわりとだらだらっとした長回しが多かったりとか、そこにこうイメージと実物、リアルとイメージの間にズレ、欠如があるってことがあんまり念頭に置かれない形になっちゃってるような気がすると。後、何かこうソフトありきで、映像、イメージがイメージを生むという形でイメージが元々表象であった。何か欠如を抱えたリアルとは違うものである。リアルを何らかの形で切り取ったものであるっていうことが疑われないまま、イメージからイメージが作られてしまっていく。そういう何かちょっと僕達はそこがあんまり良く思ってなかったもんですから。そういうことが起こっているのではないか、ってことを言ってたわけですね。なので、あのもしかすると表象体系の変化っていうのは、デジタルそのものというよりは、やっぱりソーシャル化の方にもしかしたら原因があるのかもしれないなとは段々思うようになってきています。
七里:それってあれですか。みんながフォーマットにのっているってことですか?
吉田:そうですね。みんながフォーマットにのって、みんなが何かをイメージを作ったり、音楽を作ったり。ソフトありきで作っていたりするっていうことかな、と。で、一番最初の一回目で既に言ったことなんですけど、デジタルにしてもアナログにしてもフィルムにしても、何らかの現実を切り取る。そこに欠如を抱え込むっていうことではもしかしたら同じことなので、そこをあまり区別しないほうがいいのかもしれないっていう感じには段々僕はなってきていたんですね。僕は最初からそういう方向性はあったんですけども、
七里:日和っているわけではなく?
吉田:日和っているわけではなく(笑)。段々そういう考え方が、元々そういうのはあったんだけども、段々そっちのほうに行ってしまっていて・・・でも、実は変わりないかもしれないし。とにかくそこを切り取ったものを構成していくこと。そこに「構成」の余地があれば僕は映画になるんじゃないかなっていう風に考えていたので、そこはあまりデジタルやアナログということを意識しないほうがいいのかもしれないな、とは段々思うようにはなっていました。そこで平倉さんのほうから、そこに注目することは問題設定自体が良くないんじゃないかっていうお話があって、その辺ちょっとこれからお話できれば良いなと思っていました。
七里:そうそう。今日は第五回なんですけども、実は第四回っていうのをもっとしどけない形で先々週にやっていまして、そのときは、僕らが第一期でそういう話をしていたことに対して、次回お呼びすることになっている土居(伸彰)さんからは、デジタル化で表象体系が変容したわけではなくて・・・。
吉田:うん、それ以前からね。
七里:表象体系ってすでに変化してきていて、僕の言葉で言うと「リアリティ」って言うんですかね、人のリアリティがどんどんずれてきていて、それにデジタル化がついてきているのではないか。対応してデジタル技術が使われてきているのではないか、って土居さんがロンドンからSkypeで話したりとか(笑)。かたや平倉さんは、あなたたちは物質にとらわれすぎている。とかね。    
平倉:そんなんじゃなかったです!
一同:(笑)
七里:例えばある女の子が好きになるとしたら、その女の子の肉体が好きなんじゃなくて、その女の子のこういう表情が好きだとか、こんな風に手をあげるところが好きだとか、っていうのは。
吉田:手の動きのことなんだよね。
七里:物質が好きなのではなくて、運動なのではないか、っていうようなことだった気がしたんですけど。
平倉:はい、はい(苦笑)。 そう、です。
七里:すみません(笑)
平倉:運動が好きなんだなあ、と。
吉田:だから僕らがあまりにも、こうインデックス性、物質性、痕跡とかに囚われすぎてるっていう、まぁ僕なんかもフィルムで育ってきた世代なんでそういうような肩書きが無いことは無い。でしょうけど。そこら辺また、後々お話をいただく感じになるんでしょうね。とりあえず、まぁ僕らまず問題設定としてアナログ、デジタルってことで話し始めちゃって。で、デジタルをアナログ的なフィルムに対して劣に置いてたところがあるんですよね。で、それに対してデジタルをもうちょっと肯定的に捉えようということが今回と、次の土居さんの回のあるテーマではあって、実際僕らがこう観て語るときにしても当然DVDで観てたりとかもしてるし、そういうアーカイブ、デジタル的なアーカイブってものを抜きにしたらもう多分僕らは仕事ができないと思うんですよね。だから本当にデジタルの恩恵はもう完全に受けている立場。まぁ七里さんなんかもデジタルのカメラで撮っているし。
七里:そうですよ。僕『映画としての音楽』はこれで(スマホを取り出す)撮りましたから、一部。
吉田:iPhoneで撮ってるわけなんで、しかもそれがすごく創造的な使い方をされて、そこら辺やっぱデジタル・・・。
七里:いやそれは、ゴダールの真似をしてみたいってだけなんですけどね(笑)。
吉田:ゴダールもっと甘く使ってるわけだから(笑)。まぁいいや。で、まぁとにかく今回はデジタルの分析法ですよね。分析法としてデジタルを使った場合、どれだけ精度があがるのか。ていうことを・・・(会場笑)
吉田:なぜ笑いが・・・笑いが起こる意味が分からないけども。
平倉:こっち側が……(ゴダールが映るスクリーンを指さす)
吉田:あーなるほど。
七里:早く俺の話をしてくれって言っているような・・・。
吉田:そうね。何か渡しましょうか。
七里:どうですか? ここまでのところで。

平倉:はい(笑)。そうお話したのは、その最後にお話ししたのは誰かを好きになるってときに、アンドレ・バザンの「写真映像の存在論」でいうと、痕跡こそを愛するんだ、痕跡というのはその人の物質的な直接性だから、っていうことになるけれど、それは物質を、肉を愛することだけれど、人が話すときの話し始める前にこうクウッと顎が動いたりするっていう、それで声が出てくる。その運動のパターンこそを愛するってことはありえて、映像じたいは物質ではないので、肉がそこにあるわけではなくて、映画を愛するっていうのはそういう意味で運動を愛することなんだ、と。だから、フィルムは痕跡が写ってデジタルは痕跡が写ってはいないとは言わずに、どちらも運動を記録することなので、同じだという話を前回はしました。で、これはシリーズものです。次回はアニメーションの土居さんの話です。それで、もう後で考えてみたら、やっぱりそのデジタルとのあいだにやっぱ断絶はあって、ってことを考えたいなというふうに思っています。で、「表象体系」って言葉なんですけど、表象体系って僕もわからなくって、あまりよくわかってないんですけども……でもわからないなりに直感で言ってしまうと、表象の問題じゃないっていうふうに僕は思っています。つまり表象っていうときには外側に世界があって、それが何らかのイメージに写されて、それが表象で、っていうリプレゼンテーションで、その、物が像に写されるやり方が変わるっていうのがひとつ表象体系の変化だってことだと思うんです。が、僕は物と像を分けたくない。
七里:なるほど。
平倉:人は物といっしょになって認識をおこなっているので……まあ具体的に、例えば認識、何か世界を認識するときに、例えばこの身体が重要だったりっていうことがあるわけじゃないですか。そしたらそれはもう既に、こう、物自体の世界に対してイメージの世界があって、私たちはイメージの世界を見てるっていうカント的な図式ではなくて、世界も物でできてて私も物でできてて、物と物の絡み合いのなかにさまざまな人工物がはさまりあってきて。それとの接続の中で……装置も物で、世界も物で、私も物なんだけどもそれらは結合されて認識の仕方が組み変わったりすると。認識の仕方は確かに組み変わっているけれども……「表象」ってやり方で物の世界からそれを切り離しちゃうと見えないんじゃないかって僕は思っています。で、今回サイボーグっていう僕が出したキーワードなんですけども。タイトルに「サイボーグになった私達の眼差し」って書いてあって、サイボーグになった時期はいつなのかってときに、僕は人間になった時期がサイボーグになった時期だって……。
七里:なるほど。このタイトルは僕が平倉さんから頂いたメールから勝手につけたタイトルなんですけど、
平倉:あ、でもなんかそれおもしろいと思ったんですけども、でもその上でサイボーグになるってことは、僕らはさまざまな人工物、物の世界とともに世界を認知しているけれども、そこにさまざまなテクノロジーがはさまっていて、そのテクノロジーがデジカメだったり、鉛筆であったり、金槌であったりするかもしれないけど、あるいは言語っていう人工物かもしれないけど、そういう人工物とセットになって世界を認識している。で、その人工物は抽象的な存在じゃなくて必ずこう、なにかしら物の世界に基盤をもっていて……っていうところで起きている変化のことを考えている。で、そう考えてもやっぱりデジタル・テクノロジーで起きた変化はきっとあるはずで、そのことを考えてみたいっていうのが今回だっていうふうに思ってます。
七里:はい。ざっくりした質問ですけど、言語は物ですか?
平倉:言語は、あの言語が抽象的に存在してるわけではなくて、それを発生させるボディとか、書きつけられるマテリアルが文字とか声っていう物を通して存在しているということを重要に考えるということです。
七里:なるほど。
吉田:例えば視覚とか目で見ること自体がテクノロジーだ、ってことで良いんでしょうか?
七里:目って像ですよね? 僕は平倉さんを見ているつもりになっているけど、それは網膜に映っている、カメラと同じで視神経のここに映っている像を見ているわけですよね。違うんですか? 違うと思うっていうことの話ですよね? 今は。
平倉:いや、つまりここに網膜っていう一枚のスクリーンみたいなものがあって、脳の中で誰かそのスクリーンを見て、認知しているみたいなふうに考えているとしたらそれはちがっていて。見たことある訳ではないですけれど、実際には三種類くらいの周波数に反応する知覚細胞があって、その周波数が、低い周波数の赤系統の色を知覚する細胞と、黄色系統、青系統みたいなかたちで。
七里:やっぱりそれもRGBなんですか?
平倉:RGBに対応する細胞があって、で、その細胞が反応しているその電気信号を総合して世界を見ているというときにそれは「像」を見ているということではないと思います。
吉田:信号化しちゃっているというわけね。
平倉:はい。像はもちろん網膜になにか、網膜に銀塩を塗れば像は映るだろうけど、人の認識の仕方はそうじゃない。で、CMOSセンサーとかCCDセンサーとかにはRGBのカラーフィルターがつけられていて、そのカラーフィルターは人の知覚を反復するような形で作られていて、デジカメは人間の、霊長類の知覚系をそのまま延長するような形で、作られている。
七里:なるほど。じゃあフィルムに像を定着させるってことよりも、こっち(デジカメ)のほうが人間に近いってことですか?
平倉:いや、えっと、そうは思わないんです。
七里:うーん(笑)。
平倉:僕はまず、最初の前提として「デジタル」と「アナログ」のあいだの断絶よりも、「テクノロジカルな知覚」と「テクノロジーを介在しない知覚」、もしそういうのがあればっていうことですが、そこのあいだに断絶があって、フィルムだろうとデジタルカメラの動画であろうとテクノロジーを介している知覚であると。で、フィルムの原理は全然僕は詳しくないですが、カラーフィルムが人にとって自然なカラーとして認知できる調整がされているわけで、調整の根拠は人の知覚系ですよね? 物の世界に色っていうものが同定可能な形で存在しているわけではなくて、あくまで見ている人の知覚にあわせて調整がしてある。それはこっち側にイメージとか認識っていうのがあって、こっち側にテクノロジーがあるっていうのではなくて、視神経とかも物でできているので、物の世界だっていうふうに思っています。だから眼鏡掛けてるときと、眼鏡掛けてない時ですごく大きな断絶があるとは思わなくて、そもそもレンズのような機構を目は持っているので、これが意味を成すやり方で私の身体に働きかける。
吉田:とすると、テクノロジーを介さない視覚っていうのはあるんですか? テクノロジーを介さない感覚とか。
平倉:テクノロジーの発生はすごく古くて、どこまでさかのぼったら意味のある話ができるのかよくわからないんですけれども……「動物と人間」っていう分け方をするときに、そのテクノロジーっていう境界はありうるかも、っていうのがひとつ。ただ「動物」っていっても例えば金魚とか、犬とか、人が生み出した動物たちっているんですよね。人が人工的に、人為的に淘汰をかけて種を分離させてきた生き物であるときに、犬もある意味では人のテクノロジー、その犬を育てて、さまざまなタイプの、臆病な犬はさらに臆病にとか、より変な顔の犬は変な顔の犬にっていう感じで育てていったテクノロジーの産物ではあるので……だから犬は存在じたいテクノロジカル。ゴダールは今回、3Dのテクノロジーと犬を、たぶん延長上で見ていると思う。
七里:なるほど。
平倉:まあ僕がそういうふうにみているってことですけど。はい。

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七里:じゃあ何か結論から先に言うと、あ、どうぞ、どうぞ。
吉田:いや、何か結論的なことをどんどん発しちゃってるから、良いのかなー。
平倉:いや、前提です(笑)。
七里:前提ですか(笑) はい。
平倉:はい(笑)。
七里:じゃあそろそろ前提を基にこう、フレームの外で早く、早くと言っているような気もするので。ゴダールさんの話を・・・。
平倉:あ、えっとですね、先ほどなんか、こう変な感じになっちゃたんだけれども……一回ちょっと暗くしてください。

(映像:暗がりにゴダールが映る)

平倉:映していたのは一九七五年の『ナンバー2』っていうゴダールの映画で……これしばらく映していたんですけども、どういう状況かわかりますかね。暗くするとわかると思うんですけども、ここにゴダールがいる。手が見えますね。で、モニターが三つ光ってて、テープが回ってそのテープを早回ししたりしていろいろ操作したりしているんだけれども、まあゴダールはほとんど見えないところにいる。でもずーっと画面の中心に映って、さまざまなマシンを操作している。で、ゴダールって、僕にとってはこういう人で。この『ナンバー2』っていう映画の企画書を書いたときに、ゴダールはドゥルーズ=ガタリの本を引用して、マシンになるんだ、マシンと結合するんだみたいなことを言っていて、それはその当時流行ってたからということだけではなくて、ゴダールの中にテクノロジーと、テクノロジカルな人工物と、生物学的な身体とをかなり深いレベルで結合して、現れてくるものが見たいっていう部分がきっとあるんだろう。で、この画面で現れている状況と……、

(写真が切り替わる)

平倉:で、これはこれから公開される、一月に公開される『さらば、愛の言葉よ』の撮影風景なんですけど、これが本当すばらしいですね。何がどうすばらしいかって言うと、これメインで使っているのはCanon 5D Mark IIっていう……、
七里:逆さまにくっつけてますね。
平倉:そう、逆さまにくっつけてますね。それはなぜかっていうと、5Dのセンサーがレンズの片側にあってそのまま並べちゃうとセンサーの位置が中心に対してずれちゃうから、逆さまにすると軸に対してのずれが同じくらいになるので使えるみたいなかたちで、ファブリス・アラーニョっていう人が手作りでこういう工夫をしてやると。それにソニーの3Dカメラあり、富士フィルムの3Dカメラがあり、下の方にもちっちゃい3Dカメラがあり。彼(アラーニョ)は録音もやるからヘッドフォンとマイクもここにあって、ゴダールは「んんん」みたいな感じで見てて、手元にはiPhoneみたいな感じで……。この状況を見てると、ほとんどピクサーの『ウォーリー』的な二つ目の生き物がたくさん見てるみたいな、ゴダールも二つ目で見てて、後ろのほうを見ると両目からビームを出してる看板もある。相当変な写真ですね。で、このセットアップがゴダールらしい。それは先ほどその、テクノロジーとくっついているという状態のことを言いましたけど、このね、三脚にアームをつけてカメラをつけるっていう。ひとつはテクノロジーを自分のものとして使う。テクノロジーのやり方を勝手に組み替えて、いわゆる予想される規範的なやり方ではない自分のやり方で使う。目的は破壊じゃなくて、目的はテクノロジーのもっとおもしろい使い方みたいなものを自分のために見つけるために使っていくと。
七里:それはもしかしたら、貧乏人のデジタルと金持ちのデジタルっていうことですか?
平倉:そうですね。デジタルやテクノロジーが悪いのではなくて、テクノロジーの可能性を占有している金持ちたちが悪いのであって。戦いはテクノロジーを否定することにあるのではなくて、テクノロジーを自分のやり方で使うということにこそ、戦いの場所があると。というようなのがゴダールの考えで、僕もそう思っているんだけど、そんなわけで僕はこういうやり方で『ゴダール的方法』という本を書いたんですけど、テクノロジーを使ってゴダールの映画を分解すると。これやったらこういろいろ批判も受けて。
七里・吉田:そうなんですか? 
平倉:映画をそうやって、テクノロジーとか使って映画を観るのは何か間違ってるんじゃないかって(笑) 。そんなに優しい言い方ではなくて罵倒に近いかたちでいっぱいいろいろ言われて。で、そのときに「僕にはゴダールがついてる」みたいな(笑)。ゴダールはテクノロジーが好きなはずだ。ゴダールはテクノロジーを使って自分のやり方で使うのが好きなはずだって。それは正しいやり方ではなくて、規範的なやり方ではなくて、単に自分が探求したいことがあるときに、勝手に使ってしまう。そのことの可能性を考えたいと。
吉田:確かにゴダールなんかは、最初から最後までずーっと延々通して見ると、やっぱ分かんない人なので、確かに切り分けて分析するっていうのはありだと思うんですよね。実際、僕の映画批評とかやるときも部分を切っちゃって、やったりするわけなんで、まぁそれで接合したりっていう作業なんで、理論形成にしても、批評にしても、そういうもんだなと思ってはいるんですよね。
平倉:でもそのときに、だから自然じゃない、っていうやり方で批判されることがある。人は映画館で自然にはそう見てないと。しかしそもそも映画観てる段階で、まったく自然じゃないので。暗いとこに入って、どっか別の場所にあたっているような光を見るということの不自然をエイゼンシュテインや、ジガ・ヴェルトフや、ベンヤミンは知っていたのに。何でそういうことが普通に言われなくなるのかということを考えたりしたんですけども……。
 で、今日は『ゴダール・ソシアリスム』っていう。今日やりたいこと僕三つです。ゴダールの分析をする。『ゴダール的方法』を書いたときはステレオでしか分析できなかったんですけど、5.1chで分析できるようになったので、5.1ch分析をする。そのときに、今回の新作もめちゃくちゃなことになってますけど、前回の二〇一〇年の『ゴダール・ソシアリスム』って映画からゴダールの音の使用法は全く異なってきている。そのことを話したいっていうことがひとつ。
七里:それはすごい楽しみです。実は六月に京都で自分の映画と、恐れ多くも『ソシアリスム』をアクースモニウム上映したんですが、そのとき演奏の檜垣智也さんとアクースモニウムで20chに分岐するためにサウンドトラックの構成を分析したんですね、如何にゴダールの音の構成の仕方が、僕らには脈絡が無いか。何でこんなことするんだろうってくらいスポッと抜けてたりとか、暴力的に振り分けられたりしてたので、それをどう解釈したらいいのかとっても聞きたいです。
平倉:三分くらい流します。まっ暗にしてください。えー、二〇一〇年の『ゴダール・ソシアリスム』冒頭です。

(映像:『ソシアリスム』冒頭。インコの絵。文字テロップ。試験放送波の音チェックが断続的に流れる。波を上から捉えた絵。男と女のナレーション。波のカットから切り替わって、男がカメラを持って撮影している絵。女のナレーション。海上の女の絵に切り替わる。カメラ持つ男の横顔)

平倉:ここから一時間くらいゴダール分析入ります。これ5.1chの作品です。5.1chってどういうものかというと、これいま『ソシアリスム』の音の構成をトラックごとで示していて……一番上がレフトスピーカーで、二番目がライトスピーカーで、三番目がセンタースピーカーです。四番目はウーファーです。五番目はレフトサラウンド。六番目はライトサラウンドです。見たときに、これが映画の音の全体像なんですが、5.1chなのに全然使われてない。でも使ってるんですよ。すっごい部分的に。すごい気になるのはセンターがほとんど使われてないということです。ちょっと比較のためにゴダールの『アワーミュージック』っていう二〇〇四年の映画を見ます。そうすると、『アワーミュージック』の構成はこうです。どういう響き方をするか……ゴダール・ファンであれば聞き慣れた、一九九〇年代くらいから聞き慣れたゴダールの音ですよね。この響き。これはゴダールの音というよりは、フランソワ・ミュジーの音です。この場合に、この音の作り方は普通で、というかすごいきれいだけれども、そのときに特徴はセンターっていうものをどう使うかということです。センターだけソロで流します。センタースピーカーっていうものはどう使うかっていうときに、一般に人の声とかを入れる。

(チャンネル別のサウンドトラックがスクリーンに。以降、右側にサウンドトラック。左側に映像)

……いま右のスピーカーだけ流すと車の効果音だけ鳴っていて台詞はセンターで鳴ってる。センターっていわゆる人が映画の「内容」を理解したい、というときにスクリーンに対してこう、理解を入れていくような場所なんだけれども、その『ゴダール・ソシアリスム』の乱暴さはセンターをほとんど使っていない。これすごい異常です。もう少し細かく見ます。
そもそもこの映画最初にサウンドチェックみたいな音から入りますよね。(冒頭、ピーという音声)左鳴らす。完全に音の空白が続いて、ちょっと飛ばします。右から鳴らす。こういう映画ですよ。と。 
 左と右だけ空白のなか鳴らしますよ、みたいなかたちで始まっていって。で、台詞どうなっているか。まったくちがう形になってるの分かりますか? 一番上が左、二番目が右です。

(映像:タイトルテロップの直後の映像、音声が流れる。左のスピーカーからは台詞のみ。右のスピーカーだけだと波のノイズが聞こえる)

つまりここでは左だけ人の声いれてて。「ざざざーん」みたいな海の音がしてるように思ったんだけども、このノイズは全部完全に右だけしか……もうちょっと優しい音の作り方する場合は、右にノイズを集中させてても他のチャンネルにノイズを低く敷いていくようなやり方をするんですけど、そういうことをまったくしない。ちょっとそのまま聞きます。

(映像:カメラを持つ男のカット 音声:風の音、かすかに笑い声)

いま、何か笑い声みたいなのが鳴ってますが、笑い声は右だけ。左から鳴ってるのは、風の音だけです。右だけ聞くと……、

(音声:(右側の)笑い声が聞こえる)

 ここまでは風の音が低く敷いてありますけど、(再生して)途中から風の音が消えてしまう。で、このシークエンスで、いま左のスピーカーでは男の声がしゃべっている。で、ここで最初にヨーロッパの白人の男と、ゴダール的世界でアフリカを代表しているような、黒人の女性が会話するんだけども、白人の男性の声はまず最初は、左スピーカーだけ、女性は右スピーカーだけに振り当てて音的に完全に分裂したところから始まる。でももっと細かいことやってて、ものすごく格好いいと感じるのは、ここですね。

(映像:波の音から男の台詞が始まるまでの間を細かく再生して)

ここ格好よくないですか? 風の音が移動するのわかりますか? で、切断が少なくとも二回に分けておこなわれている。波の音が鳴ってて、風の音に変わる。

(映像:波の映像から男の映像を繰り返し流す)

 波から風は映像のカットと合わせて音を切っているんだけれども、もう一回切断がありますね。ここで。(映像:男の映像に切り替わった直後)右のスピーカーの風の音が左に突然移動する。で……(右側だけ再生)右の音はカットにちょっと遅れて、三段階ですね。起きてるのは三つのことで、(映像で)切断面で波から船にうつる。音が波から風に移る。風が右のスピーカーの音をいきなり削除するってやり方で、風を包んでるその空間が〇・二秒くらい、両側から風が鳴ってる瞬間が〇・二秒続いたら、右のスピーカーの風の音だけぱっと消して、その消した空間になにが起こるかっていうと……この笑い声が入ってくる。この笑い声も含めると切断は四重に起きてて……この笑い声のときに風がぼこっぼこってする。左側で風がぼこっぼこっ。右側でハッハッハッ。これをもう一回重ねて聞くと……格好いいですね。やばい。格好いい……。
 で、これはもう次のショットに入ってるって言ってよいかもしれないけど、例えばこういうこと。(映像:波から男の映像)ここからここまで〇・八秒くらいの時間に起きている……このことを、語る批評言語はないですね。つまり、映画っていうのは切断なんだと。ショットが次のショットへ切断すると。で、音がそれをつなぎあわせるっていうのが現在映画を論じるときに使われる表現ですけど、ここではその切断面でスピーカーを分けて使うことで、切断面の中にもう一個切断面を入れていって、しかも切断じゃないですね。音なので、左で鳴っているものがスポンって抜けることが……ヘッドフォンで聞くと完全な切断で、右耳にパン、って欠落して、そこに笑い声がハッハッハッて入ってくる。すごい格好いい経験なんですけども。こういう空間的な仕組みをスピーカーで聞いてると、雲のようにあった音がスポン、って軽く抜けて、なにか頼りない空間みたいなものが〇・六秒くらい立ち上がって、そこに笑い声が入ってくる。で、その多重化された切断不可能な……なんて言えばいいんだろう……まあ僕もそれを言いあてる言語、概念を作ってないんですけど。言語がないところで新しい映画編集っていうか、切断面に対するアプローチの、少なくともゴダールの映画のなかで、歴史のなかで見たときにちがうことをやっている。で、これが『ソシアリスム』がやっているひとつのこと。
 で、これもちろんデジタルな操作です。デジタルの特徴は、音の完全な空白を作れることがひとつありますね。選択して、デリートすれば、ある箇所の音が完全に消滅する。例えばこういうやり方です。(PC画面:音声の波形と波形の間の空白箇所を示す)ここに何も鳴ってないということです。で、もうひとつはコピペ的な操作ができることで、

(映像:女の映像に男の声。映像は変わらないまま、子供の音声が突発的に入る。すぐに男の声に戻る。男の声が途切れた瞬間に子供の映像に切り替わり、波の音が鳴る。直後にハァーという一音の笑い声。少し後にハッハッハッという連続した笑い声。)

さっきこのハァーの音は右スピーカーから鳴ったわけですけど、今度は左スピーカーに。いま左だけ聞きます。

(音声:無音から少ししてハァーの一音。少し後にハッハッハッという連続した笑い声)

 コピペのような形で、違う録音かもしれないけど、入れられると。(音声:左右両方)両方鳴らすと、海があって、その海の空間のなかで……ちょっとこれ拡大してみます。(映像:船の上に乗っている子供。バックには海)どこか隅の方で笑い声がしているみたいに聞こえるんだけど、実際には完全に分断されている。こういう完全な分断っていうのはデジタルな表現のひとつだと思っています。デジタルの言葉の意味は、バラバラ、離散的って意味で、あいだに断絶をおくようなやり方のことをデジタルって言いますけど、デジタルなやり方で左と右が分けられる。で、そのちょっと後。(映像:波)すごいショットですけど、いま左のスピーカーには何も音が鳴っていない。これはどうなっているかっていうと、ちょっと左だけ聞きます。(音声:風のようなぼぉーという小さい音の中で女性が「ヴァモス」と言っている。)右だけ聞きます。(音声:波の音)左側にも風のノイズの音が敷かれてますけど、「ヴァモス」っていうスペイン語の「進め、行け」っていう言葉は左からしか鳴ってない。で、両方同時に聞くと……風に逆らって女の人の声が、風が吹き荒れるデッキで、ヴァモォース、ヴァモォースって言ってる崇高な感じなんだけれども、実際には、これは室内じゃないですか。「ヴァモォース」に残響かかっていますよね。つまり反射する。音が口から出て反射する場所でこの「ヴァモォース」は言われているので、つまり屋内の声です。映っているのが山だったら、山の反響で理解できますけど。海でヴァモォースって言って、ヴァモォースって返ってこないので、これは屋内でヴァモォースって言ってる音が、吹き荒れる風の音とともにセットになってる。で、このときにこの空間は「外」なのか、「内」なのか全く分からなくなってる。こういうやり方で空間を、音と映像のレベルでほとんど、僕にとっては「彫刻的」だと感じられるようなやり方で、しかし、リアルな物体を操作する彫刻にはできないような、信じられないような強さで空間をグゥーッて作っていく。
 もう少し特徴的なのを見てみます。地味なシーンなんだけれども、わりと好きなとこで……ここです。ちょっと画面だけで見ます。

(映像:パーティー会場と思われる場所。階段をパーティーの衣装を着た人々が降りてゆく。カメラを持った女性が階段でパーティーの参加者の恐らくはカップルを撮影している。その光景を女性の後頭部が右後ろ画面の四分の一を占める割合の画面構成で撮影している。カットが切り替わり、男性が新聞を読んでいる映像)
(音声:パーティー会場の音が聞こえる。男性ボーカルの音楽が聞こえる)

なんでもないショットで、なにか気持ち悪いショットですけれども、音に関して変なこと起きますよね。ちょっともう一回流します……。

(映像を一度流し、音声の波形図に切り替わる)(音声の波形図のカットが切り替わる少し前を示して)
ここで変なこと起きていますよね。左だけ聞くと、(音声:男性ボーカルのメロディー)このメロディーと、右だけ聞くと、(音声:再び男性ボーカルのメロディー)これ同じメロディーですね。で、形見ると……(右側の波形図の後半と、左側のメロディーの前半を示して)ここからここまでの形と、ここからここまでの形と等しいですね。左側の音をコピペして、右側の後ろに持ってきてます。左側の後ろの音と右側の後ろの音はちがう形してますね。ここら辺を両方鳴らして聞くと……同じメロディーらしきものが鳴っているんだけれども、時間をずらしてここで展開していて、なんでもないシーンなのに空間がぐにゃーってなってる。コピペを基本にしてる表現で、非常にデジタルです。
 ゴダールはこの映画でデジタルに関する言及をおそらく自覚的にやっていて、それがすごくよくわかるのは、それがすごくよくわかるのは……これです。

(映像:猫が二匹映し出される。寄り。交互に鳴いている。カットが切り替わり、女性がベッドの上で肘立ちをして、ノートパソコンで先ほどの猫の映像を見ている)
(音声:やや違和感のある猫の鳴き声)

これゴダールがYoutubeで見つけてきた猫の映像らしいんですけど、これがあるから七里さんのイベントのチラシが猫なのかと勝手に思ってますけど(笑)。……えっとそれでノートパソコンを通じてイメージを見るみたいな、そういうデジタル・テクノロジーを通じてイメージを見るみたいなことに対する言及があるということ。それからもうひとつ、もっと直接的に……ここです。見ます。

(映像:男が部屋の中で机の上にもたれている。画面にノイズが走って一瞬だけ止まる。男が体勢を少し立て直す。その瞬間に映像が三回ほど一瞬ではあるが、止まる。机の脇から本を持った手が伸びてきて、男に手渡す。手渡した後にデジタルノイズが入り込む)
(音声:女性の声がしばらく続く。画面に映っている男が体勢を立て直して何か言う。再び女性の声)

 格好良いですよね。あのーこれは、ゴダールがやるから偉いっていうだけかもしれないけど……ここは数少ないセンタースピーカーが使われるシーンですね。えっとこのセンタースピーカーの音を見ていてください。ここですね。

(音の波形図:画面にノイズが走る直前に音がなくなっているのが分かる)

 音が存在していないですよね。それが終わったときに画面にノイズが走る。これ、僕のマシンのせいじゃなくて、もとの映画がこうなんです。で、ここにあるぞと。
(男が体勢を立て直す瞬間の音の波形図を示しながら)音が鳴っているんだけれども、(映像:男が本を手渡された直後)ここにデジタルノイズが加えられる。これを最初に観たとき僕はデジタルで観たんですけども、一瞬自分が見てるデジタルな環境が壊れたっていうふうに思ったわけです。でも、うまくいきすぎているので、映画かなと思う。つまり映画が壊れてるのか、マシンが壊れてるのかがわからなくなるっていう出来事が起こる。これは『勝手にしやがれ』……ってリアルタイムで僕は当然観なかったですけども、『勝手にしやがれ』をリアルタイムで観たら、感じたかもしれない。あ、いまフィルム飛んじゃったよ、みたいな、その感覚をデジタルでもう一回やっているというふうにそのときは感じて。だけど日本では、『ゴダール・ソシアリスム』はフィルム上映だったんですよ。これをフィルムに焼いたものをフィルムで上映してたんで、フィルムで上映しててこのデジタルノイズが入ると何ていうか、デジタル風な「装飾」になってしまって全然怖くないんですけども……カンヌではデジタル上映されて、デジタル上映されてて、デジタルノイズが入ると、あっ! 壊れた! みたいな感じになる。そこで、出来事が起こるみたいなことを持ちこんでいる。
 で、これは比較的わかりやすい部分ですけれども、ゴダールがここでかなり自覚的にデジタル・テクノロジーを介した、新しい美学のあり方みたいなのを、考えようとしているんだと。しかもそのやり方が、ゴダールをよく観る方なら『ウイークエンド』(一九六七年)とかの暴力的な音とかわかるかもしれないんですけども……『ウイークエンド』とかを連想させるくらいの暴力性で入ってくる。ちょっとここ見ます……

(映像:魚影を下から捉えた映像)

デジタルノイズを加えていくみたいなとことか……ちょっとこれ見ますね。

(映像:真っ黒な画面から映像が切り替わる。螺旋階段で眼鏡をかけた男が新聞を読んでいる。螺旋階段の外で水が流れている。その脇を人が通り過ぎる。一瞬・黒い画面の後、ジャンプカット。男が新聞を手に持ち、顔をあげている。)
(音声:ナレーションの男の音声が流れている。黒い画面の後、ナレーションをかき消すようにして新聞を読んでいた男が何かを叫んでいる)
 
 はあ!て感じですよね。すごい立ち上がりますよね。これすごいなあ。ここの映像のレベルで(黒画面後の映像を示して)コントラストが誇張された映像と、(ブランク前の映像を示して)暗い映像が使われているっていうのがあるんですけれども、そのこととは別に音でなにか起きているので、音を聞いていてください。この辺りから……(映像:ブランクがかかる直前の映像から後の映像)言っているのは「あの二人をとっ捕まえてやる」ってことを言っているんですけども、その台詞が音はこうなってます。右だけ聞きます。(音声:水が流れる音から男の台詞)右だけ聞くと、普通の音なんですけども、こっちも鳴らすと……このおじさんの声はここから始まっているのわかりますか。「ドレスレ」という音の「レ」から始まっている。しかもその間に黒が入って、運動の連続性に視覚的な断絶が入っている。ここでも三重の切断みたいなことが行われている。ひとつの連続する音が、ある一単語のなかに左スピーカーだけで台詞が読まれている時間と、単語の途中で右スピーカーが立ち上がってきて、しかしその間画面は黒で、ちょっと遅れて画面がもう一回立ち上がる。
 こういうことがデジタルの編集でできることだっていうのを、示しているのが『ソシアリスム』っていう映画だろうと思います。これが、ゴダールの『ウイークエンド』と近いっていうことを言ったんですけれども、いかにもゴダールらしいと言えるはずなのに、すごく新しく感じられたのはなぜかっていうと、ゴダールは一九九〇年代から二〇〇〇年代の初めにかけてこんな音の使い方はまったくしていない。ゴダールはっていうよりも、ゴダールとずっと『パッション』(一九八二年)以降いっしょに音を作ってきたフランソワ・ミュジーっていう音響技師がやってるんですけども、もう一回その『アワーミュージック』に戻りますけども……『アワーミュージック』らしい音の作り方ってどういうものかっていうと、オルガっていう主人公らしき女の人が現れる瞬間見ます。

(映像:市場のような場所を上から見下ろしている。カットが切り替わり、公園を駆けていく女性を追っていく。カットが切り替わり、路面電車が走っていく映像に切り替わる)(音声:市場のような音にナレーションがかぶさって聞こえる。先ほどの音がフェードアウトして、女性が駆けている間クラシックが流れている。カットが切り替わった直後、カメラの方に向かってくる電車の音が徐々に大きくなってゆく)

これですね。なんですかこのビューティフルな空間は! 僕は九〇年代くらいから『アワーミュージック』に至るまでですね、ゴダールの映画ってそんなおもしろくないなって感じでいて。理由はこの音で、こういう美しい音を作ってしまうっていう「汚らしさ」ですよ。(先ほどの映像の冒頭の切り替わり部分を流しながら)これはどういう構成か。右がこう、左がこう……真ん中は低く敷いてますね。(それぞれのスピーカーをオン・オフ切り替えながら音を流していく。それぞれのスピーカーから弦楽器の音色が小さく聞こえる)こういうやり方で空間をサラウンドするように弦楽器の音色をうまく配していて、しかしセンターが一番低いですね。スクリーンは何かしら沈黙に浸されているんだけれども、弦楽器の美しい音色が四方から立ち上がって、ふわぁーっと包んでいく。そのショットが弦楽器のまま、列車のシークエンスに繋がる。ショットとしては全然違うショットなのにほとんど切断を感じさせないようなやり方になっている。で、いま電車が近づいてますね。電車が近づいていくときに、今まで低く敷いてあるだけだったセンターが突然盛り上がってくる。ウーファーも突然盛り上がってくる。それにあわせて他のスピーカーの音がクッて減らされている。ちょっと注目して聞いてほしいんですけども……センターだけ聞いてみます。(音声:弦楽器の音がフェードアウトして、列車の音がフェードインする)センターだけ聞いてみるとやってるのはただのフェードイン/フェードアウトです。弦楽器の音がフェードアウトして、電車の音がフェードインする。ちょっと右だけ聞きますね。(音声:弦楽器の音が列車が通過するタイミングで唐突に消える)わかりますか? 弦楽器の音はセンターだけ聞いたときは電車が近づくと霞んでしまっていたのに、右のスピーカーは弦楽器がいまだ鳴りつづけていて、列車がフレームの端に触れるあたりで一回弦の音を大きくする。センターと右をいっしょに聞くと……こうすることで弦楽器の音と電車のノイズはまったく質がちがうのに、スパァーと縫いあわされていくと。本当はバシンッとぶつかりあっていってしまうような電車のガシャンガシャンガシャンという音と、弦楽器の滑らかな音なのに、二つのまったく異なる音を、スゥーってこう滑らかに縫いあわせていくっていうのが、フランソワ・ミュジーが『ヌーヴェルヴァーグ』(一九九〇)っていう映画でゴダールといっしょに開発した音の使い方で、それを『アワーミュージック』っていう映画ではもう本当に完璧なレベルに仕上げてく。そのことのつまらなさ。風呂敷っぽいなって思うんですけど、空間をサラウンドする風呂敷のような音響が、場を包む。それは感動的といわれている映画のラストも当然そういうことがおこなわれていて……。

(映像:木々からゆっくりカメラがドリーして河原に何人かが座っている野が映る。女性がその中の一人に話しかけた後、女性はそのまま河原を歩く。周りには様々な人々が戯れている。水着姿の女性が戯れている。)
(音声:環境音とピアノの和音の音色が聞こえる。人々が映し出された瞬間に、映像の中の女性が男に話しかけている声が聞こえる)

 センターには人の声が入っていて、ピアノが低く敷かれています。で、ピアノが大きく周りを包みこんでいる。どうなんですか、って思うわけですよ。映像でやっていることは『ウイークエンド』と同じくらいアホっぽいことですよね。死んだら若い子たちが水着で出てきましたって、すごい意味のない、ゴダールっぽいすばらしい馬鹿馬鹿しさ、をやっているのに、そこをジャーン……みたいなやり方で、包んでいくと。さっき「金持ちのデジタル」と、「貧乏人のデジタル」って話をしたときに、こういう音響編集にどれくらいお金がかかるかとか僕はあんまりわからないんですけども、感性の持ち方において、ブルジョワの音の作り方ですよね。豪華な……。つまり狭い意味においてヨーロッパ芸術っていうものの系譜のなかにゴダールを置くと。ちなみにハリウッド映画はサラウンドをどう使うんだろう。『トランスフォーマー』ですね。二〇一四年の『トランスフォーマー』ですけど。全体見ると、そもそも二〇一四年の『トランスフォーマー』はドルビーアトモスっていうので、最大64ch使える。しかも頭の上にもスピーカーがあって、それを使える設定があるので、いまは無理やり5.1chに押し込めてるので、あまりこう、あれなんですけど。それでも……。
(映像:トリケラトプスのような機械獣が空中で別の機械と衝突する。人間たちがその方向に向かって走っていく。カットが切り替わる。人間たちの正面で走っているカット。機械獣の寄りのカット。何やら人間たちに喋っている様子。人間たちの横からのカットからティルトして、ビル郡の間からUFOのような機械が空中に登場。一気に引きのカットになり機械獣たちがそのUFOのようなものへと引き込まれるようにして空中へと浮かんでゆく。)

えーっと。マイケル・ベイのこと考える時間じゃないので……音どうやって使っているか。ウーファー使いまくっているので、ウーファー見ましょう。四段目ウーファーです。ウーファーだけ流します。

(音声:地鳴りのような音が映像とともに流れている)

センター流します。

(音声:機械獣が主人公たちに話しかけている部分。機械獣が喋っている音、人が喋っている音が聞こえる)

比較的地味な、左右のスピーカーはなにやっているかというと、ブィーン、ブィーンみたいなことやってます。つまりセンターがやっているのはスクリーンで起きていることをなぞるようなやり方で音を敷いていて、左右でそれを取り巻いている……。これシークエンスとしてはマグネティックなパワーで吸い寄せられているっていう状況なので、目には見えないマグネットの力を左右のスピーカーでブィーンと鳴らしてですね……で、ウーファーで破壊のことをやって……サラウンドには実際ものすごい沢山の音が分けられているのが、まとまって入っちゃっているんですけど、破壊と、マグネティックパワーのさまざまな出来事を空間を包むようなやり方で配置していくと。で、こういうやりかたで作られていて、で、『ソシアリスム』はどうか。こういうものとさっきの、ヨーロッパ芸術である『アワーミュージック』を対比しても……なんていうか、ヨーロッパは高級でいいですね、っていう話にしかならない(会場笑)。しかもアメリカ映画の現在のテクノロジー、ばんばん金かけて、使えるもの全部使うっていう表現の圧倒的なパワフルさっていうのがありますよね。それに対して、『ソシアリスム』のこの……ちょっとここ見ましょう。

(音声:ばばばばっ! という音のあとにナレーション。センターに音が入っている)
(映像:choseという文字が画面に大きく。その後、薄暗い部屋の映像)

平倉:このサラウンドがものすごく使われている箇所はなにかというと、アラン・バデューという哲学者が一人で、誰もいないホールで講演するときに、いままでずっと寝ていたサラウンド・スピーカーが使われて……謎のアトモスフィアがつく。で、そのあとずっとなんもなくて……(サウンドトラックを移動しながらサラウンド・スピーカーが使われている箇所で)ここにちょっとありますね。ここはちょっとおもしろい。(再生しながら)お父さんと話すというシークエンスですが、左右のスピーカーにはノイズとともに、人の声も少しだけ敷かれています。(映像は男性の寄り)で、サラウンドにも人の声が敷かれている。これはマイルドなやり方で音を振り分けるやり方ですけれども、いままで(この映画では)、こんなふうに人の台詞がサラウンドを使って表現されることはなかったので、この台詞のあり方は、音響的に特別な出来事ということになると思います。(再生する)
 さらに非常に複雑なことをしているのがラストショットです。アリッサていう人が、殺されたように見えるシーンなんですけど、音をみるとこういう配置になります。(サウンドトラック見ながら)このラストシーンにいたる箇所では、こういうふうに左右の音がバラバラに組み立てられている。見てみます。

(映像:空のカットから、街頭のカフェにいる男女の映像。一瞬デモの映像が写り、女性がカメラを構えているショット。画面両側から手がのびる映像。「Des Choses(物たち)」の文字)
(音声:アリッサ! という少年の声、銃声、悲鳴)

平倉:こういう感じです。これ……格好いいですよね。ゴダール、いろいろ変なことやっても、最後のショットは格好よく作るので……。左だけ聴きます。(少し前のシークエンスから再生)右ではノイズが鳴っているんですけど、左には台詞だけです。ここから突然(ノイズが)鳴り出す。今、左スピーカーだけ聴いています。まるでトラックが一本しか使えないときのように、しかも音を重ねられないかのように音鳴らして、はい人の声入れます、また戻します、みたいなことをやっているように見えるけれども……それに右側を重ねるとどうなるのか。いまは重ねてないです。右側だけ聴いています。さっきより速いピッチで、速い笑い声が鳴って、なんか車の軋る音とも叫び声ともとれない音がしたあと、完全な無音になり、もう一回その音(車が軋む音)がしてまた無音になる、と。で、合わせて聞くと、この最後のところ。左だけ銃声が聞こえる。こういう構成になっています。バン、バン、バン、バン、バンって鳴るときに、(最後のシーン、二人の手のアップのカットを見ながら)ここに一発目の銃声とキャーという音があって、無音になったあと、最後の銃声に合わせて、銃と叫びがあがる。このときに、誰か撃たれたのかなというのが、この銃声と叫び声とを頭の中で統合したときに現れる解釈ですけれども、サウンドトラックの方にはまったく統合がなくて、片っぽで銃が鳴っていて、片っぽで叫び声が鳴っていると。それぞれの音は少しももう一方のスピーカーには混ぜられていない。こういうやり方で分離と混合が同時に生じるような空間を放り出して終わる、みたいなことをやっています。で、あ、そうそう。それでですね、この分析を『ソシアリスム』が公開されたすぐのときにやってたんですけれど、左右もう完全にバラバラで、やっていると。ステレオの概念を組み替えている。で、ゴダールの最新作、3Dらしいので、3Dといえばそれは左目と右目なので、絶対左目と右目でちがう映像を流すにちがいないってそのとき言っていたんですけど、その通りになったっていう(笑)。で、もう言っちゃっても大丈夫だと思って言っちゃいますが、(左目と右目が)別々になるってことですが、全然予想を超える。左右の音をバラバラにしたときに作られる空間の彫刻性みたいなものがまったく予想できないのとおなじように、視覚にそのバラバラさが起きたときも、頭で考えているときとはまったくちがう。まったく想像していない新ジャンルが立ち上がっていて、僕はこの映画はですね、どのくらい、『右側に気をつけろ』以来だな、と思って。
七里:あ、それは僕も。
平倉:そのあと家帰ってから、いや『勝手にしやがれ』以来(笑)。
七里:ああ、そうそう(笑)、そういう風に前回言ってましたね(笑)。
平倉:で、つまり映画に新ジャンルを開いたっていう感触があって。まあ映画だけどもう完全にこう、未知の彫刻の領域を開いたみたいなことになっているんですね。今日、最初そのことは言おうと思っていたんですが、ここまでゴダール分析でした。一応ここで(笑)。
七里:(笑)。ありがごうございました。もう絶賛、って気分なんですけど、その、で……。
平倉:今日なにやろうと思っていたかってことですよね。最初はそもそもこういうやり方で見るってどういうことなのかということを話すっていうのがあって、それは僕はそもそも人間が、自然な、生物学的に「自然な」知覚と、テクノロジーを介した知覚が対立するようにあるのではなくて、さまざまなやり方でテクノロジーとか人工物のなかに……例えば人間が作り出す文章も人工物で、『ゴダール的方法』を見るとそうしか見れないとか言われるんですけど、で、これ(『ゴダール的方法』を手に持ち)もまたテクノロジーの産物で、えーっと、文章もテクノロジーで、人の物の見え方に働きかけて作り変えるような技術なんですよね。眼鏡かけて見ているような状態になる。でもこの本だけじゃなくて、例えばバザンを読んで映画見れば、バザンが作り出した人工物であるテクストを通して映画を見ることになるし、常になんらかのテクノロジー、しかもそれはまさに印刷物っていう具体的なブツを通して私とくっついた、そういうさまざまなテクノロジーと接合して映画を見てるので、これが極端なわけではない、という話を最初はしようと思ったんですけど……。
七里:まあでも、その話に入っていっちゃうのも面白いんですが、やっぱまずは、今ゴダール分析を聞いてというか見てというか、吉田さんどう思いました?
吉田:うーん……と。
会場:(笑)
吉田:えーそうですね。僕なんかはどうしても、例えば一番最初にその、風の音がこっちからこっちへ抜けていくみたいな、それはすごく刺激的なんですけど、なぜそれをゴダールはやっているんだろうという風に考えちゃって、意味ですよね。それが持っている意味。
七里:うん、そこですよね。
吉田:それが、確かに聞いてみたときに、一見、一聴したときに「あ、なんかおかしいな」と思うけれども、通して見てる中では、流れの中で、でなんかおかしいなと思いながらも、過ぎちゃっている。で、そこを留まってみるとこうなるんですよっていうのは非常に面白いですよね。だけど・・・。
平倉:でもたしかに今日、映画分析のつもりでこなかったから、意味の話まったくしなかったですけど、えーっと、意味のレベルでは「これがソシアリスムだ」っていうことですね。
七里:あ、そうなんですよね。
平倉:つまりこれは人間関係についての映画なので、人が「共にある」ってどういうことかっていうときに、えーっとこのサウンドトラックでは男と女は完全に別のスピーカーに存在してて・・・。
七里:右耳と左耳はもう別のものを聞いているっていうことですよね。
平倉:はい。そうです。で、それがヨーロッパとアフリカっていう別の国の関係、白人と黒人という関係、あと男と女っていう関係が重ねられて、その間のコミュニケーションの問題が完全な分離において置かれて、完全に分離しているものが、でもいっしょになることが「ソシアリスム」だっていうやり方で。で、この映画でそれと対比されているのはキャピタリスムで。で、キャピタリスムのソシアルダンスみたいなものが、映るんですけど、わかりにくいですけどちょっとそれだけ、あの見ると、(映像を操作しながら)えーっと、すごい低解像度の映像で……ちょっと暗くしてください。

(映像:船内でのダンスのシーン)

平倉:いまのシーンは音響的には左右の間に分離はない。で、同じようにこれは船の、豪華客船なんですけど、ブルジョワたちの豪華客船。この映画ができたあとに沈没したんですけど。

(プールで踊る人々の映像を見ながらダンスする船客たちのシーン)

平倉:これは(笑)、人々が共にある姿なんだけれども、その音響は少しも、なんというか……バラバラではないんですね。キャピタリスムの問題、キャピタリスムは強力に人々を統合して、そのあいだの差異なんて失われちゃうようなやり方で、ダンスしているみたいな空間として船の中で、その豪華客船に乗ってる客たちは扱われていて、それとは別になんかデッキにいる、思い悩んでいるふうの白人の男性と黒人の女性は、決していっしょにならないサウンドトラックを生きてる、と。で、ソシアリスムはどちらにあるかと言えば、そのバラバラなものが共にあることの方にある、というやり方で、まずはその意味のレベルは構築されているんだと思います。けれど……。
七里:うん、けれど・・・。
平倉:僕はそういう解釈はなんか……。
吉田:ちょっとねえ・・・。
平倉:こう、いま、思いついてしゃべってたりするわけで。
七里:なんかその、そうやって収まりの着くものだったら、平倉さんが最初に言ってた、この分析を、この状態を批評する言葉がないっていうことにたどり着かないですよね。
平倉:そう、そのことです。まさにそれで、映画を見るってことがいま言ったような解釈図式に映画を落とすってことは、この作品に対応してなくて、この作品がやっていることは、全然批評言語が存在してないような領域での操作をおこなう。でもそれは、僕らの視覚と耳にはたらきかけてきて、新しい空間を現出させるんだけれども、それは全然言い当てられない、と。で、そのレベルでのこの映画の「意味」みたいなものを言いあてることができたらこの映画を論じたことになると思うんです。で、僕、『ソシアリスム』論は書いてなくて、だから、これからやります(笑)。
吉田:とにかくこのゴダールの、そういうものを見て言葉が追っ付かない、言葉の方をむしろ変えなきゃいけないっていうね。そのために理論構成しなきゃいけない、批評が変わらなきゃいけないっていうそういう事態を招かなきゃいけないっていうことを教えてくれてっていうことだと思うんですけど。
七里:確かに、収まりのいい言葉では落ち着けないっていう気持ちにもなりますね、こういう風に見ると。で、実は僕、この映画を波形で見るのは初めてじゃないんです。六月にアクースモニウム上映をするときに・・・。
平倉:アクースモニウムってたぶん説明が必要だと思うんですけど。
七里:あ、そうですね。アクースモニウムっていうのは、フランスで発展した電子音楽の演奏ツールで。その歴史的なことを言うと、電子音楽って、コンサート面白くなかったんですよ。テープミュージックだからスピーカーから再生するだけだし、演奏者がいるわけでもないし。だからいかに、コンサートを面白く見せるかという工夫として、たくさんのスピーカーを舞台に並べてオーケストレーションするっていう発想が、それはフランスだけじゃなくてドイツでも別に起きていたらしいんですけども、フランスでは七〇年代にフランソワ・ベイルって人が、そういうシステムを作り始めたんですね。それは、一応約束事があって、元はLRの二チャンネル、つまりステレオの音源を、ライブで二〇チャンネルとかに振り分ける、それがサラウンドとか爆音とかとどう違うのかっていうのは中々説明しづらいんですが、空間に音を配置していくっていうんですか・・・。それをライブでやる、と。
平倉:あーなるほど。
七里:で、それが演奏だ、と。
平倉:うんうんうん。
七里:まあ、だからDJの音響版みたいな、そういう風な捉え方をしてもいいかもですけど、そういう電子音楽のツールを使って映画を上映してみたらどうだろうか、というのを三年ぐらい前に思いついて、・・・。で、そんな突拍子もない提案を最初に「面白いですね」って言ってくれたのが京都の同志社大学の寒梅館っていう学生ホールで。そこで、まあ日本ではほぼ唯一のアクースモニウムのプロと言っていい檜垣智也さんと、『眠り姫』を去年(二〇一三年)の六月にやったんですよ。で、それが好評で今年の二月に、今度は日本映画大学の主催で川崎のアートセンターってとこでやりまして。寒梅館の方も今年も何かやりたいと言ってくれて、それじゃ『DUBHOUSE』をアクースモニウム上映しようと。で、やるには、『DUBHOUSE』がフィルム作品なんで、三五ミリ上映する施設でやらなきゃいけない。そうすると大ホールになっちゃうんですよ。八〇〇人くらい入る。
平倉:それ同志社にあるんですか。
七里:あるんですね。で、その大ホールで『DUBHOUSE』を一六分だけやるってのは中々勇気のあることなんで(笑)、予算的にも合わない。で、何か目玉をくっ付けようということで、ま、それはだからフィルム上映したんですけれども、『ソシアリスム』をアクースモニウムで、カップリングでやるという、畏れ多いことをやったときに・・・。
平倉:その大ホールで、はいはい。
七里:これ(編集ソフト上の『ソシアリスム』を指しながら)の映像付いてない状態で波形を見て打ち合わせをしたんです。
平倉:なるほど。
七里:で、そのとき、映像と一緒に見なかったから余計に何やってるのかわからなかったんですよ。確かに、波形だけ見ても『アワーミュージック』は美しいですよね。見せてもらったあそこなんてもう本当に波がこう・・・。でも『ソシアリスム』はね、(スクリーン映し出されている波形を指して)本当この通りですよね(笑)。で、だから、今の分析を聞いていて、檜垣さんに無理言ってアクースモニウムのLRしばりの約束事を破ってでも、5.1chを素材に使ってそれぞれを増幅していたらどうなっただろうなっていう悔しさを感じました。檜垣さんもいわゆるクラシックの勉強をされてる方だから、そのときは、このズボッと空いているところをどうやって埋めるかの演奏だったんですよ。
平倉:あー。なるほど。
七里:もちろんステレオを音源にしても、右から左にブワーッと音が移動したり、細かい移動もそれに準拠して振り分けていくわけだから、結局、いわゆる風呂敷ってやつですか、風呂敷に包みこむ形でしか分断を表現できないんだけど、それはそれで、この暴力性は残るんですよ。
平倉:うん。つまり音源としてもともと音が鳴ってなければ……。
七里:スポーッと抜けるから(笑)。「アレ? 右から聞こえてた音が左に移ったぞ」みたいな。それが逆に強調されちゃうんですね、スピーカーが多いから。だから、あれを観に来て下さった方はものすごい経験をされたと思うんですけど。僕もいまだに本当にすごいことやってしまったなと思っているぐらいなんですが、やってるときは全く意味わかんなくて。まあ意味って言っちゃいましたけども、どうしてこういう風になっているのかわからなくて。でも映像と一緒に見ると、逆に、なんかこれデジタルの感覚じゃないなって思ったんですよ。
平倉:ああ。はいはい。
七里:あの、フィルムの、つまりアナログの繋ぎのような気がしたんですよ。
平倉:うんうん、うんうん。
七里:語弊を恐れず言えば、これはね、もしスタジオで整音とかやってる方が見たら素人がやることですよ。プロフェッショナル的には。だからこういう音の素材をいかに整えていくか、ここからどう整音しましょうねっていう話になるんですよ。常識的なプロフェッショナルの音響の仕事では。で、これをやってしまう感覚っていうのは、デジタルの人の感覚ではないような気がしたんです。
平倉:あ、それはつまり整音っていうのは、現在、そのデジタルだと……。
七里:これだけ細かく出来るから。
平倉:なるほど。
七里:プロツールス(というソフト)を使うと、ご存知の方も多いと思いますけど、もう本当になんでも出来ますよ。音に関してはね。
平倉:これはむしろ、トラックを一本ずつ録音して、切って、っていうふうに感じられたと。
七里:昔の、FDをつる感覚ですね。だから、コンピュータを使う世界の感覚ではないなという気がちらっとしたんですね。
吉田:あと僕が聞きたいなと思っていたんですけど、これデジタルで撮っているわけですよね、『ソシアリスム』は。なんで『フィルム・ソシアリスム』なのかなと思って。
平倉:うーん。
七里:謎が多い(笑)。
平倉:でも、配給するときに、ゴダール側がデジタル版とフィルム版を用意していて、僕はさっきデジタルでなければだめだという言い方したけど、それが僕の趣味ですけど、二つ出していることがすごく重要かなと。フィルム版とデジタル版と両方ある。そこにも一種のステレオのような二重性があると思っていて。

画像2

七里:それから、あのデジタルノイズのことなんですけど、最初はただバグが入っただけなんじゃないかと思う。ノイズが入ってしまったけど、このカット使いたいからどうしようという発想のような気がする。こういうアクシデントを利用してしまおうと。それこそ、『勝手にしやがれ』であれば、三時間版をもしプロデューサーが許せば、あの歴史的なジャンプ・カットは生まれなかったかもしれない、という話ありますよね。なんかゴダールって、そういうアクシデントを、逆に利用してしまう。それは誰もが言ってることですけど。
平倉:そういうときにこそ、メディウムが生き生きするっていうふうに感じるっていうことですかね?
七里:それこそ、金持ちのデジタルで言えば、「これCGで埋めようか」とかあるいは、「あのシチュエーションもう一回作って撮り直せばいい」とかって発想になる。でも、それは許されないよというプロデューサーの強制によって、「じゃあ、これそのまんま使っちゃおう」って発想になるっていうことですかね。
平倉:そうですね。だと思います。それか、ほんとうにこう、なんていうかな……、躍動感があるのが、やっぱり。
七里:そう。作品はそうなんだけど、そこに届く批評の言葉が(ない)っていうことですよね。
平倉:そうです。
七里:この面白さっていうか、この興奮。だから、ミクロっていうのかな、ズバンって切ったものでも、拡大しても面白みが残る、これなんだろう、それがゴダール、みたいな。
平倉:うんうん。たしかにそこが、やってることはVJみたいな、グリッチのような感じはするけれども、それとゴダールとの差みたいなものは感じますね。つまり、目的が「ほらデジタルだぞー」みたいな、「お前らデジタルでぐちゃぐちゃになれー」ってところにあるわけじゃなくて。そういうの、わりと僕好きですけども、ゴダールそうじゃなくて、ノイズでも切断でも、これは本当にフィルム的だなって思うんですが、こうポンって躍動感が、やりすぎないところで立ち上がるっていう、それをこう、積んでくるっていうやり方で、こういうノイズとかっていうのを使うっていうのが、デジタルの特性っていうより、ゴダールの身体感覚のありようとしてある感じはある。
七里:それって、どこから出てくるんですかね。さっきの打ち合わせでもちらっと話したんですけど、デジタルに金持ちのデジタルと貧乏人のデジタルがあるとすれば、フィルムの時代にも、金持ちのフィルムと貧乏人のフィルムがあったと思うんですよ(笑)。デジタルシネマになってから、どうも違和感を感じてるのは、もしかしたらですよ、金持ちのフィルムから金持ちのデジタルへの移行っていうのは、割とすーっといったんだけども、どうも、貧乏人のフィルムから貧乏人のデジタルへが、まだズレがある。だからむしろ、ゴダールは、もしかしたら世界で唯一貧乏のフィルムが貧乏のデジタルに連結した人なのでは。
平倉:まあ、「唯一」っていう言い方には抵抗するけれども、ゴダールはこういう時代があるから(スクリーン上のゴダールを指差す)、基本的にその、こういう人なんです(笑)。新しい機材が出たら、ゴダールがいわゆる商業映画をやめるっていうのは、自分でスタジオを持つ、でそのスタジオに自分で機材を買ってきてそれを丁寧に使って、機材のことはどんなスタッフよりも自分が詳しいというやり方で、映画をつくるっていう、テクノロジーを自分のものとして使うっていうことをずっとやってきて、その延長でデジタルにも接してるっていう感じがします。だからそのうえで、じゃあなんで貧乏人のフィルムが貧乏人のデジタルにうまく移行できなかったのか。
七里:なんかね、いまの貧乏人のデジタルを担っている人たちの多くが、出自が違うような気がしてるんです。
平倉:つまり、映画のつもりでは撮らない映像がすごくいっぱいある?
七里:それもありますよね。映画のなかでも知らないうちにそういうことになってるのかもしれないし・・・このへんになってくるとまた言い淀み始めるんですけど(笑)。
吉田:このシリーズは、アナログとデジタルの差みたいなことでやってきたわけですけど、その差は実はあんまり関係ないんじゃないかっていうのがひとつあり、ただ、僕らがどうしても違和感を抱いてしまうこと、デジタルになった時に何かが変わった気がするっていう体感的な変化、そこが、だから貧乏人のフィルムから貧乏人のデジタルへ変わってくるところに、あるのかもしれないんですよね? 金持ちのフィルムから金持ちのデジタルへの移行っていうのは非常にスムーズなんだけど。デジタルで撮りはじめている若い人たちはなんか違う気がするっていうところにあるので、もしかしたらそこの移行線をわれわれは考えてたのかもしれない。
七里:そしたら、貧乏人のデジタルなのに、金持ちのフィルムを目指しちゃってるのかも知れない。
平倉:「貧乏人のデジタル」って言葉で連想してるものって、たぶんそれぞれで違うと思うんですけど(笑)。
七里:そうですね(笑)。
平倉:僕はそれこそ、貧乏人のデジタルってYoutubeにのってる、なにかこう自分で撮ってるというような、いろいろな画像を連想するんですけど。それよりもう少し作品寄りの話ですよね?
七里:そうですね、ぼくはもう少し切実な問題としてあるので。でもYoutubeに上がってる映像が作品じゃないと思わないし。で、そもそも作品てなんなんだっていことも最近思うんですよ。
平倉:そうですね、ただとりあえず、映画という制度が、映画の具体的な装置とともに続いてきて、でも映画館にかける作品の中にも、貧乏人のつくっているデジタル映画と金持ちのつくっているデジタル映画があるときの、貧乏人のデジタル映画、ということですね。その場合の、出自が違うと?
七里:うん、はい、はい、はい、そうですよね。貧乏人のデジタル映画ですね。
平倉:その場合の出自が違う?
七里:うん、なんかね・・・(笑)。
平倉:具体的な話はしにくいかもしれないけど(笑)。
七里:そういう話は、こういう場であんまり出来ないし、したくもないんだけど(笑)。
平倉:じゃあデジタル以降で、何が違うのかっていう話ですけど。
吉田:そうだね。
平倉:でもやっぱ、ゴダール入れたから分かんなくなりましたね。
七里:いやでもね、ゴダールはね、いいですよ。いやだって本当ね・・・。今日完全に『言語よ、さらば』の宣伝イベントみたいになってきましたけど(笑)。
平倉:めちゃくちゃ宣伝したいです。
七里:本当面白くて。
平倉:すさまじいです。
七里:僕、『右側に気をつけろ』のときに、途中から映画観るのをやめちゃったんですね。もう、あまりに気持ち良くて。
平倉:うん。
七里:だからほとんど最初観たときに、後半覚えていないんですよ。ただもう、アドレナリン放出しまくった、みたいな。それと同じ経験をしました。こないだの3Dで。それの、ガッとスイッチ入ったところが右目、左目の別れたところ。でも、別れた・・・なんですよね、もう言えないんだけど(笑)。本当にね、もう1回絶対観に行こうと。
平倉:そりゃ行くよ(笑)。
七里:行く(笑)。
平倉:で、金持ちのデジタルについてでした。
七里:そうそう、その話で、だからさっきの平倉さんの話の中で、ビューティフルだってことの汚らしさって仰ったじゃないですか。
平倉:はい。芸術であることの汚らしさということですけど。
七里:(『ホーリー・モーターズ』)っていうことなんでしょうかね?
平倉:ちょっと、カラックス。
七里:いってみましょう。

(映像:『ホーリー・モーターズ』サーモグラフィーを用いたシーン上映)

平倉:まずとっかかりとしてのこのシーンなんですけど、この映画はすごいいろんなやり方で、デジタルっていうことを意識してて、しかもデジタル化で「モーターズ」が終わってしまったと、いまの人間はモーターで動く映画を必要としてない、みたいな話ですけど。で、こういうショットを入れちゃう。僕なんかには、これはゴダールを意識しているとしか思えないですけども。ゴダールもいろいろ、色を調整してバーンって、完全に原色になっているようなものを使いますけど、カラックスがそれをやると、この味わい(笑)。
会場:(笑)
平倉:あるいは、このシーンですけど。

(映像:『ホーリー・モーターズ』ドニ・ラヴァンが走るシーン)

平倉:僕は愛がないので、平気で止めちゃうんですが。当然その『汚れた血』の……。
七里:デヴィッド・ボウイのところですね。
平倉:それを、思い出すわけですけど。それをデジタルで撮っていることになっているわけですけど、僕はこれはデジタル/フィルムの問題ではないと思うんです。このシーン、要するに、マーカーをつけて運動すると、マイブリッジとかエティエンヌ=ジュール・マレーがやっていたみたいな、体にマーキングして運動を抽象化するっていう問題をやっているシーンだけれども、ここになると(『ホーリー・モーターズ』ドニ・ラヴァンが走るシーンの続き上映しながら)マーカー全然関係ないじゃないですか。全然マーカーをセンサーが拾えないので。体のその……何て言うのかな、体に焦点あてちゃうわけですけど、そのあと、抽象化されたセックスがはじまります。

(映像:『ホーリー・モーターズ』ドニ・ラヴァンと女の絡むシーン上映)

平倉:ここでなにを撮っているかといえば、マーカーじゃなくて、このツヤツヤなコスチュームの「表面」ですよね。撮影方法自体もそうだし、皮膚というものに目がいっていて、問題意識としてはなんかこう、データ化されてますみたいな。
吉田:いかにもって感じで。
平倉:そう、いかにもなんです。全然デジタルのことなんて考えていない、要するに装飾としてのデジタルですよね。まったく必要のない、こういう輪っかみたいな、何かこうピーピピピーみたいな感じで、「データ処理中」みたいな。なんだそれは(笑)。
会場:(笑)
平倉:それはこういうゲーム画面みたいなふうになります、という説明のように理解するわけですけど、デジタルに対する感覚のあり方として僕はこれは……好きじゃない。いろんな理由でなんですけれども。せっかく、こんな荒々しい可能性を持っているデジタルというものを使っているのに、その荒々しさを別の意味づけで、使っていくと。しかも僕が……。
吉田:うん、うん。
平倉:デジタル・テクノロジーを使った、あるいはもっと、デジタルとアナログじゃなくて。デジタルって指で数えるってことなので、バラッバラに物事を数えていけばなんでもデジタルですけど。断絶はむしろ、コンピューターを使うか、使わないかという点にあって、計算機を使う表現の特徴は、リアルを計算可能なものとして扱うっていうことだと思います。こういうのがそうなわけですよね

(映像:『ホーリー・モーターズ』データ化されたドニ・ラヴァンと女のシーン)

その運動っていうのは、まったく、計算不可能、分解不可能なようなものに見えるけれども、マーカーをつけて、それをセンサーで読み取れば、動きが、人間の目には複雑すぎてわからないけれども、さまざまな点の位置の変動のパターンとして記述ができると。記述したものは計算可能なので、ちょっと膝の動きだけ極端に大きくするとかいうような変更も可能になる。それはコンピューターの力で……僕がコンピューターを媒介とした表現でおもしろいと思うのは、それが世界についての理解を深めてくれる場合です。
七里:うん・・・世界は、計算可能かっていうことですか?
平倉:当然計算可能だと思うんですけど。計算可能なやり方で、使われている限りにおいてコンピューターの表現は面白い。でもこれは(『ホーリー・モーターズ』データ化されたドニ・ラヴァンと女のシーン)世界がどうなっているのか、人の動きってどうなっているのか、ということから目を逸らすようなやり方で、コンピューターというものを、ヴェールに包むために扱っているような感じがする。
七里:もう、なんか愛どころか憎しみを込めていましたね、今(笑)。
平倉:カラックス好きだったからですけどね(笑)。
七里:だから本当に悩ましいんですよ。その、こうやって言われると、あの興奮した『ホーリー・モーターズ』のベールが剥がされちゃって。
平倉:『ホーリー・モーターズ』のどこが好きなんですか?
七里:インターミッションです。
平倉:ああ、インターミッション。
七里:アコーディオンの。あそこでもう・・・。
吉田:うん、うん、うん、うん、うん。
平倉:あざとくないですか?
会場:(笑)
七里:もうねぇ、『ホーリー・モーターズ』を分析してもらえないかって提案したのは僕なんですけど。こういう例として、出さざるをえないこの流れっていうのは・・・。
平倉:悪魔のよう(笑)。
七里:いやいや、違うんです。なんかねぇ、痛ましいというか、悩ましいというか・・・。
平倉:いや、あざといでしょ。
七里:でも、こうやって話をしていて、確かに『ホーリー・モーターズ』を観ると、弱っちいこと言いますけど。うーん・・・カラックス駄目じゃんみたいな(笑)思ってしまうんだけど。
会場:(笑)
平倉:いや、カラックスは、すごく近代的だとおもいます。ヨーロッパ的な意味で。
七里:そうですね。
平倉:芸術家であろうとしていますよね。
七里:芸術家ですね。
平倉:芸術家の作品観たなあって感じがするじゃないですか。色の味わいとかも含めて。でも芸術家であるってことは……そういう狭い意味での芸術家であるってことは、
七里:狭い意味でのね。
平倉:うん、要するに、保守主義と神秘主義が曖昧なやり方で、結合した状態を良しとするということなので、それは僕は……政治的に許しがたい。
七里:政治的にね(笑)。いやいや、笑うところではないです、これはね。
平倉:貴族は良かったってことだもん。
七里:うん、うん。
平倉:それは、僕は反対する。ゴダールは、ちゃんとソシアリスムだなって。ゴダールと対比しすぎですけど。でもなあ……僕『ポンヌフ』って観てないんですよ。
七里:あのねぇ、『ポンヌフ』僕、駄目なんですよ。
平倉:なんか、あれは金持ちの表現だろうなって、なんか。金持ちっていうか(笑)、なんていうんですか、ああいうたくさんの金を捨てるみたいな。
吉田:まあいわゆるアートって感じの。
平倉:はい。しかしそれが、カラックスのおもしろさなんだろうな……。
七里:そんな、あえて見つけなくても・・・(笑)
会場:(笑)
七里:でも今日は突きつけられるな本当に。やってよかったなぁ。で、もう、まとめに入らないといけない時間に差し掛かりつつあります。
吉田:逆にじゃあ『トランスフォーマー』とかお好きですか?
平倉:それで、さっきの話とつながるんですけど。『トランスフォーマー』対比するとしたら……。

(映像:『トランスフォーマー』ビルが壊れるシーン上映)
(音声:マグネティックなノイズ)

平倉:僕、この手の映画を観るときの見方ひとつしかなくて、物理的なシミュレーションを見ているんですよ。物の砕け散るさまを全部記述する、と。これは要するに、まさにコンピューターを媒介としている世界の認識のやり方で、世界はこういうひとつのやり方で壊れていくが、その位置は全部計算機で記述可能なのだってやり方で、やると。その記述は、実際の物理世界に、より近ければ近いほど、観る者に満足が与えられるってやり方で行われていて、その限りで少し面白いけれども、でも最終的にこれは僕が生きている世界が、どういう世界なのかということを、理解するところにたどり着かなくて、消えちゃうじゃないですか。消えちゃうし、見切れないし、結局記述よりも絵的な迫力が優先されるので、物が本当の意味でどう壊れるかについて僕に知識を与えてくれない、理解を与えてくれない。だから、その点であんまりこう……虚しさが、映画観たあと残るんです。それと対比するとしたらトーマス・デマンドという現代アートの人が二〇一二年に『Pacific Sun』って作品を発表するんですけど。

(映像:『Pacific Sun』揺れる船内で、いすや机などが船の揺れ・傾きにあわせて床面をに滑る)

平倉:トーマス・デマンドは、作品を全部紙で作る作家です。これ(『Pacific Sun』)全部紙製で、紙製の物を一コマ一コマ位置をずらしてって、アニメーションでこう作っています。音はもちろん効果音を入れていますが、元ネタはトーマス・デマンドがYouTubeで見つけた画像で、音は消しますけど、こういうものです。ちょっと途中から見ます。
(映像を流しながら)Pacific Sunというのは船の名前なのかな? ニュージーランドを航行してたときにすごい嵐に巻きこまれて、船内の監視カメラかなにかの映像がアップロードされている。物が飛び散って、ストローみたいなものがこうワーってこう。
吉田:本当は傾いているけどってことですね。
平倉:ええ、そうですね。カメラは船に対して固定されているので、あたかも傾いていないようだけれども。
吉田:本当『トランスフォーマー』にこんなシーンがありましたね。
平倉:そうですね。それを一コマずつ分析していって、もちろん分析もコンピューターも利用するわけですけども。それを全部紙にして、物理世界に落としてもう一回撮るというときに、映っている運動は同じだけれども、ここで起きているものは全部記述されている訳ですよね。人が一回起きている偶然の現象を、全部見て全部記述して、その記述を……。
吉田:その通りトレースして。
平倉:トレースすると。これは僕に物の世界について理解を与えてくれるものだと思います。しかもその理解を、これもものすごい予算をかけて、大量の人を使って作った金持ちの作品だけれども、あり方としては、手作りで何かをやることの延長上にあるように感じられると。このテクノロジーは、私ではない誰かによって作られたものではない。でも、さっきの『トランスフォーマー』だと、その物の壊れ方を行っている計算は、私には全然見て把握もできなければ、実際それを操作したとしても、内側に入っていくことができない……結局ヴェールに包まれているので。それは僕が物足りないと思うような、コンピューター化された以降の表現のあり方ですね。デジタル化以降の表現で何が好きですかって聞かれた場合に(『Earth』表示 http://earth.nullschool.net)
七里:あぁ、これね。
平倉:これとか思い出すんです。これは、表現ではないけど。
七里:これ知ってます、誰かが送ってくれたんですよ。
平倉:台風来たときに皆これ見てましたよね、Twitterとかでね。
七里:あっ、そんときか。
平倉:これは、コンピューター使って衛星も使って、世界がどのようであるのかということを、すべて計算可能なやり方で記述して見せている。こういうものは、僕はよろこびを感じる部分があるけれども、デジタル・テクノロジーじたいは、いろんなやり方で使えるので……この物の世界を、見ないようにする為にも使えるので、僕はそれはピンと来ない感じですね。
吉田:『トランスフォーマー』の場合、物(ルビ:ブツ)の世界に足を置いていないというか、完全にコンピューター上で、単に合成してるだけっていうことですかね? やっぱり何かこう、物(ルビ:ブツ)の世界に足を置いて、それを抽象化して、先ほどあった足の動きとか、物より足の動きっていう言い方されたけれども・・・。
平倉:いや、『トランスフォーマー』はすごいと思うんですよ。やっている方向は逆で、トーマス・デマンドは、物の世界からそれを抽象化する方向に向かって、『トランスフォーマー』に限らないけど、ハリウッドの物が壊れる映画。僕、物が壊れる映画が本当大好きで、あのバリバリバリ!って、なにかが砕け散るところだけを観るために、映画館に行くようなタイプなんですけど。物に根ざしていないものであるにもかかわらず、僕の体が納得するようなリアリティで、計算がおこなわれるという。それはでも、さっき落とす言い方したけど、逆側から物(ルビ:ブツ)の世界に迫っていく表現のあり方なので、そこに興奮する部分が僕はあります。『トランスフォーマー』のシリーズを作っている人たちの、テクニカルなことをやってる人たちの基準は、観た人に物がスカスカに見えないでリアリティが、軽さと共にだけども、リアリティが感じられるところを目指しているはずなので、そこは尊敬するとこですかね。
吉田:うーん、なるほどね。
七里:今リアリティって言葉が出てきてましたけど、リアルとリアリティって違いますよね?
平倉:どうですか?
七里:そこはどうなんですか?
吉田:そこを別に見るか見ないかっていうのも、大きいかもしれないですね。
平倉:それは、前回保留にしたアンドレ・バザンとの問題とも重なって。アンドレ・バザンっていう人が、たぶんよくご存知だと思うのですけど、フィルムっていうのは、聖骸布みたいなものだっていう。バザンの本に、これが載ってて(聖骸布の画像を表示)これはイエス・キリストの包まれた布で、その死体の跡が、こっちがお腹側で、こっちは背中側が写っているんだよ、みたいな話をしていて。フィルムっていうのは、光の痕跡なので、こういうものであるからすばらしいと。存在そのものが写ってるんだっていうことを言うけれども、『ゴダール的方法』って本で書いたのは、これ(聖骸布)そもそも一三世紀の偽物なので、偽物でいいのか、みたいな話でした(笑)。本物っぽければ良いのかっていうことを書きました。それよりも、特に、デジタル・テクノロジーっていうか、計算可能な世界とそうじゃない世界との対比を言うときに……。大きな違いは「遺物」を愛するのか、それともその人の「動き」を愛するのかっていうことで。(この布が)キリストの肌がくっついた本物だとしても、その布を愛するのか、聖書に書かれているキリストの運動を愛するのか、どっちかってことですよね。僕はこんなもの(聖骸布)は本当どうでもよくて、生きていた人の残り物をありがたがるっていうのは、本当にまったくどうでもいいことであるし、しかもその物は、その物のまわりに、その物に対して、特権的なアクセスをすることができる貴族的な集団の結社をつくりだすので、決して許してはならないタイプの感性のあり方だと。そうではなくて、キリスト、イエスのおこなった動きとか、発した言葉のパターンは、誰かが見てそれを言葉に写した。それを印刷して複製してバラまいたってやり方で、まったく物としての痕跡が全然残ってない。まさに印刷物、複製物でしかないものだけれども、そこには運動が、幾人かの手を介して残っていて、信じるのはそっちで、こんなのを(聖骸布)信じるのは本当馬鹿だって思う。映画を観るっていうことも、そこに物がくっついたからって理由で愛するっていうのは、こういう聖遺物を愛するっていうのとまったくいっしょで、ルターが発見した自由っていうのは、魂は肉の方にでなくて、動きの方にあるっていうことだと僕は思っています。じゃあ、それをデジタルの問題にすると、いま、僕は生きてるんだけれども、ここで、バチンって泥に雷が落ちたら、その泥の分子が非常な偶然によって、僕の体の分子と全く同じ構成をとって、ここに立ち上がり、同じ運動を始めたと。そういうスワンプマンっていう哲学上のフィクションがありますけど、それは物(ルビ:ブツ)としては私と何の接続はないけれども、動きのパターンを完全に保存しているようなある物体が現れたときに、それを本物と認めていいのか、やっぱり許しがたい偽物と言うべきなのかってときに、それは本物っていうか、僕はそれは愛すべきだと、愛するってふうに思ってもいいです、というか。
吉田:聖骸布ではなく、聖書の方になるわけね?
平倉:はい。それがデジタルで世界を記述するっていうときに、っていうことで、物を理解可能であるようなやり方で、コンピューターを使うっていうのは、そういう意味で、そこにはリアルがある。リアルは・・・
七里:そこにはリアルがある?
平倉:リアルっていうのは、言葉の真の意味で存在しているものですけども。
七里:こっち(聖骸布)はリアリティってことですか?
平倉:いえ、僕はリアルとリアリティを区別しないんですけど。リアルとかリアリティって言われる言葉の次元は、こちらに(聖骸布)ではなく、運動の側にあるっていうふうに考えるっていうことです。
吉田:運動の側にあるって考えることが、リアルとかリアリティの区別がなくなるってことですね。
七里:なるほど。
平倉:はい。もし日本語のリアルとリアリティのちがいについて言うとしたら、リアリティっていう日本語は、リアルなイフェクトという意味で使われる場合がありますよね。リアルっぽく見えるという。「リアルっぽく見える」ことと、本当の意味で「リアルである」ってことを、シミュレーションとリアルとに対応させるっていう感覚は僕にはなくて、シミュレーションが十分に誠意を持っておこなわれれば、そのシミュレーションとその記述が、例えば聖書だったら四人の人物が少しずつちがう記述を残しているわけだけれども、それぞれのやり方でリアルを残しているというふうに思う。
吉田:なるほどね。僕が一番最初に言った表象っていうことも、たぶんリアルってものを前提に置いちゃうんで、そこから何か表象した場合に、欠如していますって考え方自体が、ちょっと違うってことなのかな。
平倉:いえ、表象の理想が物質的接触じゃなくてもいいということだと思います。
吉田:なるほど。
七里:・・・はい(笑)僕の本当の気持ちはですよ、リアルな気持ちは、この話続けたいんですけど。ちょっと遅くなってしまって、ここで今日のところは、一旦終わりましょう。一二月一四日にも、今の話の続きになるような気がするんですけど、アニメーションが現実世界を超える情報量を持ち始めていて、とんでもないものが生まれつつあるっていうのを、実際に例を見せてもらいながら、今の話の続きをしたいなと思ってます。そのときは・・・もうちょっとね、しどけなくならないでいきたいですけど(笑)。
平倉:しどけなさの感覚って、それはでも監督七里さんの根っこにある感覚なんじゃないですか?
七里:そうかもしれないですね(笑)。長い間ありがとうございました。また、よろしくお願いします。平倉圭さん。そして吉田広明さんでした。
会場:拍手

会場:UPLINK FACTORY


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