見出し画像

ミュン

 おもいでの中の帰り道は、いつもだいだい色の田んぼ道です。


1.
 図書室は校舎の三階にあって、帰ろうと思って階段を降りていると踊り場に、堀ちゃんが立っていました。
「待ってた。」
「どうして?」ボクは堀ちゃんと、クラスメートながら殆ど喋った事なんて無かったから、不思議に思って尋ねました。
「なに借りたの、それ」とボクのどうしてには答えずに堀ちゃんは質問に質問を返します。
「マルセル・マルボーの詩集だけど・・・」答えてボクは恥ずかしくなってしまいました。詩集を借りるなんて、気取ってるような気がしたからです。五時のチャイムが鳴りました。
そちらに気を取られていると「みせて」と堀ちゃんはボクの手から詩集を取って、その場でぺらぺらページをめくりました。

 下駄箱で「いつも図書室に行ってるの?」と堀ちゃんに尋ねられました。
「うん、」不意を突かれたボクは慌てて、しかしなるべくなんでもないみたいに答えました。まるで本が好きだからそうするのは自然なことじゃないかといったふうに。
本当のことを言えば、ボクはまだ、さっきマルボーの「ミュン」をよんだ堀ちゃんの姿を反芻していたのです。
堀ちゃんはもうズックを履いて校舎から出ていて。昇降口でボクを待っていました。
傾く夕陽が堀ちゃんを、輪郭だけ光らせていました。

 ボクたちは並んで田んぼ道を歩きます。
「詩集とかよく読むの?」
「うん?うー、そうだね、そうだね」
不意を突かれて二度もそうだねと言いましたが最近のボクはもうすっかり、詩集とか童話くらいしか読んでいられないのです。
「さっきの、なんだっけ、よかったなあ。すごく」
「本当?」
「うん、なんだっけ、題名」
「『ミュン』」
「澁谷君、シーアンドケイクとか聴く?」
「あんまりわからないかも。音楽とかよく聴くの?」
堀ちゃんは「そだねー」と少し笑って「すごくいいよ、聴いてみて」と鞄からイヤホンを取り出し、ボクに渡しました。
思い返すにボクは自分がほとほと嫌になります。この時いやらしい想像力がオートマチックに稼働したこと。
 堀ちゃんのMP3プレイヤーから流れてきた曲は「パラソル」でしたが、ボクはこの時まだ題名を知りませんでした。

ボクは黙って音楽を聴いていました。
堀ちゃんも黙ってボクを見ていました。
だから、田んぼ道には音楽だけが流れていました。

 ボクの左目から涙が一滴だけ落ちます。
堀ちゃんがそれを指さして「うれしい!」と言いました。
 ボクが黙って涙をぬぐっていると、堀ちゃんが「そだねー」と言いました。
なにも言ってないはずだったのでボクが「えっ?」と堀ちゃんを見ると、その顔はどこか困ったような、さみしいような、そんな表情でした。堀ちゃんは「そだねー」と夕陽の方を見ながらもう一度言いました。だからどんな顔をしていたのかは分かりませんでした。

 ボクが「パラソル」を次に聴くのはそれから数年経ってからのことになりますがそれでも、

ボクの頭のなかにいつも(帰り道です)
この日のこんな光景が(だいだい色です)
あざやかに(田んぼ道です)
浮かぶのです。


2.
 次に「パラソル」をボクが耳にした時、ボクと堀ちゃんはおんなじお布団にくるまっていました。
窓の外では今年初めての雪が、僕らをお祝いするようにチラチラ降っています。
「オメデ、ト」「オメデ、ト」
だけどボクはそんな気持ちにはどうしてもなれず、すっかり痩せ細った堀ちゃんを、彼女が携帯電話を眺めるのとおんなじように濁って虚ろな目で見ていました。頭の中ではだいだい色の帰り道が浮かんでいましたが。

 その頃の堀ちゃんといえば「私は長生きできないわ」というのが口癖でした。
ボクはもうその口癖に真剣に付き合うことにも疲れ果て、「かなしいこと言わないで」という言葉を、ツーカーの要領で返すばかりです。

 ボクたちはそれから、窓の外の雪を見ながらカップラーメンを食べました。堀ちゃんは半分も食べられなくって、途中からはただ雪見をしていました。
 雪はいまだ、「オメデ、ト」「オメデ、ト」と言っています。
 ボクはだからむしょうに腹が立ってしまいました。カップラーメンだって、しょうゆ味を食べていたはずなのに、いつのまにか無性にしょっぱくてかなわないのです。
「泣いてるの?」
顔を上げると体育座りの堀ちゃんが顔だけこちらに向けてボクを見ていました。
「泣いてないよ」ボクは答えました。
表情を変えずに「そう」と残して堀ちゃんはまた窓の外に目をやりました。
ボクは気持ち悪いと思いました。
堀ちゃんが残したラーメンの麺が、スープを吸ってカップからはみ出すほどふくれていたのです。
ボクは黙って、それを見ていました。


3.
 堀ちゃんはそれからさらにやせ細って、今ではもうどうして生きていらてれるのか分からないほど骨と皮ばかりになってしまいました。
口癖は「殺して」に変わっていました。

 夏の午後、ボクたちは家の近くのかき氷屋さんに座っていました。
テーブルには、雪みたく氷が積もったガラスの器が二つ置かれています。
堀ちゃんはそれに口をつけず、ワンピースから伸びた自分の両膝をうなだれるように眺めていました。ボクはかき氷を食べるタイミングをはかっていました。いつものことでしたが、ボクたちに会話はありませんでした。アルバイトの時間が迫っていました。
 店の窓の外から射す太陽の光が、うつむいている堀ちゃんに当たりました。堀ちゃんの髪の毛がそれを反射してきらきら光りました。
ボクはそれを黙って見ていました。
 近所の学校のチャイムが聞こえました。
懐かしいと思いました。

 「みせて」と堀ちゃんがボクの手から詩集を取って、階段の踊り場でぺらぺらページをめくりました。
 夕陽が堀ちゃんの輪郭を染め上げていました。
それをボクは素直にきれいだと思ったし、詩集なんか借りたことがやっぱり恥ずかしいことに思えました。


4.
 かき氷屋の現在からあと三年ののちに、堀ちゃんは死んでしまうことになります。
だからこれから書くのはかき氷屋にいるボクがまだ知らない、未来のことです。
 堀ちゃんが死んでしまう前の晩、ボクと堀ちゃんは布団に入っていました。
その頃には、堀ちゃんはもう殆ど口をきかなくなっています。

 ふいに、グーッと堀ちゃんのおなかが鳴りました。ボクは泣いてしまいました。ボクは嬉しくて嬉しくて。
「なにか食べようよ」
堀ちゃんは口を開きません。
「いいかげん痩せすぎだよ」
堀ちゃんは口を開きません。
「ボク、なんでも作るから」
堀ちゃんは口を開きません。
「なにか買ってくるでもいいよ」
堀ちゃんは口を開きません。
「どこか食べに行くんでもいい」
堀ちゃんは口を開きません。
「食べたいものなんでも言ってよ」
堀ちゃんは口を開きません。
「お願いだよ。本当に死んじゃうよ」
堀ちゃんは口を開きません。
「死なないで」
堀ちゃんが口を開きました。
「わたしの身体をなめ回しては「愛してる」なんて簡単にいえた頃が懐かしいでしょう」
なんでそんなことを言うんだろう、そう思いました。だけどボクは黙っていました。

しゅんかん、
ボクの脳みそがボクを逃がすように、いつかの日曜日の光景を見せてくれました。
 それは今から二年後にやってくる、冬の日の日曜日のことです。

ボクたちは別々に買った同じマフラーをしていたし、一緒に買った別のコートを着ていた
おそろいの百均の手袋をしていたし、その手をつないでいた
堀ちゃんのほっぺたはめずらしく紅くて、ボクはいつでも血色が悪い

「さむいね」
「ねずみ」
「みみずく」
「くるま」
「まふらー」
「らーゆ」

今なら目でピーナッツだって噛める
逆立ちして町内一周だってできる
逆さになっても日曜日
逆さにされても日曜日
逆さにされても大丈夫

そう思えた
本当にあった 本当の話だ


そんな嬉しい日が二年後に来て、
そんな悲しい日が三年後に待っています。


5.
 三年後の三日後に、煙となって空に溶けていく堀ちゃんをボクは見上げることになります。
 空は青色をすこしずつ失っていって、次第にだいだい色へと変わっていきます。
 何時間も経っていました。
ボクはいいかげん帰ることにしました。
ボクたちのふるさとの道だけは、未だに田んぼ道でした。
チャイムの音がします。五時です。

「みせて」と堀ちゃんがボクの手から詩集を取って、階段の踊り場でぺらぺらページをめくります。夕陽が堀ちゃんの輪郭を染め上げています。

「ミュン あの空を飛ぶ燕はなぜはやい
 翼が夕陽に燃えているのか

 ミュン 夜から逃げる燕はなぜ急ぐ
 過ぎた日を取り戻さんとなきながら

 ミュン わたしはおまえが逆さになっても
 きっとおまえとわかるだろう

 ミュン わたしはおまえに逆さにされても
 きっとおまえを信じるだろう

 ミュン うしろむきに歩いてごらん
 燃える燕に追いつくだろう

 ミュン おまえが私を見失っても
 すべての季節できみに手を振る」


 どこからか、シーアンドケイクの「パラソル」がきこえていました。
ボクはずっと黙っていました。

 ふと、足元に涙が落ちました。
ボクは言います。
「これからもきみのこと思っていい?」

おもいでの中の帰り道は、だいだい色の田んぼ道です。困ったようなさみしいような声が、その田んぼの道できこえました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?