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橋本環奈ちゃん、失恋する!

 もういくつのお別れがあったことでしょう。わたしは1、2、3、4と「9」までの数字を覚えた時に、とにかく何でもいいから数えたくって、それで──それでというわけでもないんですけど、自分の身近で死人が出たらその都度指折りしようと心に決めました。
 そうは言っても思いついた勢いそのまま「一、二!」と数えた幼稚園の園長先生と近所で「全滅のオジキ」と呼ばれていた昼日中でもお構いなしにわたしたちが遊んでいる公園に時々やってきて砂場の蟻穴に二リットルペットボトルの水を全部注ぐおじさんの分の二本指だけが、文字通り屍が積み重なっているみたいに折り曲げられていました。長いこと。

 中学生になってから、わたしはようやく三人目を数えることになります。
 それは同じクラスの梓でした。同じクラスと言っても仲良しというほどではなかったけれど、小学生の時に何回か家に行ったこともあったから、わたしは梓を“身近”にカウントしました。いつ見ても重ねた腕を枕にした昼寝姿がのしかかっていた梓の机はインフルエンザにかかってしまいましたとの先生のアナウンス付きの欠席その翌日から一週間、棄てられたみたいにぽっかり空いて、そのあと前の主よりもずっとずっと軽い花瓶が置かれることになりました。
 梓のお葬式で富山くんが泣いているのを見ました。それはクラスの女子たちが聞こえよがしにやっている“泣き”とは別の種類の、なんていうかそう、落涙の連続とでもいうような、とてもしんけんなもので、気をそらすためにお風呂で時々天井から冷たい水が落ちてきて湯船に跳ねるのを思い出しました。だけどそんな現実逃避も許されないくらい彼の流す一粒一粒の涙はきれいで、だからわたしはお焼香も済んでないのにもう帰りたくなってしまいました。
 リボンをかけられ引き伸ばされた梓の写真は学生証において誰もがそうであるように別にかわいくなく、澄ましていて、少し幼い顔をしていました。そういったこともなぜかわたしの気持ちを逆撫でました。昨日テレビで見た橋本環奈ちゃんの顔を頭に浮かべました。いつか、図書室の隅で富山くんと泉岳寺くんと村井がこっそり芸能雑誌を広げながら「芸能人で誰が好き?」みたいな話をしていた時、ちょうど富山くんが真剣な顔して「橋本環奈ちゃんと付き合おうと思ってる」と言った瞬間に傍を通り過ぎたことも関係あるかもしれません。ともあれ昨日のテレビ番組への集中力に準して解像度の低い橋本環奈ちゃんの方が、いま目の前にくっきりと映る梓よりうんと可愛いと思いました。橋本環奈ちゃんが死んで泣くのならわたしもこんな気持ちにはならなかったはずです。きっと橋本環奈ちゃんは学生証の写真もばっちり可愛いことでしょう。
 お葬式の後、がっくりと落ちた富山くんの肩が震えながら家路へ向かうのが、その向こう側で落ちる夕日に染められているのを見て、わたしは足元の小石を拾って彼に投げつけてみました。小石は真っ黒なシルエットの中にしゅっと溶けましたが、リュックサックにぶつかる音で命中を果たしたことがわかりました。
 ビクッと一度大きく震えたシルエットは、ややあってからゆったりと形を変えて、それから「長宗我部さん」と、わたしの名前を呼びました。そこには幾らかの安堵と、そしてわずかながらも確かな落胆が伺え、だから、わたしは、そんな、そんなのは予想していたことではあったのだけども、だけどもお葬式の時よりもかっちりとムカついて、ムカつきはお餅みたいに一瞬で膨らんで、それで、それで、富山くんに走り寄って、思い切り腹を蹴りました。
 「あぶっ」とうめいて富山くんは膝から崩れ落ちました。富山くんのつむじが見えます。二つあるじゃん、と思いました。富山くんってつむじが二つあるタイプなんだ。
 「富山くん」とわたしは右のつむじに話しかけ、応答を待たずに「富山くんって童貞でしょ」と続けました。
 「童貞です」と、左のつむじが答えました。
 しょうもな!!!!!!!!とわたしはそのように思い、そのように言いました。すると富山くんは立ち上がって、涙を溜めた目でわたしを見据えて「じゃあ長曾我部さんはもう経験済みっかい!?」と怒鳴りました。
「俺は、ちゃんと愛した人と初体験をしたいんだっ!」
「それって梓?」
「……そうだよ」
「死んだじゃん」
「何でそんなこと言うんだ!どういう気持ちでそういうことが言えるんだ!」
「じゃあ富山くんは一生童貞なの?貫くの?富山くんってたとえば夜寝るときにめちゃくちゃビッグマックが食べたくなって、明日の朝は家で食べずに駅の近くのマックでビッグマック買って食べようって思って眠って、ビッグマックの夢を見て、朝はいつもよりちょっと早く起きちゃって、朝練があるからとかなんとかてきとうなこと言って家を出て、もうマックへの道中ビッグマックのことばっかり考えちゃって、いよいよマクドナルドに着いて息切らしながらビッグマックくださいって言った時に、でもさ、それって朝だから、六時半とかだから、富山くんはビッグマックそのもののことだけ考えすぎてて忘れていたんだけどビッグマックって十時半からのメニューだから、だからありませんって店員さんに頭下げられて、ガーンってなってめちゃくちゃな虚脱の中そこでようやく自分が空腹なことに気づいたら、そしたらどうする?」
「はあ……?」
「どうするって訊いてるの」
「朝マック食べるよ。エッグマフィンとか」
「そうだよね。十時半まで待たないよね。学校あるしさ。でもそれって富山くん、矛盾してるよ」
「どこが?」
「どこがって何?わたしは今、君がそのキモい脳をキモい具合で浸してるロマンチシズムという風呂について、肩まで浸かってないくせに偉そうにこれは滋養強壮に効くんだよとかちゃんと百まで数えないと芯まであったまらないんだよとか講釈垂れんなってことを教えてあげてるんだよ。それでもまだ君は、“どこが?“って、何だよ“どこが?”って?わかんないのやばいでしょ。富山くんと同じ中学なのめちゃくちゃ情けないんだけど。三年間もおんなじような空気を吸っててなんにも感じなかったとかそういう事実に吐き気を覚えるくらいむかむかするんだけど!」
 と、わたしはここまで一息で言って、「喉から胸にかけて」とつけ加えました。
「長曾我部さんが言ってること、おれ全然わからないけど……吐き気だったら胸から喉にかけてじゃないかな。逆流するものなんだからさ。そういう迂闊さが君が馬鹿にしてるおれと同程度の中学に通っている証拠だよ。わかったら、もう本当、そっとしといてくれないかな」
「しといてあげないよ、馬鹿、そんなことでひるむと思ってんのか、揚げ足とってやり返したつもりになるな馬鹿、そんなところは本題じゃないってわかるだろわかんないのか、マジで、あんたのしなびた態度ってさ梓を悼むポーズをしながらその実、梓とチョメチョメしたかったって思ってるだけなんだよ。だけに見えるんだよ。だってさあんたはまるで自分は一生童貞を貫くみたいな発言をしながらビッグマックが買えなくてもお腹が空いてたらエッグマフィンを食べてお腹いっぱいになるわけじゃん。わかる?わかんない?恋のマクドナルド阿佐ヶ谷北店の話をしているんだよこっちはよ」
 富山くんはここまで言っても尚キョトンとした顔をしていました。阿佐ヶ谷北店?とだけ呟いたその目は赤く腫れたままでした。だからわたしはまたキレて、「もういいや」と言いながら富山くんの胸ぐらを掴んで彼の唇に自分のを乱暴に押し付けました。富山くんの歯が当たってわたしの唇はちょっと切れて、血が滲みます。
「何するんだよ!」と慌てて富山くんは袖で自分の口を拭ってから「えっ、血!」とわたしの口元を見て改めて慌てました。
 そうだよわたしにはさ、まだこうやって血が流れているんだよ。悲しいんか何だか知らんけど、あんたが恋した梓は別にかわいくない写真になって、ここにはもういないんだ。そしてあんたに恋するわたしはこうしてまだここにいるんだよ。どんだけ馬鹿でもそのことはわかるでしょ?だからさっき、泣いてたんでしょう?あーあー、わたしはね、わたしが死ねばよかったって心からそう思うよ。だってそうしたらあんたはもしかしたら梓とさっきみたいな汚いキスじゃなく、二人でマジに肩まで浸かった温かいキスができたかもしれないし、わたしのお葬式では軽薄なあんたなら、もしかしたら、もしかしたら、梓と同じとは言わないまでも泣いてくれたかもしれないじゃんか。わたしが前の晩から夢見ていたものはきっと、ビッグマックでもなくビッグマックの代わりのエッグマフィンなんかでもなく、あんたが無事にビッグマックを食べたい時に食べながらも何となくで選んだセットのポテトMサイズなんだ。そっちも残さず食べてくれたら、それだけでよかったんだよ。

 これで拭きなよ、と差し出してくれた富山くんのポケットティッシュで血を拭っていると、富山くんの下半身が盛り上がっているのが目に入りました。
 わたしたちはそれから、連れ立ってラブホテルに入って、二人で、富山くんが本当にしょうもない人間だったということの証明作業を行なったのです。

 これで拭きなよ、と富山くんはわたしの股から流れる血を見ながら備え付けのボックスティッシュをわたしに手渡し、それからわたしに見えないようにしてため息をつきました。表情は見えなくても何かを成し遂げた者特有の自信が噴き出た類のため息であることがわかりました。
 わたしが血を拭っている間、手持ち無沙汰になった富山くんがテレビをつけると、恋愛バラエティーがやっていました。
「あっ橋本環奈だ」と富山くんが呼び捨てにつぶやきます。新ドラマの番宣に、橋本環奈ちゃんがゲスト出演していました。もう血は拭き取り終えてしまいましたが、わたしは富山くんの方を見ませんでした。部屋の隅に梓が立っていたのです。
 梓は、あの写真の彼女ではなく、先週までの姿をしていました。彼女もまた、富山くんではなく、わたしを見ていました。何を言うでもありませんでしたが、その表情には嘲りの色が浮かんでいるようにわたしには思えました。ふと、梓が顎でベッドの方を見るように促したのでしたがって見やると、シーツには血が赤く滲んでいます。
 わたしはなるほどと思いました。それで左手を出して、三本指を折り曲げたのちに、薬指を曲げました。だってあんなに出血した人間が、無事に生きているとはとても思えませんから。梓が見えているということもそういうことなのでしょう。
「橋本環奈ってバラエティーで見るとあんまだよなあ」とどこか遠くで富山くんが笑う声が聞こえました。ついでだと思ってわたしは小指まで折りたたんで、ちょうどいいやと思ってそのまま富山くんを殴りました。
「あぶっ」とうめいて富山くんが体を折りたたみます。わたしのパンチには人を殺すくらいの力がありますから、きっと富山くんも死ぬことでしょう。
 すっかり折りたたみ終えた左手の中指を立ててわたしは「六」を数えました。涙を流すものは誰もおらず、テレビ画面の中で橋本環奈ちゃんが手を叩いて笑っています。
 強い女だ、とわたしは思いました。ああでなくては芸能界は生き残れないのでしょう。

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