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 レミングフラワーという花がある。
俺がいつだったか恋人と松並の丘を散歩しているときに咲いていた。恋人が「レミングフラワーが咲いているぞな」と言って笑った。だから憶えている。

 レミングフラワーは鳥媒花である。
 彼らの特徴は渡り鳥を媒介にして受粉を行った後、葉が特殊な成分を分泌することにある。特殊な成分とは毒である。毒は茎を経由して根に届き、根元から死ぬ。世にも珍しい、自殺する花なのだ。渡り鳥を媒介する花のため、レミングフラワーがある場所に咲いているのは一代限りとなる。
レミングフラワーが今日広く知られているのは映画「死に征く花」がヒットしたからであるが、とはいえ、俺も見るのはそのときが初めてであった。恋人もそうであるという。
「レミングフラワーを見ると自殺しちゃうっていうぞな。」
「映画の話だろ。」
そんな会話をした記憶がある。しかして俺はその後現在まで、自殺に至ることはなかった。

 午後の夏は台風一過でめずらしく涼しかった。俺は白いシャツに黒い木綿のズボンを履いて釣り堀へ行った。人工釣り堀なんてどうやったって何か釣れそうなものだが、四時間垂らして何も釣れなかった。腹が立った俺は釣り堀を出て、自販機でビ~ルを一缶買って500を一息に注入した。
「なーんもねえ。なーんもね。なぁーんもねえ。ばっかりだよ。」などとひとりごち、市ヶ谷の群像をにらみまくる。
 ふと、雑居ビルの路地裏でなにかの影が跳ねているのを目の端に感じた。おやと見てみると、一頭の鯱だった。泣いていた。
「おんお、おんお。」
「そんなところでなんで泣いているんだ」と俺が話しかけると鯱は「おんお」と泣きながらも「ひれは水を掻くものであります。」と言った。
それはそうだが問答になっていない。物珍しいので家に連れて帰った。

 鯱は思ったより大きかった。ビル影に黒い模様が溶けて大きさが分からなかったのだろうか。俺の家には風呂がないのでしかたなく巨大な水槽をひとつ買い、そこに水を汲んで鯱を入れた。
 なにを尋ねてももう鯱は喋らなかった。翌日になっても鯱は喋らなかった。
 俺は一日中鯱を眺めた。さらに明けても、鯱は喋らない。
 俺は何度か、「なぜあんなところにいたんだね?」と尋ねた。鯱は何も喋らなかった。
 鯱はほ乳類なのでまぶたを閉じて夜眠る。俺は窓から射す夜の光で水槽が青っ白(ちろ)く光るのを眺めた。鯱は青っ白い中で動かない。あぶくだけが静かに吐き出されている。恋人の寝ているところを思い出した。下神明のアパートの彼女の家に泊まるとき、俺の眼前で上下する背中もまた、青っ白い光のなかにいた。彼女は一度眠ると深く、揺すってみても反応しない。そういう時間が流れて、経って、俺たちは別れて、そこからまた時間が経って、彼女が死んでしまったと聞いたときも、反応しない背中の映像が一番最初に頭に浮かんだ。

 家に来て一週間が経った頃に鯱は死んだ。
 俺は屍体を三日眺めてから、元いた路地裏に戻しに行った。夏の市ヶ谷は蒸していた。鯱がいた場所にさしかかると、涼しいからか、植物が群生しているのが目に入った。鯱を拾ったときには気づかなかったが、あの日も生えていたのだろうか。俺は屍体を横たえ、あの日のように自販機でビ~ルを一本買って、一口で飲んで、帰った。

 部屋の水槽は水が抜かれ空になっている。それはなーんも、なんも、なんもである。水槽も結局鯱を生かすことにはならなかったと思うと泣きそうになったが、こらえた。この大きなフレームは俺の比喩だ。
「想像できないことは起きない」と、最期にあった日に彼女が言っていたことを思い出した。思い出したが、理由はわからないし関連しない。

 夏の日陰に揺れるさっきの花の名前を俺は知っていた。ほかのことは何もわからない。俺は、なーんも、なんも、なんも知らない。

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