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アフリカゾウ、阿佐ヶ谷で死す

 新年のおめでたいムードも落ち着いて、そろそろ意識をまわさずとも今年の西暦が体になじんできた頃、一月の終わり、十三時。お天気は晴れ。
 愚樹谷舞(ぐじゅたにマイ)と恋人の点点崎高仁(てんてんざきタカヒト)は新宿のラブホテルでほぼ同時に目を覚ました。昨晩使ったピンクローターと牛乳と人参を律儀に片付けようとする舞に高仁は「そんなことしなくっても、片付けとかは俺らが出た後でやってくれるんだよ」と声をかけた。
「そうかもしれないけど、やっぱ、悪いでしょ。こんなに牛乳も飛び散らかしちゃってるわけだし。」
 バスタオルで牛乳を拭きながら舞は答えた。何も身につけていない舞のネイキッドな尻がこちらに向けられ、高仁は口の中で小さく舌打ちをする。
「きたねぇな。」

 舞と高仁は交際三年と一ヶ月だった。三年とひと月前のクリスマスに、高仁が舞に告白して、二人は付き合い始めたのだ。
 舞は高仁より二つ年下であり、まだ大学生である。自身が学生だった頃には気付かなかったが、社会人になって毎日丸ノ内OLを目にするようになると、舞の考えの幼さにもどかしくなることがままあると高仁は思っていた。しかし覚えることと失敗することでいっぱいいっぱいの生活その合間に合コンだなんだをやっている余裕は当面なく、お金をかけずに性欲をぶちまける場所がとりあえずで確保されているのはありがたいことだしな、という思いもあって、別れたり距離を置いたりという選択肢は高仁の中から外されていた。

「ねぇこのあと、ビックロ行こうよ。」
 帰り支度をしながら舞が言った。こういうところがイヤなんだよなと高仁は思った。舞が電化製品を買うわけがない。ビックロには服を買いに行くのだろう。服をビックロで買うなんて。俺は社会人だぞ。バイトとは違うんだぞ。
そう思いながらも「いいけど」と返す高仁。昨晩、ムラついてバイトで疲れている舞を無理矢理ラブホテルに連れ込んでしまった負い目もあるし、ここは従っとくのが◎だと知っているから。しかしマジでめんどくせぇな。帰ってもう寝たい。明日仕事だし。あぁ、マジでめんどくせ。

 冬晴れの下を寄り添って歩き、日曜の人混みあふれかえるビックロにたどり着いたのは、冬には日の傾く十五時になろうかという頃だった。ホテルを出てビックロに向かう途中で高仁が一度アフリカゾウになってしまって元の姿に戻るのを待っていたことが主な理由である。高仁は時々アフリカゾウに姿を変えてしまう体質だった。
「でも、今日はわりかしすぐ戻れて良かったよね。」
「まぁ、外だったからまだよかったかなぁ。」
 そんな会話をしながら二人はエスカレーターに乗り、2階の女性服売り場を歩いた。  
 パステルカラーのダウンジャケットやセーターを見ながらうろうろしている舞の横をぼんやりついていく高仁。本当にどれも大した値段しないな。何を悩んでるんだ。どれ買ったって同じだろ。でも待てよ。じゃあどれを選んだって安物を身につけることになる女が俺の彼女なのか。それでいいのか?あんなに苦労して大企業のサラリーマンになったのに。何の為の圧迫面接だったんだ。大企業のサラリーマンってもっとこう、タレントとかと付き合えるんじゃないのか?
 10分ほど店内をうろついたあと、レジに並ぶ舞の手には3足980円の靴下だけが握られていた。それを眺めながら高仁は思った。別れよう。

 舞をレジに残しエスカレーターを下る。
 もう連絡しないようにしよう。
 LINEとか電話も無視しよう。別れようぜとかも言わないで、なんかこう、距離を置いてるだけみたいな感じにしよう。あっちが自分の行動に何かあったと考えさせる感じにしよう。都合よく解釈してくれるに決まってる、いつだってそうだったし。完全に縁を切っちゃうともうヤれないもんな。どうしょもなくヤりたい時だけ連絡すればいいや。
 舞は俺の家を知らない。教えていないから。だから家に来られることもない。よしよし。そういうのが現代な恋人の関係だってan.anとかに書いてあったってあとで言えば舞も納得するだろう。女子大生の思考なんてそんな感じだろう。

 ビックロを出て、新宿駅から中央線に乗り、自宅のある阿佐ヶ谷で降りた。その間、なんどもなんども携帯が鳴ったが、高仁は全部無視した。明日は仕事だ。アパートに戻って水を一杯あおってのち、彼はベッドに倒れこむように寝た。

 目覚めると高仁はアフリカゾウになっていた。こういうことは今まで何度かあったし、そこまで慌てることはなかった。ベッドも耐強性で選んだから壊れたりはしない。鼻をチョイと動かして時計を取って見ると夜の八時だった。もう一度眠ろう、そう思うまでもなく高仁はまた眠りについた。
 彼が窓から差し込む光に起こされたのはそれから十二時間後。月曜の朝八時。いつもより寝すぎだと思いつつ、しかし急げば始業には余裕で間に合うなと瞬時に判断し体を動かそうとした高仁は自分の体の異変に気付いた。彼の姿は依然としてアフリカゾウのままだった。昨日眠った後一度戻って目覚める前にまたアフリカゾウになったのだろうか?それとも、昨日の夜からずっとアフリカゾウなのだろうか?そんなに長い時間アフリカゾウだったことは今までない。カフカの小説かよ。
 とりあえず会社に連絡しなければと思ったが、アフリカゾウの前足では携帯を操作することはできないし、そもそもこの姿では人語が話せない。仕方ない。明日出社してから事情を話そう。高仁はそう思った。
 しかし、翌日になっても、三日経っても、一週間経っても、高仁の姿はアフリカゾウのままだった。当たり前のことだが、アフリカゾウの姿になるとき、高仁の脳はアフリカゾウのサイズになる。いつもは変身時間が短いため人間時の記憶の残滓やらなんやら物語に都合のいい設定のおかげでなんとか考えることが出来ていたが、長いあいだアフリカゾウサイズの脳でいた高仁は、人間レベルでモノを考えることがほとんど出来なくなりつつあった。そして一週間なにも口にしていない彼の身体は、間も無く死ぬというところまで衰弱していた。
 薄れゆく意識の中で高仁は思った。
「まい」
 名前以上の文章めいたことは考えられなかった。ふた文字だけが頭に浮かんでやがて消えた。
 数時間ののち、ベッドに横たわったままアフリカゾウは完全に死んだ。

 阿佐ヶ谷のアパートでアフリカゾウの屍体が見つかったというニュースは大きく取り上げられ、世間はしばらくの間その謎に熱狂した。
 舞ただ一人だけがそのニュースの意味を理解することができた。しかし彼女がそのニュースを知ってどんなことを思ったのか、とかは私は知りません。

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