キクチホナミVS JUDY AND MARY


 1998年師走の話。
 排気口(劇団の名前)の菊地穂波さんから連絡が来た。手紙で。

「ゴテンバサノバザール、参加者増えていますか?よかったら、12月26日にツイキャスやるんですがそこでゴテンバサノバザールの告知しますよ。」

【ゴテンバサノバザール】というのは私が23年後つまり2021年の5月にその第二回の参加者を募ることになる朗読配信企画である。
私が手紙を受け取ったその日のうちに、「’98年12月26日・夜、ツイキャスを行います」という文言が排気口のTwitterで告知された。
私は友人である菊地穂波さんのご厚意をとてもとても嬉しく思ったのだが、程なくして大変なことを思い出した。
12月26日その日は、JUDY AND MARYのワンマンライブコンサートを観に行く予定が入っていたのだ。しかも初めての東京ドームライブである。
もちろん排気口のツイキャスも聞き逃すわけにはいかないが、JAMのワンマンライブだって聴き逃すわけにはいかなかった。
体が二つあったら良いのにとこんなにも思ったことはない。
私は意を決した。菊地穂波さんとJAMの双方に「あなただけを選んであげられなくてごめんなさい」と赦しを胸の内で乞いながら、iPhoneに挿した片耳イヤホンで排気口ツイキャスを聴きながら、もう片方の耳でJAMのライブを聴くことにしたのだ。

東京ドームはごった返していた。解散の噂が囁かれるJUDY AND MARYの、もしかしたら最後になるかもしれないワンマンライブをひとときたりとも見逃すまい聴き逃すまいと、そこに集まった44982人の全員が目を血走らせていた。イヤフォンを片耳に挿している私も、イヤフォンを片耳に挿してはいるんだけども、それでも同じく目を赤くしていた。
客電が落ちた。OVERTUREが流れる。歓声。
そして、排気口ツイキャスもまた、始まった。

 えーっと、皆さんいかがお過ごしですか、緊急事態宣言下です。
今日のツイキャスは配信形式ラジオドラマ企画「ゴテンバサノバザール」っていう、友達の志水あみさんの企画の宣伝です。僕らの宣伝はないっす。
この「ゴテンバサノバザール」は第二回らしいんですけど、簡単にいうと志水さんが書いた五つのテキストを役者の人たちが演技朗読をして志水さんに送ると。こういう機会はそうそう無いですよ。送った作品はちゃんと公開されるから、主観的なもので終わるのではなくて客観的なものになる。その上でテキストが面白いですよと。みなさん是非応募してほしい。録音環境なんて、本格的にやっても良いしiPhoneのボイスメモで録ってもいいし、自分で演出して何かひとつ作品を作るって役者はけっこう貴重な機会なので、緊急事態宣言で演劇が奪われたというくらいなら、役者さんって血気盛んな方が多いんですから、こういう機会で爪を研がないとだめですよ。

「ハロー東京ドーム、元気でしたか?えー今日は約50000人 えーまあ 僕らは8000人以上は「いっぱい」と呼んでいるんだけども」

今、サーー50000人引いたね、サーーってね、いいね いいよ

「えー今日は、色々過去最多の曲数をやるんで えー解散はしませんが、あのー、解散ライブくらいの勢いで盛り上がってください よろしく」

 三谷幸喜「ラヂオの時間」という作品がありますけれども、その台詞で「ラジオドラマはここが宇宙だと言えば宇宙になるんだ」ってのがあるように、言葉ひとつひとつによってものすごくクリアに言葉が立ち上がる。けれども、容易に想像力が立ち上がるからこそ、実はそれを持久させることに非常に技術が要る。それはテキストのレベルに於いてもそうだけれども演技のレベルに於いてもそう。今回志水さんの五つのテキストはクリアしていると思うので、あとは参加者の人たちがどう演技をしていくかというのが非常に面白い企画。

サンキュー!
改めましてこんばんはJUDY AND MARYです!
こっからだとものすごい人になってるんですが、とりあえず、3階見えるかあー!?
良いね かなりのこう時間の差があるけど確実に届いてるよ君たちの声は
最高だぜ3階!
はいはいはいはい
そして?そしてあそこにいるのは2階だな 2階元気かー!?
おしゃおしゃ あれ?聴こえてんのかなあこれえ
そして一階!いえいいえイエイ胃腸の調子は良いですかー!?
胃腸の調子は良いですね?よかったよかった
そして アリーナ元気かー!?
 
 でねえ、えーと、もう一つは、「ラジオドラマ」というかたち。自分の声だけ、つまり身体というものがなかったときに、その身体を想像させないといけないわけですね聴いている人に。だからそういう普段できないような演技の体験、普段しないような考え方で演技をできるっていう良い機会でもあるような気がしますね。優れたテキストを声に出すっていうのは、これはとっても素敵な体験なんですよ。優れたテキストに如何に触れるのかっていうのは実は役者の経験値っていうかさ、強ぇえポケモンを捕まえるみたいなものなんですよ。で、そのテキストに遭った時には「読解」っていうものが必要になってくる。それが非常に経験値になるっていうことですね。それでいうならば今回の「ゴテンバサノバザール」っていうのは五本テキストがあって任意の作品を選べる。これ、どれも非常に優れたテキストなんですよ。でねえ、これが無料ってのは、これ金をとってもいいんじゃないかと思うんですけど。

みんな元気ー?
なんかさあ 来年はさあ1999年とかで、そう、うさぎだね 世紀末とか、なんだっけなあ、世紀末とか色々言われてるけど。
ノストラダムスとか信じる奴はバカだよなあ?
とりあえず私が一旦ここでノストラダムスを呼び出して説教してやるからさ
とりあえず そんなもん信じるんだったら音楽信じろよって感じだよ
まあこっから後半みんなついてきて OK?

 さて、たとえばですね、どこに優れたものがあるかっていうと。僕のイチオシの「神様」っていうテキスト

冒頭はこんな風になっています。
「トンネルを抜けるとそこはあるぴの市だった」これは川端康成のオマージュですけども、次なんです。
「私は今日も今日とてって感じで、学校帰りに自転車すいーっと走らせて、」っていう。
このリズムみたいなものっていうのは非常に難易度が高いんですよ。これ是非皆さん声に出してみて下さい。結構難しい。
ここ「今日も今日“とて“、学校帰りに自転車“を“すいーっと走らせて」だったらまだイケるんです。
しかし「今日も今日とて“って感じで“、学校帰りに“自転車すいーっと“走らせて」、分かりますかこの違い。このリズムって難しいんですよ。
で、ここに役者の人たちっていうのはコレも演技に入れなきゃいけない。つまり、ただ読んでただけじゃ「情報」しか伝わらないわけですね。
「はいはい私が学校帰りに自転車を走らせているんだね」と。
しかし、しかしなんですよ、この「今日も今日とてって感じ」だったり、「自転車すいーっと」を、声ひとつで役者は情報以上の「情景」ってものに持ち上げていかなきゃいけない。
次の文章。
「iPodナノでパフィーを聴きながら十メートルくらいのしょぼくれたトンネルを抜けた。」
テキストだと、この「トンネル」ってのが冒頭の「トンネル」に掛かってるのが分かるんですけども、ここで難しいのが「しょぼくれたトンネル」ですね。つまり「しょぼくれたトンネルを抜けた」っていうのと「自転車すいーっと走らせ」て「しょぼくれたトンネルを抜け」るってのはこれどういうことなのかっていうのを役者の人たちってのはテキストを読みながら考えていく。言わなくても分かってるよという方は申し訳ない。
戯曲の体をなしてないから、会話じゃないところもひとつひとつどうやって演技として表していけばいいのか?っていうのを試行錯誤するのは経験値として良いんじゃないかなって思うし、それを踏まえた上でテキストを読むととってもとっても素敵な関わり方になってくる、それまで以上に演劇ってものに素敵に関われるようになれるんじゃないかなとね僕は思っているんです。

どうもありがとう。
このクソ忙しい、そしてワタワタしてるこの年末に来てくれてほんとありがとな。
こんな時にみんなといれてよかったよありがとう
なんか、なんかねー、ちょっと忘れられない日になりそうです どうもありがとう最後の曲です。

 このテキストは非常に難しいです。
テキストとしては非常に優れているんだけども、たとえばですね「トンネルを抜けるとそこはあるぴの市だった」のあと、二段落目
「トンネルを抜けてここからはゆるやかな坂です」って、「です」って変わるでしょ。「だった」から「です」に言い方が変わる。そのあとに「坂はゆるやかだろうが何だろうが毎度さしかかるたびにちょっとめんどくさいと思っちゃう。”地形”ってたまにむかつくよね。まあ行くか、慣れたもんだわ、ソレ~。」とくる。
前の文章の硬さにくらべてすごく柔らかくなる。こういうのはすごく良いんです。
言及されるべき、ピントをあてるべきは「あるぴの市」なのか「ゆるやかな坂」なのか、どっちか分からない。けれども、「自転車すいーっと走らせて」のイメージだけは「ゆるやかだろうがなんだろうが」っていうところには掛かってきてるわけです。
「すいーっと走らせていられるからゆるやか」なのか、「ゆるやかだからすいーっと走らせられる」なのか、「すいーっと走らせてから、ゆるやか」なのか、どちらにせよイメージが多層的になっていくわけです。

だんだん不思議な夜が来てあたしは夢の中へ
だんだん不思議な夜が来てあなたと夢の中へ
堕ちてく天使は炎を見出してく
だんだん不思議な夜が来てあたしは夢の中へ
だんだん不思議な夜が来てあなたと夢の中へ
歌声は響く 凍える冬の空に
あなたと二人でこのまま消えてしまおう
今あなたとあなたの体に溶けてひとつに重なろう
ただあなたの温もりを肌で感じてる夜明け

それで、ここは志水さんの意地悪なところなんですけどね、
「ちなみに、トンネルを抜けるとそこはあるぴの市だったと言いましたがこれは今日国語の授業で川端康成の『雪国』をやったのでパクって言っただけで、トンネルの前もあるぴの市だったしトンネルの中もあるぴの市でした」
っていうね、非常に自己言及的なものになっていくわけです。
志水さんのテキストってのは基本的にこういった自己言及性ってものが常にあるわけです。ここは非常に良いところでありながらね、意地悪なんですよ。

今日汚れなき羊たちは命の水を注いで雪の中を彷徨ってる
だんだん不思議な夜が来て私は夢の中へ
あなたと二人でこのまま消えてしまおう
今あなたの体に溶けてひとつに重なろう
あなたと二人でこのまま消えてしまおう
今あなたの体にとけてひとつに重なろう
ただあなたの温もりを肌で感じてる夜明け

「とか、思いつつ。自転車カタン、カタンと」
このね「自転車カタンカタン」あるいはさっきの「自転車すいーっと」これは意外と良いアクセントになります。
これはなにを言ってるかというと、「自転車すいーっと」が「ゆるやかな坂」になって、「自転車カタン、カタン」で「よろよろ坂を下っていく」ってなる。坂を上り始めてからさんだん疲れてきたという時間経過みたいなものがわかるわけです。

えっと 色々な噂でご迷惑をおかけした、しましたが
はい?「入ってる?」何?「えー、色々、えー」入ってない「あっどうぞどうぞ」 もしもし 入ってましたね
えっと来年はですねJUDY AND MARY六枚めのアルバムに向けて準備に入ります
それで えっと メンバーそれぞれ あの創作活動にはいるのでJUDY AND MARYとしては来年は新曲が出せません
ので、ですが、えーっと、ものすごい良いのを作って帰ってくるので、それまで 待ってられたら待っててね

 ──っていうかんじで読む、ってのは僕が文章を書く側の人間だからこういう風に読んじゃう・読めちゃうっていうのがあるけど、役者の人たちは今度コレを演技に落とし込まないといけない。コレは難しいことですね。志水さんのテキストっていうのは、いい意味で癖があるんですよ。どういう癖かっていうと、なんていうかな、手触りがまあ非常に柔らかいって言うか、文章の感じがね非常に柔らかいんだけども、その柔らかさと逆に硬い部分があると。僕だったらその柔らかい部分のまんまずっと行っちゃったりするんだけども、志水さんのテキストはよくよく読んでみると柔らかい部分と硬い部分で明確な線を引けるみたいな感じがある。そこがやっぱり役者に対して求めているものの難易度の高さに表れてるんじゃないかと思ってて、だから役者の人たちはこの志水さんのテキストを読むと、実は演劇的なものではない、けれど極めて優れた想像力を持っているということが分かるのではないか。みんな読んでみて下さいと言いたい。


もっと遊んで 指を鳴らして
呼んでいる声がするわ
本当もウソも興味がないのヨ
指先からすり抜けてく
欲張りな笑い声も
ごちゃ混ぜにしたスープに溶かすから──


とか言ってしまいましたがね、この五つのテキストの中にね「排気口ワークショップ、前/後」というものがあって、これが非常に素晴らしかったので、ぜひみなさんに演じてもらいたいと。ぜひ僕を演じてほしい。あのテキスト、だって僕出てくるんだもん。みなさん僕を演じてくれ。自分の参加したワークショップの作演を演じるなんてそうそうないですよ。ほなちゃんを演じてほしいよ僕は。男の子でも女の子でもさ。

今、「Over Drive」歌ってくれてたの……?
そうだよな、聴こえたもんだって……じゃあ最後にアンコールやるかあ!
カモンTAKUYA!
(♪Over Drive)

帰り道、私は弛緩した頭でぼんやり考えていた。
穂波さんありがとう
JAMありがとう
YUKIじゃない私たちが歌った、ばらばらな声の「OverDrive」
23年後に控えた第二回ゴテンバサノバザール、どのくらいの人が参加してくれるんだろう。

↓ゴテンバサノバザール♯2 概要ページ↓


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?