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「反省する」というのは一体どういうことなのか、改めて考えてみたくなった。

思い返せば、これまで何度も「反省する」と口にしたけれど、それは本当に反省していたのか、そのうち何割が本当に反省されていたのかよくわからない。

「反省する」ことそのものの意味を問い、意義のある反省をしたいと思う出来事があり、考え直してみたくなった。
「反省する」ことを「反省する」ことにした。


生前の父は、問題が発覚するたびに、母に呼び付けられ、「何度言っても変わらない、いつも反省したふりばかり」と詰られていた。

落ち込んでいる様子の父は、「どうしたらいいのか自分でもわからない」という旨を、そのたびに怖ず怖ずと振り絞ながら語っていた。

僕にとっての反省のイメージはそれになっている。詰られて、落ち込む様子を見せる、一連の儀式。

情けないことに、僕自身もそれを繰り返している。

「反省」

ある辞書にはこう書いてある。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

内容自体には何の変哲もないものの、改めて読んで見ると味わい深いものがある。
「自分のよくなかった点を認めて、改めようと考えること」

味わい、などと口にすると「反省の色が見られない」と捉えられてしまうかもしれないけれど、「改めようと考えること」というフレーズの意味するところの幅や深さのようなものに、親しみや懐かしさ、救いを感じてしまう。

反省という行為の発端には、ネガティブな結果を引き起こした対象・相手が必ず存在していて、その対象・相手との関係が(信頼をともなって)続いていくためには、「改めようと考えること」の先に「改めること」がないといけない。

「反省する」ことそのものの意味は、「改めようと考えること」であって、その意味を広く取れば、「悪びれること」も「改めるための具体的な方法を考えること」も内包される。

場合によっては、悪びれないことそのものが罪であり、悪びれることそのものが贖罪になりうる。けれど、そんなケースは稀で、悪びれることで改めることを誤魔化してはいけない。


このnoteこそ、「悪びれること」そのものではあれど、「改めること」を怠らないような戒めでもあったのだと、振り返って思えるようにしたい。

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