私の生い立ちと澁澤塾コミュニティ
皆さん、こんにちは!
私は現在、一橋生80名のオンラインコミュニティを、リーダーとして運営しています。
そこでは月に一度、参加必須のZoom交流会が開催されるほか、各々の興味関心に応じて、「自主ゼミ」にふらっと参加することができます。(自分で開催することもできます。)また、長期インターンや就活、ボランティア活動などの様々な情報が、一橋生の間で共有される場になっています。
ここまで聞いて、皆さんは澁澤塾コミュニティにどのような印象を抱いたでしょうか。
「意識が高そう」ですか?
それとも、「意外と面白そう」ですか?
私は、大学入学時にこのコミュニティがあったとしても、おそらくその時には入っていなかったと思います。コミュニティを立ち上げた張本人なのですが(笑)
でも、大学生活で色々なことを経験し、考えをめぐらせる中で存在意義を強く感じたからこそ、私は今の澁澤塾コミュニティを立ち上げるに至りました。
そして、これは人に話したことがないのですが、私自身のバックグラウンド(育った家庭環境)も、コミュニティの立ち上げに深く影響を与えています。
そこで今回は、「なぜ、私がコミュニティを立ち上げたのか」という点について、自分自身の生い立ちの話も絡めながら、お話しさせていただこうと思います。
かなりプライベートかつセンシティブな話題なので、ここに書くかどうかをギリギリまで迷ったのですが、お伝えすることにします。それは、「プライベートな」話が多くの場合、社会的で普遍性のある話だからです。実際、私が生い立ちを通じて持ちはじめた問題意識は、社会学の勉強や、色んな人たちに出会うなかでの葛藤と、根っこのところで結びついていきました。
澁澤塾で私が立ち上げたコミュニティは、その結びつきの集大成、私が一橋生のみなさんに伝えたいメッセージの総体でもあります。
序盤から長くなりましたが、大事な話なので、ぜひお付き合いください。
身近にいつもあった「対立」
これは、現代哲学者である鷲田清一先生が『生きながらえる術』の中で、九鬼周造という日本の哲人について述べた一節です。偶然と必然、論理と実存など、「両立しがたいもの」の対立に、真正面から挑んだ哲学者の話なのですが、そこまで難解な話を理解できずとも、私にはこの一節がすっと腑に落ちていきました。私自身、幼少期から他者同士の間で、あるいは自分と身近な他者の間で、数えきれないほどの「対立」を目の当たりにしてきたからです。
単刀直入に言えば、私の育った家庭は、両親の喧嘩やモラハラ、そして子どもへの身体的・精神的暴力が横行する場所でした※。家庭しか帰る場所のない子どもにとって、毎晩のように繰り返される激しい対立や、自身に降りかかる暴力は、「生そのものへの脅威」といっても過言ではありません。中学に進級した頃から私は、何が根本的に両親を対立させているのか、入浴中に一人で考え込むことが、習慣になっていきました。(入浴中なのは、身体的に安全の確保できる時間だったからです。)
最も身近な、頼れる大人であるはずの両親が対立しているから、自分の頭で解決策を考えるしかない。私を思考に促した「対立」は、皮肉にも、まず家庭内に存在していたのでした。(ちなみに偶然か必然か、先述の九鬼周造も、両親の共存不能という過去を持っていたようです。)
暴力の本質は何か
それでは結局、何が私の両親を対立させ、何が親を、子どもへの暴力に至らせたのか。
私が、当事者として身を置きながら出した結論は、"自己の「正当性」への盲信"です。
自分の「正しさ」が、その人にとって自明である以上、相手が自分に怒りを向けてきても、「この人はなぜ怒っているのだろう」ではなく、「この人はなぜ私の言うことが理解できないんだろう」という問いに、勝手にすり替わってしまう。そこに、「自分に非があったかもしれない」可能性など、想定されていません。
これは一個人の体験談なので、やや想像しにくい話かもしれませんが、あなた自身が他者から受けたことのある理不尽な言動を思い出してみてください。あるいは、植民地支配の歴史や、性暴力の社会問題などを思い起こしてみてください。少しだけでも、この「プライベートな」話が、普遍性を持ってつながってきたのではないでしょうか?
出会いを選り好みしない
そろそろ、「なぜ私がコミュニティを立ち上げたのか」という点についてお話ししましょう。
それは究極的には、自己の価値観を相対化することの大切さを、できるだけ多くの人に体感して欲しいからです。そして、「他にこんな価値観もあることが分かったうえで、やっぱり自分はこの価値観が一番大事だと思う」という気づきを得てもらいたい。先ほどまで、「暴力の本質は、自己正当性への盲信である」というお話をしてきました。それと同じで、自分と相反する価値観に触れないまま醸成された信念ほど、傲慢で暴力的なものはないと、私は考えているのです。
しかし、どうすれば「価値観の相対化」をできるのか?
これは、とにかく多様な他者と対話をすることに尽きると思っています。この記事の冒頭で、コミュニティには参加必須のZoom交流会があるとお伝えしましたが、「選り好みせずに色んな人と対話して欲しい」という私の想いは、実はこの制度に集約されているのです。
当然、自分と違えば違うほど、その交流には抵抗感がつきまとうかもしれません。ですが、その経験には、普段通り"いつメン"と一緒にいるだけでは得られないような深い学びが、きっとあるはずです。
学びとワクワクを、
澁澤塾コミュニティとともに。
ここまで堅苦しい話が続きましたが、「色んな人と対話する」ということは、実はとてもワクワクすることでもあるんです!
澁澤塾のコミュニティは、一橋生であれば、学年・学部や所属団体を問わず、誰でも参加することができます。そのため所属メンバーも、体育会やサークル、長期インターン、留学、起業などバラエティに富んだ活動をしています。
月に一度の交流会では、80人の多様な一橋生とランダムに話すことができるため、価値観に限らず、大学生活や進路、そして学問の「いろいろ」を知ることができますよ!
気になる方は、この機会に所属してみてはいかがでしょうか?
次回、第二弾の記事にて、澁澤塾コミュニティの具体的な活動内容をご紹介します。
少しでも興味を持ってくださった方は、次回を楽しみにしていてください。
やや重い話も混ざりましたが、最後までご精読いただき、ありがとうございました!
いつでも、コミュニティでお待ちしております。
※これは私の家庭の一側面であり、両親にはそれぞれ感謝している点も山ほどあります。今回は文脈上、「対立」の部分に焦点を当てました。