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光を纏う部屋について

この言葉が適切かどうか分からないが、何故か惹きつけられる部屋のシーンがある。

ここでいう部屋というのは、不動産屋が賃貸を市場に出すための、4LDKといった記号化された、ドライな部屋をいうのではなくて、その生活者の記憶や文化そのものを宿しているような、生活空間としての部屋のことを指している。

まずは、画家や映画監督によって切り取られた部屋を、独断と偏見で2つ。

ヴィルヘルム・ハマスホイ《カード・テーブルと鉢植えのある室内、ブレスゲーゼ25番地》


小津安二郎『彼岸花』1958のワンシーン


デンマークの画家ハマースホイと、日本の映画監督、小津安二郎のワンシーンを乱暴にも並べてみる。

異なる文化圏、時代、絵画と映画、比較するには異なりすぎる二つの背景を持つ部屋、下は縁側のシーンだけど、決して別物とは言い切れないような、独特の雰囲気を纏っている。

その背景や手法は専門的に語り得ないけど、類似点ならばいくつかあげることができる。

・彼らが徹底的に視点にこだわり、部屋に配置するものから、光量、反射して映り込むものまで徹底的に考え抜いて部屋を描いている、ということ。つまり、単なる背景でなく、作為的に部屋を描いている。

・部屋のインテリアというより、その繋がりや人の気配を感じさせる仕掛け。
椅子や開いたドアや障子、生活の痕跡。

・その部屋の設えはその文化圏を知るものならば、誰もが記憶の片隅に見たことがるようなある意味凡庸な調度を用いているということ。

部屋というものを空間構成として考える建築家の事例や言葉を当たってみる。

アドルフ=ロース ミュラー邸 1930

上はヴィルヘルム・ハマースホイ(1864-1916)と同時代の建築家、アドルフ=ロース(1870-1933)の代表作、ミュラー邸のインテリア。

装飾は罪悪である。
アドルフ=ロース

この名言で、近代建築の騎手として有名なロースであるが、彼の建築は一筋縄にモダンではない。

全てがロースの選定した調度品でないにせよ、この内装はかなり作為的に、ミニマルなものや、建築家が設計したものを排除して、民衆の文化に属するものが配置されている。

大理石をスライスして柱に貼り付ける内装などはこの建築家がよく使う手法だが、華美な丁度品と一体となり、もはや生活の背景と化している。

かれが、当時のモダニズム、機能主義、記号化できるようなドライな部屋をつくろうとした作家ではないことがわかる。

部屋とは何なのかを考え抜き、多くの名作住宅を残した近代建築の巨匠、ルイス・カーンは次のような言葉を残している。

空間が「部屋」になるのは、光によってである。
光は、生命の本質である。
心は光によって希望をもち、調子づけられ気分づけられる。

空間が「部屋」になるのは、そこに心が置かれるときである。
部屋は心の置き場the place of mind, 心の住み家である。

「部屋」は心のためにある
ルイス=カーン

空間は部屋になる前の抽象的な体積のようなものと捉えられていて、固有の光によって、それが部屋となり、心の住処となる。という言い回しは、モダニズムの建築言語を使いながら、人間の精神性に切り込んだカーンらしい。

この視点に立つと、ハマースホイや小津は、ある文化圏によく見られる凡庸な部屋に固有の光をあて、芸術的レベルにまで消化させ、その作品自体に観客が心を宿す様な、余白を部屋のシーンに用意しようとしたのかも知れない。

ロースのインテリアは、建築家によって食器から家具までがデザインされたウィーン分離派の建築家への批評も込められていたという説もあるが、彼がラウムプラン(平面でなく立体的な部屋の連なりで、空間をつくる)を提唱しながら、部屋には敢えてデザインされていない、民衆の文化に属する調度を持ち込むことについては、とても作為的な何かを感じずにはいられない。

すなわち、建築家による強い形式を持つ住宅でありながら、一つの部屋を単位としてみると、そこは建築家に属するものではなく、特権階級でなくとも、民衆誰しもにとっての心の置き場であるべきというメッセージが込められているのではないか。

ミュラー邸のリビングを切り取ると、奇妙にもハマースホイや、小津が描くような部屋に似た雰囲気を纏っているように、私個人は感じている。

部屋と、人間の深層心理には何かモダニズムやら作家性やらで一掃出来ない、深いつながりがある。

部屋を作ること、カーンのいう心の住処の、ほんの下地を、建築家は準備できるに過ぎないのだろう。


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