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よっちゃん

帰宅部×バレーボール部 
泣いた姿を見たい攻めと攻めに甘えたい受け


泣いたよっちゃん


 俺はガキ大将のよっちゃんの幼なじみだった。よっちゃんは俺の隣の家に住んでいた男の子だ。俺の家は田舎だったから、近所はよっちゃんの家くらいだった。

 よっちゃん、力は強いけど、頭は悪かった。俺はよく夏休みの宿題を教えてあげたものだ。俺はよっちゃんの「ありがとな」だけでとても嬉しい気持ちになった。
反対に、俺が上級生にいじめられそうになった時は、いつも助けてくれた。 よっちゃんは俺のヒーローだった。

 小6の夏、よっちゃんの家の犬が死んだ。 俺も一緒に遊んでた犬だった。名前はこたろうだったか、いやこじろうだったかな。
 よっちゃん、不思議とその日は朝からけろりとしていた。朝1番に「しんだ」と言われて俺は驚いたものだ。
 いつも通りの帰り道、俺たちの横を、散歩してる子犬が歩いてった。茶色い雑種の子犬だった。その犬はよっちゃんの飼ってた犬によく似ていた。

 家の前まで着いたら、よっちゃんが急に立ち止まった。俺が声をかけても、よっちゃんは固まったまま動かない。
 もう一度声をかけようとした次の瞬間、よっちゃんの目から大きな涙の粒が溢れ出した。全身まっかにして、ぶるぶる震えて 何かを耐えてるみたいだった。アスファルトに、よっちゃんの涙がまあるい水玉もようを作る。

 俺は、それをぽかんとして見ていた。いつも笑ってて、強いよっちゃん。 友達 に囲まれてる時にはとても見れないような、なさけなくて、弱い姿。俺はその時、 自分のほっぺたが熱くなっていることに気がついた。額から汗がじわりとにじん で、あごの先まで落ちてくる。

ああどうしよう。 よっちゃんがかわいい。

終業式の日のことだった。


 

15の記憶


中学校に入ってからもよっちゃんは人気者だった。特に部活での活躍はめざましい。
 彼はバレー部に入った。俺は野球部に入るものだと思っていて驚いた。小学生の時、よっちゃんはキャッチボールがとても上手だったから。

 はじめそれを言うと、
「キャッチボールと本当の野球は違うんだぞ。そもそも俺たち、まともに野球なんかやったことねえじゃん」
と呆れられる。それもそうかと俺が納得すると、彼は自分の額に手をやった。
 揃えられた指先が、まっすぐ伸びていく。
 手は俺の頭に当たることなく、空を切った。よっちゃんがくすりと笑う。
「先輩にスカウトされたんだ。ほら、俺って身長高いだろ」
 なるほど確かに、彼は周りより身長が高かった。

 俺はというとなんとなく卓球部に入り、部活に行ったり行かなかったりしながら毎日を過ごした。部活の前に体育館をちらっと覗くと、ボールに壁打ちするよっちゃんの姿が目に入った。腕の筋肉がゴムのようにしなり、ぽーんぽーんとボールを跳ね返す。ボールが高く高く飛んでいく。
 俺はよっちゃんの横顔をぼんやり眺めていた。やがて集合の合図が聞こえ、俺はだらだら歩いて小体育館に入った。

 俺たちは最初、自転車で2人ぷらぷらと帰っていた。だけどよっちゃんの部活がだんだん忙しくなり、二人で帰る頻度は少なくなっていった。
 登校だってずれることが多くなった。信じられないことだけど(!)部活には朝練があるから。
 よっちゃんの「行ってきまーす」という元気な声が、俺の新しい目覚ましになった。
 

 よっちゃんはバレーの腕をめきめきと上げていった。その実力は1年でレギュラーに選ばれたほどだ。
 また、彼はよくもてた。同級生に比べ高い身長。大きな目と、通った鼻筋。頭は良くなかったけれど、女子からすればそれも「かわいい」らしい。
 別の友達から、よっちゃんはこの間来た教育実習生のラインも持っていると聞いたことがある。嘘か本当かは知らない。
  噂がたつほどもてたよっちゃんだけど、不思議なことに、彼が女子と付き合っているなんてうわさは一度も聞いたことが無かった。

 
 なんだかんだありながら、俺たちは中学校で最後の学年に進学した。よっちゃんはバレー部のキャプテンとなった。
  俺は卓球部を早々に引退し、やることもなくだらだらと毎日を過ごしていた。そんな俺を見かねてか、親は俺を都会の進学塾に入塾させた。仕方が無いので勉強をすると、成績がみるみるうちに伸びていったから驚いた。
 今までの成績も悪くは無かったのだが、俺にはどうやら勉強の才能があったらしい。まったく、人の向き不向きはわからないものだ。

 この時になるとよっちゃんと会う頻度はかなり落ちていて、たまにすれ違えば話す程度になっていた。
 よっちゃんは毎日忙しく過ごしているようだった。それもそのはず、8月の頭には中学生全日本選手権の関東大会が行われる予定となっていたからだ。うちの中学校はバレーボールの強豪だった。

 ある日、久々によっちゃんと話す機会ができた。よっちゃんはいつもと変わらない笑顔だ。校庭の前の階段で二人、腰掛けて話す。
「最近あんま話してなかったな」
 俺がああとか、うんとか返すと、よっちゃんは何、寝不足?とまたけらけら笑った。彼の日焼けしない肌が陽と反射して眩しい。俺はなぜだかぼうっとよっちゃんの顔を見ていた。気づけば彼の顔は、俺と同じ位置にあった。
 そうか、俺はよっちゃんと背が同じくらいになったんだ、と今更気がついた。

「もうすぐ大会じゃん。練習はやっぱ大変?」
「いやー、大変なんてもんじゃないよ。監督も厳しいし、俺、キャプテンだから、やっぱサボっちゃ駄目じゃん。それが結構プレッシャーだったりしてさ。」
「でもたのしーんだろ」
「うはっ。楽しい、楽しいよ。楽しいからやってる。」
「いいなー、よっちゃんは」
「なんで?」
「俺だってなんか熱中できることあったらいんだけど」

 俺が目を伏せると、よっちゃんは笑いながら遠くを見た。
「俺はたまたまやったバレーがたまたま楽しかったの。ぐーぜんだよぐーぜん。」
「その偶然が俺にとってめっちゃ羨ましいんだけど。ああ、俺も見つかったらいいなあ、偶然。ま、今は勉強するしかねえんだけど」
 よっちゃんはあー、言うな言うなと耳を塞いだ。
 2人で、べんきょーしたくねえ、べんきょーしたくねえなあと叫んだ。久しぶりに楽しかった。
 よっちゃんは「たまたま」バレーに出会ったんだと言っていたけど、俺には偶然には思えなかった。8月にあるという関東大会も、彼なら突破できると思ったし、それを願った。

だけど、よっちゃんが関東大会に出ることは無かった。関東大会を次週に控えたある日、よっちゃんは車に跳ねられた。



病院にて


 8月に入ったばかりの早朝、よっちゃんは車に跳ねられた。よっちゃんが搬送されたのは市内の病院だった。俺は母から連絡を貰い、塾を抜け出した。

 病院に着いたのは昼頃だった。照りつける日差しが俺を刺す。だけど何故だか全く暑くなかった。俺は想像以上に動揺しているのかもしれない。

 病院内は薄暗く、重苦しい雰囲気がした。前来た時も思ったが、この病院はかなり古い。ひび割れた壁と灰白色の低い天井が不気味だ。

 彼の病室の番号を確認した後エレベーターに飛び乗ると、「すみません」と声がした。慌てて『開』のボタンを押す。乗り込んできたのは、よく目にするジャージの中学生だった。 やっぱり。うちの中学校のバレー部のメンバーだ。
 狭い箱の中、彼らはぽつぽつと話しだした。それは、もしかしたら第三者の俺に聞かせるためかもしれなかった。

「キャプテン、無事でよかったな」
「でも大会来週だろ。......今から復活なんて絶対無理じゃん」
「キャプテンのバカ。俺らどうすりゃいいんだよ」

 
 跳ねられたよっちゃんは被害者だ。本人たちもそれを知ってよっちゃんに当たっているのだろう。
 気持ちはわかる。そうしないと、どこに感情をぶつけたらいいのかわからないから。
でも、1番悔しいのはよっちゃんじゃないか。俺はぎゅうと拳を握った。

 やはり同じ階でバレー部達は降りた。俺は早くよっちゃんの無事を確認したかったが、自販機横のベンチで彼らが出るのを待った。

「兄ちゃんの病室向こうだよ」
 急に声を掛けられて見上げると、セーラー服を着た女の子が目の前にいた。
「桜ちゃん」
 記憶の中よりも成長した姿の彼女は、よっちゃんの妹だった。
「なに、バレー部の人達出てくんの待ってんの」
 そう言いながら、桜ちゃんは俺の横に座った。彼女はため息をついて話し出す。

「手術はもう終わった。ママはお医者さんの話聞いてるし、パパは車乗ってた人、あと警察と話してる。今朝連絡来て、皆びっくりしちゃってさ。爺ちゃんはぎっくり腰。」
「......お兄ちゃん、大丈夫そう?」
「脳とか、体のほとんどは大丈夫。だけど....」
 彼女は言い淀む。
「右の鎖骨がね、だいぶ折れちゃったの。来週の大会は無理」
なんとなくわかっていても、絶句せずにはいられなかった。

「兄ちゃん、部活行く途中だったんだって。ほんと普通にさあ、自転車漕いでただけだったのに… 後ろからスピード違反の車が来て跳ねられたって」
「……」
 俺が何も言えずにいると、バレー部の面々が向こうから歩いてくるのが見えた。
「桜、喉かわいちゃった。なんか飲もうかな。ね、兄ちゃんのとこ行ってよ」
 桜ちゃんは髪の毛をいじりながら目を伏せる。

「あのね、私が一番心配なのは、体じゃないなーって思う。兄ちゃん、なんか変。
普通骨折っちゃったら落ち込むじゃん。…なのになんか兄ちゃん、ふつうすぎ?っていうか…」
 なんだろ、と口ごもる。彼女も言葉が見つからないみたいだ。
「わかった。ありがとう、桜ちゃん。ちょっとよっちゃんの様子見てくるわ」
桜ちゃんが頷いたのを見て、俺は急いで病室へ向かった。
 途中でエレベーターを待つバレー部とすれ違った。皆、何ともいえない暗い顔をしていた。

 重い病室のドアを開けると、窓の外を見つめるよっちゃんの姿があった。リクライニング式なのか、上半身だけが起こされている。顔にはガーゼが貼られていて、かなり生々しい。そして肩と腕にかけて、真っ白な三角巾が巻かれていた。

 よっちゃんの表情には、感情が一切感じられなかった。普段が表情豊かなせいもあってか、まるで別人のようだ。彼の茶色い髪が冷房の風で揺れる。

「よっちゃん」

 呼びかけると、彼は顔をこちらに向け、そして力なく微笑んだ。
「来てくれたんだ、サンキュな。死んだって思った?」
 俺は全然笑えなかった。
「そこ座れよ」
 促されるまま、俺は窓際の椅子に腰を下ろした。 

 よっちゃんはいつもと違う、いつもの笑顔で話し始めた。
「俺、びっくりしたわ。急に後ろからどんって来て、気付いたら飛んでんの。 落ちた先が土の上だったからまだ鎖骨折れるくらいで済んだんだけど。あれコンクリとかガードレールの上とかだったら、マジ、ヤバかった」
 よっちゃんは口元を歪めて笑っていた。

「さっき部活の奴らが来てさ、全員葬式みたいな顔してて俺、笑っちゃったわ。おい俺まだ死んでねーぞって」

 俺は何も言わずよっちゃんの話を聞いていた。手汗が滲む。

「皆俺のこと心配してくれてさ、ホント申し訳なくて、情けなくて。……あいつら、『キャプテンの分も頑張るんで』とか『全力出すんで応援してください』とか言うんだよ。……普段バカみたいなことばっか言ってんのに、こんな時は真剣に。」
 俺がうん、と一つ相槌を打つのを確認して、彼は続けた。

「俺まだ試合出るか出ないかもわかんねえじゃん。いや、無理だってことは一番わかってんだけど。そう思ったらなんか腹立ってきちゃって。俺、バカだよな。最後、あいつらに何も言えなかった」
 キャプテン失格だな、とよっちゃんは力なく笑った。そんな彼にかける言葉を持つほど、俺は器用ではない。何を言えばいいのか全くわからなくて、口から出る言葉全部が不正解だと思った。でも何か言いたかった。

「……俺、すげえ怖かった。よっちゃんが死ぬんじゃないかって」
 よっちゃんの丸い頬にはガーゼが充てられている。鼻の頭にも擦り傷が着いている。よっちゃんの体を、そして心を壊した相手がただただ憎かった。

「……痛かった?」

 そう言うと、よっちゃんは固まった。そして、うつろな目から、大きな涙をこぼした。俺が呆気にとられていると、よっちゃんはしゃくり上げながら、包帯が着いていない左の方の手で目元を抑えた。だけど涙は止まらない。うう、と声を漏らしながら、よっちゃんは泣き続けた。小六のあの夏の姿と十五歳の今の姿が重なる。

「こうちゃん、俺、どうすればいい?」
 こうちゃん、と彼に呼ばれるのは久しぶりだった。俺は何も言えなくて、ハンカチを手渡した。

「試合でれないし、こんな事なるんだったら、頭打って死んだら良かったっ、サイアクだ、なんで生きてんだ俺、もうやだ、しにたい」
 全部ひらがなみたいな言動は、普段大人びていて、明るく笑うよっちゃんには似合ってなかった。だけど、きっとこっちが本当の彼だ。
 俺は、ハンカチで目元を擦る彼の左手をゆっくり取った。赤くなった目が覗く。

「俺はよっちゃんが生きてて嬉しいよ」
 そう言うと、よっちゃんの目からさらに涙が溢れ出した。
「でももう一生、バレー、できないかも、どうしよう、どうしようこうちゃん」
「絶対できるって」
「う、こうちゃん、こうちゃん、肩痛い、しんどい」
「痛いな、しんどいな」
 俺が手を握ると、彼はまた、苦しげな名前で俺のあだ名を呼んだ。

 泣いているよっちゃんはかわいい。かわいいけれど、こんな涙はもう流して欲しくない。

 彼はひとしきり涙を流した後、疲れたのか、ゆっくり眠りについた。気を張っていたのと、体力も消耗していたのだろう。

 病室のドアが開かれる音がした。よく知った声が俺の名前を呼ぶ。よっちゃんのお母さんだった。

「久しぶり。暑いのに来てくれてありがとうね。どう、陽太、元気に喋ってた?」
「はい、よく喋ってました。元気そうで良かったです。」
 おばさんはよっちゃんの顔を見ると、苦笑した。

「この子、もしかして泣いてた?」
「え、何でわかったんですか」
「そのくらいわかるよ。何年母親やってると思ってんの。」
 おばさんは、そう言って笑った。笑った顔はよっちゃんによく似ていた。
「もー、うちの家、朝から大騒ぎ。桜は声上げて泣き出すし、お爺ちゃんはぎっくり腰になっちゃってね。…あ、さっきまでお医者さんと話してたの。まだ中学生だから、治るのも早いだろうって。ほんと、脳が大丈夫で良かった」
 おばさんの手がよっちゃんの髪の毛を撫でる。

「…この子、あんまり弱ってるとこ見せたがらないの。かっこ悪いって思ってるのかな。母親にくらいいつでも甘えろって話なんだけどね。…また話聞いてあげてね。この子、あなたには甘えられるみたいだから」
 俺が頷いた時、病室のドアがまた開いた。

「おかーさん、おなかすいた。あ、まだいたんだ」
 桜ちゃんが俺を指さす。それをおばさんが注意した。
「こら、桜!人を指差すなってママ何度も……あ、そうだ。ねえ、一緒にお昼ご飯食べよっか。」
「いいんですか」
「桜、チーズインハンバーグ食べたーい」
 おばさん達と病室を出る前に、振り返ってよっちゃんの顔を見る。泣いた跡が見えるその顔を眺めると、心がぎゅっと掴まれるような気がした。
 
 俺はよっちゃんのことになると、自分がわからなくなる。よっちゃんの泣いている顔を見て、かわいいと思う気持ちが何かわからない。よっちゃんの夢を壊す人間が憎くてたまらない。彼には笑っていて欲しい。この気持ちの名前は一体何なのだろう。

ひとつだけ。彼が優しい夢を見られるよう願って部屋を出た。





年末



 季節は流れ、俺たちは中学三年の冬を迎えた。年末になって塾がやっと休みに入った時、久々によっちゃんと会うことになった。

「よう。」
 庭から道路に降りたところで、よく知った声が聞こえた。青のネックウォーマーを着けた同級生が笑う。寝癖なのか、柔らかい髪ははねていた。

「よっちゃん、久しぶり。」
「本当に久々だよなあ。俺ら隣に住んでんのに、なかなか会う機会ねえもん。俺は学校か家にいるけど」
 お前さあ。そう言ってよっちゃんは俺の肩を叩いた。
「わざわざ電車乗って塾通ってんだろ?ほんと、昔から頭良いのにこれ以上良くなってどうすんだよ。」
「やめろよ。別に、そんな頭良いわけじゃねえし」
「ケンソンすんなって。最近皆の中で、頭良くてかっこいいって言われてるぞ。うらやましーなあ。」
 頭が良いというのは置いておいて、かっこいいはないだろう。それはよっちゃんの方だ、と思い俺は笑った。

「夜は早く寝て、あんま無理すんなよ。俺みたいに無理しなさすぎんのもダメだけど。」
「よっちゃん、お母さんみたいだな。…ま、ほどほどに頑張るわ」
 俺は塾に毎日缶詰の日々が続き、帰るのもかなり遅くなっていた。隣人の彼には全部知られてしまっているらしい。こうして気を遣ってくれるところが俺は好きだった。

 俺たちはあてもなく歩きだした。田舎のこの辺では、行くところは知れている。中学生が遊ぶといえば、大体は町の方にある電気屋か本屋だ。冬特有のどんよりとした曇天が空に広がる。冷たい空気が肌に当たり、痛いほど寒い。

 町の方に向かって歩き出した途中、よっちゃんが「お」と言った。どうした、と思ってよっちゃんの方を見ると、彼は道路脇の竹藪の中を指差していた。

「この中に秘密基地あったよな。同じクラスの奴らとよく遊んでた」
 そうだ、この中には秘密基地があった。記憶の中のそれは、基地と呼べるのか、というほど古いトタンで出来たぼろ小屋だった。俺たちはその中で、カードゲームをしたり、形の良い棒を集めたりして遊んでいたんだ。わずか四年ほど前のことなのに、何で忘れてしまったんだろう。
 こうやって、過去の思い出がどんどん遠くなっていって、最後には掴めなくなってしまうような感覚がした。まだ十五年しか生きていないのに懐かしんでしまうのが不思議だ。

「な、ちょっと行ってみようぜ。俺のレアカード置いたままかもな」
よっちゃんはいたずらめいた笑みをこぼした。

 小屋の中はひどいものだった。雑草がぼうぼうと生えていて、泥や土でひどく汚れているのはもちろん、誰が持ち込んだのか、錆びた鉄の棒や板が放置されていた。
「うええ、すっげえ汚れてる」
 そう言いながら、よっちゃんは自分達の痕跡を探し始めた。俺は木の板の上に座りながら、そんなよっちゃんを眺める。小屋の中は、外よりも幾ばくか暖かかった。

 俺はふと、あのことを聞いてみようと思い立った。
「よっちゃん、肩はもう大丈夫なの?」
 そう言うと、彼は固まった。肩に関することは、彼によくない出来事を思い出させるのだろう。

 よっちゃんが病室で泣いたあの後。うちのバレーボール部は善戦したものの、準決勝の手前で負けてしまった。キャプテン不在の状態でよく頑張ったと思う。よっちゃんの肩は全治に二ヶ月ほどかかった。彼は大会に足を運んで応援しに行ったらしいが、そこで部員とどんな会話をしたかは知らないし、聞くつもりもない。
 俺は俺で夏休み中、結局塾に籠りっぱなしとなってしまったので、よっちゃんの肩について確認するタイミングが無かった。

「おう、全然大丈夫。なんなら見るか?けっこうグロいぞ」
 よっちゃんはそう冗談めかして言った。俺が無言で頷くと、よっちゃんは「えっ、本当に見たいの?」とちょっとびっくりしていた。

 よっちゃんは着ていたダウンやネックウォーマーを一枚ずつ脱いでいく。それを見ていると、なぜか見てはいけないものを見ているような不思議な心地がして、俺はなんとなく目を逸らした。
 パーカー、長袖シャツと続き、ついに長袖の下着のみとなった。よっちゃんは寒いのか、ぶるぶる震えて「見るんだったら早く見ろ!はやく!」と騒いだ。真冬の小屋で一体何をしてるんだろう。そうまともな俺が言っていたが、よっちゃんが風邪を引かないうちに肩を見ることにした。

 よく伸縮する素材の襟ぐりを掴み、ぐい、と肩まで下ろすと、寒かったのか、よっちゃんはひえ、と小さく叫ぶ。彼の白い首筋と肩がつるん、と現れる。鎖骨と肩にかけてを確かめると、生々しい針と糸の跡が一筋、赤い流線型を作っていた。見ているだけで痛々しくて、心が痛む。ぽっきりと折れていた骨がくっついてしまうのだから、人間の体はすごいと思う。

「……結構跡残ったね」
 そう言ってよっちゃんの顔を見ると、よっちゃんは顔を俯かせた。顔が不自然に赤くなっている。まさか熱が出てきたのか、と思って俺は慌てて、無理言ってごめん、風邪引く前に服着て、と言った。
 

 ものすごい速さでよっちゃんは全部の服を着た。
「お前、どんだけ見てんだよ。見ていいって言ったけど、あんな感じで見られるって思わなかったわ」
 そう言って彼は俺を睨む。心なしか顔がまだ赤かった。
「でも見ていいって言ったのよっちゃんじゃん。あんな感じってなんだよ。」
俺がそう言うと、よっちゃんは、「はあー?あんな感じは、その、ああいう感じだよ」と良くわからないことを口走った。

 そんなことをしている間に、もう日が暮れかけていた。本屋に行くのはやめ、俺たちは秘密基地を出て、家に向かって歩き出す。歩いている間に、よっちゃんが「なあ」と声を掛けてきた。

「お前、志望校どこなの?」
 俺が東京の某私立高校の名を口にすると、よっちゃんはえええ、と大げさな声で叫んだ。
「めっちゃ有名なとこじゃん!頭良いなー!!ん……てことは、お前一人暮らしすんの?」
「うん。受かったらだけど、寮で暮らすつもり。」
よっちゃんはそっか、とだけ言った。俺たちの横を軽トラが走り抜けていく。ライトが眩しい。

「よっちゃんはどこ行くつもりなの」
「俺は近所のバカ高校。親には公立だから絶対そこに行けって言われてる」
俺も頭良かったらお前と同じとこ言ってたのになあー、とよっちゃんは言った。しばらく沈黙してから、彼は続ける。
「あのな……バレーボール、高校でも続けるから。ちょっと離れてて、俺にはバレーしかないなって思ったんだ。…お前には、それだけ言っておきたくて」
 俺は嬉しかった。思わず無言で彼の背中を叩く。彼と俺は一緒に笑った。

 家の前に着く頃には、辺りは暗くなっていた。じゃあ、と別れようとするが、よっちゃんは立ち止まってこっちを向いていた。よっちゃんの顔は、暗くてよくわからない。ただ、彼の白い顔が浮き上がって見えた。

「こうちゃん、行かないでよ」

 彼は、ただ一言だけこぼした。
「……よっちゃん?」俺はあまり聞き取れなくて呼び返す。その一秒後には、もう普段通りの彼だった。

「何もねえよ!じゃあ、また年越しラインするわ」
 暗闇の向こうから彼の元気な声が響いた。その声に安心して、俺は「年越しに寝るなよ」とだけ声を返した。

 空を見上げると、綺麗な冬の星が輝いて見えた。
 俺は帰って早く過去問を解こうと思い、家のドアをがららと引いた。



卒業式



 月日は流れ、俺たちにもついに卒業の日がやってきた。小学校の時はぼろぼろ泣きながら合唱している面々もいたが、中学校では皆平気な顔をしていた。俺も泣かなかった。
 もしかして、と思って式の間のよっちゃんを覗いたが、彼は別に泣いてはいなかった。俺はなんとなくがっかりした。

 卒業式の後は皆写真の撮りあいだった。男子たちはそうでもないのだが、特に女子は思い出作りをしようと必死だ。クラスの集合写真は何度も何度も撮り直しの連続で、女子がぎゃーっと叫ぶ声が耳障りだった。

  集合写真が終わってから、俺は同じクラスの二人の女子に呼び出された。何度か喋ったことのある女子だ。教室じゃだめだから、と屋上前の廊下まで移動させられる。
 
 2人のうち、黒い髪を後ろに縛った方の女子が「早く言いなよ」と、色素の薄い方の女子に言って腕を小突く。茶色い髪をした彼女は、顔を俯かせたまま、「ちょっと待ってよ」と黒い髪の女子に言い返し、前髪を直した。ほっそりとした指が前髪を揺らす。
 いくら鈍感な男でもこれは何となく察するだろう。俺は背筋を伸ばした。そんな俺を見て、彼女は慌てた。
「ちがう、ちがう。……あっ、急に呼び出してごめんね。えと、その、告白とかとは、違くて」
 黒髪の女子が、「違わないよね」と言う。言われた方は、うるさいと返し、短い髪を耳にかけた。

「その、制服のボタンって……もう要らない?」
「うん」
「じゃあ、……それ、貰ってもいい?……上から二番目のやつ、予定無い、よね?」
 彼女は上擦った声で言った。
 
 俺はいいよ、と返した。卒業式に第二ボタンを貰う、というのは都市伝説だと思っていたが、本当にあるのか。強引に糸を引きちぎり、彼女に渡した。彼女のことが好きだったわけではない。だけど、勇気を出してくれた彼女に何か返したかった。

「えっと……」
「いいの!」彼女は手を出して俺を遮った。そして、困ったように笑う。
「好きな人、いるんだよね。わかってるから。」
 俺はぐ、と息が詰まった。好きな人、と言われて頭に浮かんだのは1人だけだった。
「ほんとに優しいよね。優しくて、ひどい。好きな人が居るのに、好きじゃない人にボタンあげちゃうんだから。」
 俺がもう一度何か言おうとすると、彼女は息を置かずに話し出した。

「じゃあね、ありがとう。これ、貰えて良かった。」
黒髪の女子が先に階段を降りた後、彼女はもう一言だけ耳元で囁いた。

「       」
 俺はしばらく動けなかった。彼女は早足になって階段を駆け下りて行った。

                  ◆
 
 ポケットに入れた携帯が震え、まとまらない頭のまま電話に出た。それは、よっちゃんからの電話だった。
「ああ、出た出た。なあ今、お前のお母さんと俺の母ちゃんが喋ってんだけど、写真撮ろうてなってんの。正門前に居るから、今すぐ来れねえ?」
 俺は一言、うんとだけ返した。

 正門は多くの卒業生と、その親たちでごった返していた。その中から、見慣れた茶髪を見つける。
「よっちゃん。」
 声を掛けると、よっちゃんが目を細め、片手を挙げた。
「おう。さっきまでどこ居たんだよ。俺、探してたんだけど。」
 俺が何か返そうと思った時、「あ!」と横から大きな声が聞こえた。見ると、セーラー服を着た少女が立っていた。声の主は、よっちゃんの妹、桜ちゃんだった。
「第二ボタン無くなってんじゃん。やっばー。」
 俺が苦笑すると、よっちゃんもそれに気づいて硬い声をあげた。
「えっ、ほんとだ、お前」その声をまた別の声が遮る。「こら、桜!」よっちゃんのお母さんだ。

「人を指差さないって何度言えばわかるの。ほんとに言うこと聞かないんだから…卒業おめでとうねえ。陽太と昔よく遊んでた小さい男の子が、もうこんな大きくなって。あら、ほんとに第二ボタン無くなってるじゃないの。モテるねえ。陽太も身長抜かされて、霞んじゃうわ、ハハハ!」
 横に並んだ俺の母も笑う。
「私だってこんなに大きくなると思わなかったわ。でも中身はまだまだ中学生なんだから。恥ずかしいって言って私の隣歩いてくれないしね。」
 俺は恥ずかしくなって「うるせえよ」と呟いた。それを聞いて、母もよっちゃんのお母さんも、桜ちゃんまでもが笑った。よっちゃんのお母さんは、「そうだ」と急に声を上げる。

「あそこの高校、受かったんだってねえ、おめでとう!さっきからその話ばっかりしてたんだよ」
「ありがとうございます」
 俺は今年の二月、東京の某私立高校を受験し、合格した。受験番号を見た時は見間違いかと思ったが、確かに俺の番号はそこにあった。合格した後、俺は大声をあげ、そこらじゅうを駆け回ってしまった。

 母も頬を染めて笑った。
「私もびっくりして最初、腰抜かしちゃったわ。ほんとに良かった。東京の学生会館に入居しなくちゃならないからすっごく不安なんだけどね。」
「すごい、こ~ちゃんすごーい」桜ちゃんが言う。横からよっちゃんがこら、と言い、桜ちゃんの肩を叩いた。
「お前、先輩に大してこうちゃんって呼ぶのやめろよ。」
「自分以外の人に呼んで欲しくないだけでしょ、兄ちゃんのいじわる」
よっちゃんがまた桜ちゃんの肩を叩く。俺は思わず苦笑した。俺の母が「よっちゃんもおめでとう。高校に行ってもこの子と仲良くしてあげてね」と言った。よっちゃんも地元の公立高校に合格していたのだ。彼は照れたように笑いながら、「ありがとうございます。こいつは俺の一番の幼なじみですから、仲良くさせてもらいます」と言った。

 
 よっちゃんのお母さんが笑って、スマートフォンをこっちに向ける。
「ほらほら三人とも、こっち見て。写真撮るよ。」
そうなると俺たちは黙り、皆でカメラを見つめた。カシャ、とシャッターを切る小さな音が聞こえた。「もう一回!」ちらりと横を見ると、大人びた表情のよっちゃんが見える。長い睫毛が震え、形の良い唇が弧を描く。
 その綺麗な横顔を、俺は忘れられないような気がした。

                   ◆

 三人で写真を撮った後、俺の母とよっちゃんのお母さん、桜ちゃんは、近くの喫茶店に行くと行って帰った。よっちゃんはバレー部の後輩と同級生に呼び出され、体育館に消えていった。
 俺も同級生に帰ろうと声を掛けられたが、断った。こんな会話があったからだ。

「悪い、俺今からバレー部の方行くけど、しばらく待ってて貰ってもいいか?終わったら戻ってくるから」
「いや、でも部活の人たちに悪いし、よっちゃん焦るだろうから、先帰るよ」
俺はそう言ったのだが、よっちゃんは「それでも待ってて」と言って走り去った。

 俺は校庭の前の階段でぼんやりと空を見ていた。卒業生はほとんどが帰ってしまった。空はよく晴れていて、ペールブルーの水色の中に、のんびりと白い雲が浮かんでいる。暖かい春の陽気が頬を撫でた。少し寂しくなった制服の胸元が、風に揺れた。
  
 茶色い髪の彼女の一言を、ゆっくり思い出す。

「陽太くんも、きっと一緒の気持ちだよ。」
 

 あれはどういう意味の言葉だったのか。彼女の気持ちとよっちゃんの気持ちが一緒だということなのか、それとも俺とよっちゃんの気持ちが一緒ということなのか。どちらにしても、俺の都合の良い妄想みたいだ。彼女の言葉が頭を回り、よくわからなくなりそうだった。

 好きな人に思いを明かすことは、どれだけ勇気のいることなのだろう。そして、自分の気持ちが否定されると理解しながら、それでも言うということはなんて苦しいのか。
 彼女に同情してボタンをあげた自分を、彼女の言う通り「ひどい」と思った。だけど、それくらいでしか彼女の気持ちに報いる方法は無いように思った。

 
 瞼をゆっくり閉じると、よっちゃんの色々な顔が浮かぶ。小六の時、雑種の子犬を見てぼろぼろ泣いたよっちゃん。俺の頭の上に手をやり、笑ったよっちゃん。病院で泣いた顔。俺が肩を見た時、恥ずかしそうにした顔。そして。

「ごめん、待ったよな。」
上から聴き慣れた声がして、目を開ける。やっぱり。よっちゃんの顔があった。
「大丈夫。帰ろうか。」
そう言うと、よっちゃんは笑った。

 二人で帰る最後の帰り道。自転車に乗りながら、担任の悪口や、共通の同級生の話題を大声で話し合って笑った。本当に楽しくて、涙が出そうだった。

 俺はよっちゃんが好きだ。恋かどうかはよくわからない。だけど、どう思い返しても俺はよっちゃんが本当に大事だ。たまに触れたいと思う時もある。彼の白い肌がまぶたに貼り付いて、眠れない夜もある。昔から強かったよっちゃん。だけど、もろい所もあって、俺はそのやわらかい部分を守りたいと思う。

 東京に行ったら彼を忘れてしまうのだろうか。大切な彼が、竹藪の中の秘密基地のような思い出になってしまう。それは本当に恐ろしいことで、俺は今になって、遠い地に行くことがとても怖くなった。

柔らかな明るい陽がよっちゃんの髪と反射して、光った。



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