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普通になりたい

 敷島圭人は神を信じる男ではなかった。
しかし今、彼に唯一できることといえば、手を組み、神に祈ること。それだけだった。
 手を組めただけまだ幸せだろう。彼は今、椅子に拘束されていた。
目隠しのせいでどこかはわからない。音も匂いもしない。
気を失った後、彼は気がつけばどこかに連れてこられたのだった。

 敷島圭人は社交的ではなかった。彼は生まれて28年の間、一度も恋人はできたことがない。友人も数えるほどしかおらず、毎日、自宅と新卒で入った会社の行き来をする、平凡でつまらない人生を送っていた。
 なのに今はどうだろう。どこかに連れてこられ、拘束されている。彼が最も恐れることは、波風立たない人生を乱されることだった。過剰に分泌される口内の唾を飲み込む。短く何度か呼吸を繰り返し、平静を保とうとする。

 敷島は、この状況に至るまでの出来事を頭の中で思い浮かべた。
そうだ。1ヶ月前、とあるマッチングアプリを入れたことがきっかけだ。
敷島はその時期友人に、28で恋人がいた事がないなんて普通じゃない、と馬鹿にされた。その時は、今の時代そんなことを言うなんて古いやつだなと思っていた。
しばらくすると不安になってきた。
 もしかして俺って普通じゃないのか?
 友人やSNSの情報から、「恋人を作ると人はアホになる」という情報を摂取していた彼は、恋人に何のメリットも感じていなかった。
 しかし気が変わったのか、適当なマッチングアプリを4つ程インストールした。

 女性は平凡だが、気のいい人だった。派手な格好をすることもなければ、金のかかる趣味もない。敷島を束縛することもなければ、ヒステリーを起こすこともない。
 何度か食事に行って話したが、敷島は結局、女性と話すことの楽しみを理解できなかった。正直これでは同性でも変わらないだろう。だが男女の付き合いが普通の人生の楽しみだとするならば、これも経験のうちだ。
 
 5回目の食事で付き合いを申し込むと、彼女は赤い顔で頷いた。帰り道、敷島の腕に細くて白い腕が巻き付く。目を合わせると、「行こ」とだけ告げられ、腕を引かれる。
 童貞の敷島にも、これが夜のお誘いだと理解できた。入ったこともないラブホテルに連れ込まれる。女性は慣れた手つきでタッチパネルを操作していた。ここで彼は、あんなに控えめだった女性なのに、意外と手慣れているのだなと違和感を感じた。
 結果的に、その感覚は正解だった。
ホテルの部屋に着くと、彼女はベッドに座った。敷島はこういう時の作法を知らない。
「シャワー浴びた方がいいのかな」
彼女は笑って首を振った。
背後から大きな音がした。振り返ると、面識のない大柄の男性だった。
「おうおどれ、組長の女に何しとんのや」
男は太い指をボキボキ鳴らす。顔は紅潮し、鼻の穴がふくらんでいる。
 敷島は横に目を向けたが、彼女はただ笑うばかりだった。

 要するに、典型的な美人局だった。

 その後示談金として1000万円を要求されたが、平凡な人生を送る敷島が払えるはずもない。断ると、ヤクザの下っ端が慈悲もなく彼の腹にパンチを入れた。
敷島の体は、今時めずらしい回転ベッドに投げ出された。痛みで目が回る間、口に何か含ませられたことは理解できた。

 そして現在に至るのである。彼は「普通であることに異常に執着する」ということを除けば、普通の感覚を持っていたため、当然この状況は危機感を感じた。拘束されているのは腰と足のみであり、手は自由に動かすことができた。
だが、それだけである。手が動かせたところで、救いなど無い。
 彼は両膝をきつくくっつけると、うずくまるように上半身を曲げた。
 手が震え、最悪の想像が脳内を回る。
 地方都市に住む両親の顔を思い浮かべる。数少ない友人のことを思い出す。そうして気を紛らわせようとするが、どれも全部無駄なことだった。
今の状況で、現実逃避は何のなぐさめにもならなかった。目元が濡れてくるが、目隠しの布がそれを吸うばかりだった。

「うう…ぅ、う、」
敷島がうめき声を上げると、部屋に一つ、声が落とされた。

「敷島くん」
突然の音に体がびく、と跳ねる。呼ばれて身を起こすが、当然何も見えない。しかし、誰かがそこにいることはわかった。声からして、同世代、いやそれ以上の男性だろうか?

「あの、すみません、俺、お金持ってないんです。」
何も聞こえない。

「臓器とかなら、何とかなるかもしれないです。あの、片っぽだけなら何とか生きてける部分とか、あるでしょ、人間って」
声の主は一筋の希望だった。その人物は、敷島が発言することを咎める様子もない。ということは、まだ命乞いの余地があるかもしれない。

「だから、命だけは、助けてほしいんです。お願いです。俺には両親も友人もいる。」

 ため息が聞こえた。敷島の背筋を冷たいものが走る。まさか、もう俺は死ぬのだろうか。この若さで。確かに彼の人生は平凡だったが、嫌いではなかった。仕事が終わって一息ついた帰り道のささやかな幸せを、彼は愛していた。再び手先が震えてくる。

 また、ため息が聞こえた。それは一度ではなかった。連続しているのだ。もはやため息ではなく、ハアハアと呼吸する息遣いだった。
 体調でも悪いのだろうか?今は人の心配をしていられる状況でもないのに、彼はそう思った。
すると、また

「敷島くん。僕だよ」
と声がした。

どう考えても知り合いにかける声で、敷島は安心した。自分の死ぬ確率が確実に下がったのだから。しかしすぐ後、呼吸が止まる。自分の知り合いで、一人称が「僕」の男性は1人もいない。じゃあ一体こいつはどこの誰なんだ?そう思う間にも、声は続く。

「君みたいな素晴らしい人間でも、こんなしょうもない手口に引っかかるんだね。申し訳ないけど、ちょっと面白かった」
「あ、あな、あなたは、誰ですか。俺は知らないと、思います。あなたのこと」
「君を引っかけたのは、僕が君に会いたかったから。君がそこまでお金を持っていないことは知っていた。」
「答えろよ。誰なんだ、お前は」
「今までのデートも見させてもらったよ。敷島くん、人と付き合ったこと、ないよね?そんな感じする。ああ、付き合ったことがあるなら、その相手は言ってね。消すから」
敷島は少し強い言葉遣いをしたことを後悔した。普通に生きていて、人間に対して使うことのない単語が聞こえたためだ。

「…俺は、普通に、平凡に生きてきたんです。あなたのような…裏社会の知り合いは、俺は、いないと思います…。あなたはなぜ俺に会いたいんですか…わからない。怖い。」
敷島は手をぎゅっと握り、背を丸めた。
冷たい手先を、何者かが握る。あたたかくて、気持ちが悪い。

「君が普通だって?いいや、そんなはずはない。思い出してみて、君が昔にした特別なことを。きっと、僕のことを覚えているはずだから。」

 敷島は言われるがまま、過去を思い出した。ひとつだけ、思い当たることがあった。

 中学生の時だった。その時の敷島は今よりももっと内向的で、人と関わることを嫌った。しかし唯一の友人がいた。彼は自分よりも背が小さく、同様に内向的な性格をしていた。
 2人は感じることが似ていた。敷島はこの時、初めて人と分かり合うということを知った。

 ある日の下校時、校内でも有名な不良が、誰かを囲んでいるのを見かけた。目を細めて見ると、輪の中にいたのは友人だった。彼は怯えた顔をして、ガタガタと震えていた。友人がいじめられているか、たかられているかなのはどう見ても明らかだった。
 敷島は迷った。今自分が突っ込めば、平凡な日常が壊されることは間違いないだろう。しかしここで友人を見捨てるのは、道義に反する。

 敷島は、なけなしの勇気を振り絞った。友人を救うことを選んだ彼は、すぐに不良共にボコボコにされた。ついでに友人もボコボコにされた。結局、ボコボコにされた人間が2人になっただけだった。
 これが、敷島が初めてした、「普通じゃないこと」だ。後にも先にも、彼がもうそんな選択をすることはなかった。

「白永くん」

友人の名前を何とか思い出して呼ぶと、満足げな声が聞こえた。
「うん。敷島くん」
「俺の知っている白永くんは、中学2年生で転校した。俺はずっと会いたかったけれど、彼は連絡先も教えてくれなかった。それから、俺たちは何の関わりもなかった。今更なんで」
「ごめん。あの時はいろいろあって、言えなかった。だけど、僕はずっと君のこと考えてた。ずっと」
「俺は……正直、白永くんのこと忘れてた。」
「いいんだよ。これから覚えればいいから」
頬に指先が添えられる。血の気が引いた。愛しいものをなぞるような手つきで、頬が撫でられる。

「待ってくれ、俺が特別なことしたっていうけど、あれだけのことだろう。しかも、14年も前のことだ。…どうして、そこまで俺に執着できるんだ」
「あれだけのこと?謙遜するなんて、僕はますます君が好きになったよ。僕はあの時初めて、無償の愛を知ったんだ。自分が傷つくのも顧みず、僕を救おうとする。君は素晴らしい人間だ。」
指先が頬から顎の輪郭をやわく撫でる。

「本当はもっと早くに君を迎えに行きたかったけれど、なかなか難しくてね。時間がかかってしまった。ごめんね。」
胸の辺りに、重みを感じる。白永が自分の胸に縋り付いているのだとわかった。そんな動作をされても恐怖しか感じない。
 
「あ、あのさ、白永だと言われても、実際に確認しないと信じられない。この目隠しを取ってくれないか」
「それはだめ。敷島くん、逃げるかもしれないでしょ。君の視覚の情報は奪っておかなければならない。この目隠しを取れるのは、僕と恋人になると誓った後だ」
また変な単語が出てきて身をすくませる。今度は鈍い敷島にもわかるようにはっきりと断言された。

 敷島は同性愛者ではなかった。ヘテロセクシャルだという自認があった。しかし、先月からの女性との関わりを通して、全くときめきを感じない自分もいた。だからといって、男性に対してはっきりと恋愛感情を抱いたこともなかった。
 なぜ皆、恋人というものを欲しがるのだろう?敷島は、それは縋り付くロープが欲しいからだと考えていた。人生というものは全く先が見えず、複雑で、いつ足元をすくわれるかわからない、暗闇を歩くようなものだ。だから何かに縋り付いて、安心しなければ生きた心地がしない。だから人は皆恋人を作り、現世との絆を作るのだ。
 
 今、敷島が縋り付かなければならないのは誰だろう?それは白永以外にいなかった。敷島には選択肢は無い。恋人になることを断れば、彼の命の保障は無いだろう。もしかすれば諦めてくれるかもしれないが、白永がそんな優しい相手かを判断するには、今までの会話は短すぎた。

「…わかったよ、白永。俺、君の恋人になる。」
「本当?敷島くん、僕、すごく嬉しい」
また指が握られる。その感覚にまた内心気持ちの悪さを感じていると、突然、左の薬指が温かく湿った空気に包まれた。直後、鋭い激痛が体を走る。がり、という音が聞こえた気がした。おそらく指を噛まれたのだ。白永は飽きず、敷島の指を舐めて、また噛むことを繰り返す。それは肉食獣が獲物をいたぶることに似ていた。

「いっ…⁉︎、ぐぁ、う、いた、痛い、痛いよ白永っ…」
敷島が訴えても、白永はやめなかった。荒い息遣いで、彼の指をがぶがぶと噛むのみだ。生理的な涙がまた溢れ、目隠しはさらに濡れていった。心臓が速い鼓動を刻む。

 突然視界が真っ白になった。また気を失いかけているのかと思ったが違った。白く、あまりにも眩しい世界に耐えきれず、手で目元を覆う。急に目隠しをはぐられたのだ。

「敷島くん」
呼びかけられた方を見ると、クラクラする視界が、ゆっくりと像を結ぶのがわかった。
 白永だという男は、自分の椅子の前に膝を立て、下から敷島を覗き込んでいた。
髪も目も烏のように黒く、また黒い服装をしていた男性は、ただその肌だけが白かった。あの時よりも体格や身長が大きく、敷島が太刀打ちできるような人間ではない。ただ、あの頃のまま、白い肌は変わっていなかった。
 敷島と目が合うと、白永は眉を下げ、うっとりとした表情で笑った。その瞳は潤んでいた。この場で最も泣きたいのはどう考えても敷島の方であったが、彼は呆然として白永を見ることしかできなかった。

「…敷島くん。好きだよ、あの時からずっと。やっと君に会うことができた。」

 好きでもない、14年ぶりに会った男からの好意。ここで敷島が感じたのは、奇妙にも、希望の感情だった。もしかして今、俺と白永は恋人になったのではないか。つまり、28年間恋人がいない自分を卒業することができたのだ。そう考えると、世間的な普通に一歩近づいたということだ。
 
 白永という男との普通じゃない出会いが、皮肉にも、敷島を、「恋人がいる」という普通に近づけたのだ。その時、敷島の体を電流のようなものが走り抜けた。気がつけば彼は笑っていた。

「ふ、ふふ、白永、あはは、俺、変」
「敷島くんも嬉しいんだね。よかった、かわいい…」

白永は鋭い目元を下げ、愛しいものかのように敷島を見る。彼は自由な腕を白永の首に回し、彼の体を引き寄せた。2人の口元が合わせられる。

「んっ…」
初めての、他人とのキス。唇が合わさったのは一瞬だけで、すぐに顔は離された。
「敷島くんは結構大胆なんだね、驚いたよ。ねえ、これからいっぱい、2人で仲良くしようね…」
頬を両手で包まれる。敷島は満足そうな顔で頷いた。もはや敷島に、あの時の怯えなど残っていなかった。ただあるのは、普通になることができたという安心感だった。彼は家に帰って、早く友人に報告しようと考えていた。俺にだって恋人ができたんだ。どうだ見たか、馬鹿にするな。

 しかし、敷島が帰って普通の生活ができるかといえば怪しかった。今敷島と白永がいるのは、敷島の生活圏から離れた山の中の一軒家であったし、電波は遮断され、通信機は一切置かれていない。これから敷島の命は、全て白永が握るものになってしまった。

 そんなことはわかっていない敷島は、嬉しそうにまた白永に顔を寄せる。ここにいるのは、ただ盲目な2人の男だった。


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