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2人きりパーティ

 お疲れ様ですと先輩に声をかけ、俺は荷物を手にした。昨日で案件を一つ終わらせたおかげで、今日はめずらしく早く帰ることができる。しかも、なんたって金曜日だ!同居人に「今から帰ります」とメッセージを打つ。
 弾むような足取りで事務所を出た。いつもは重苦しいだけの電車も、いい気分だ。音楽を聴きながら、足でリズムを取る。プシュウ、と鳴き声を上げる鉄塊を降りた後、駅前のコンビニエンスストアで、レモンサワーを2つ購入した。
 昨日も一昨日も、同居人はすでに眠っていた。だが今日はまだ起きているだろう。帰ったらそうだな、頭を撫でてもらおう。それでぎゅっと抱いてもらうんだ。 
 服の裾から手を入れると、彼は「こら」と呆れるだろう。でも優しいから、こげ茶色の目を細めて、いいよって、笑いかけて――
と、妄想がピンクになってきたところで我に帰った。気づけば自宅のドアまで着いていた。鼻のあたりをさする。平常心。
「ただいま~」
 廊下は暗く、静まり返っている。いつもならここで、「おかえり」と小さな声がするのだけれど。居間を開けたが、やっぱり誰もいない。
 おかしい。彼は基本この時間帯家にいるし、夜どこかに出歩くタイプでもない。てか俺最近帰ってなかったよな。もしかしてこの時間、彼は誰かと会って… まさか浮気…!?
 普段そこまで働かない俺の脳だが、急にぐるぐる回り出す。槙野さんは目立たないタイプだけど、すごく綺麗で、すごくかわいい。毎日会うたびに好きになってる。俺みたいに、槙野さんを好きになる人が他にも出てきたら…。俺は急に不安になって、頭を抱えた。
「浮気しないで槙野さん!」
「呼んだ?」
「うわ⁉︎」
 思わず大きな声をあげて振り向く。そこには同居人が立っていた。玄関は電気が点いていないから、暗闇に浮かびあがっているようだ。色素の薄い髪に、黒いベールがかかっている。いつものように、眼鏡のレンズが光を反射していて、その目を見ることはできない。首を傾げた同居人は薄く笑い、ビニール袋を掲げた。
「お酒買ってきた。あとおつまみも」
「…あ!それ、俺も」
「え?…あっ、ほ、ほんとだ、あはは、同じの買ってる…。僕たち考えること一緒だね」
 珍しく、槙野さんはけらけらと屈託なく笑った。それがいや、なんか、エロかった。

「お疲れ様、柳くん」
「ありがとうございます」
 2人で缶をぶつけ、ささやかな宴をする。俺は久々に、槙野さんに日々の仕事の愚痴や近況を報告した。デザイン事務所の下っ端として働いて2年目。クライアントからの注文は多いし、残業も多い仕事だ。彼は相槌を打ちながら、優しく聞いてくれた。
「大変だったね」
「本当にそうなんですよ!毎日ミスも多くて怒られるし…俺、この仕事向いてないのかな」
「…嫌なことと、楽しいこと、どっちの方が多い?」
 槙野さんは目を伏せてそう言った。
「ええっ。嫌なことと楽しいこと?……うーん、どっちもどっちですかね。やっぱデザインが好きだなって思うし。嫌なこともそりゃあるけど。好きじゃなかったら、続けてないですね。」
「じゃあ続けたほうがいい。僕は君の仕事、好きだよ。」
 彼は続ける。
「思いを丁寧にすくいとって、美しく並べる。実体のないものに形を与えてやる。できる人にしかできない、素晴らしいことだと僕は思うから。」
 酒のせいか顔を赤らめながら、そう言った。こういう時、彼を尊敬する。槙野さんは誠実な人だから、素直に人を褒めることができる。本人は否定するだろうが、生徒からも好かれていたんだろうな、と思った。
「槙野さん、ありがとう。…なんか照れますね」
「うん、いや、ね。僕は、思ってること言っただけだよ」
「人をやる気にさせるのが上手ですね、槙野さんは」
「そうかな?」
「そうですよ」
 彼の仕事の話を聞こうかと思ったが、やめた。それでぐるぐる悩んでいることを知っているからだ。たまの酒の席くらい、馬鹿な会話をしたっていいだろう。
「そういや、槙野さんってどんな学生だったんですか」
「えっ」
「あんまり聞いたことないから」
「あー…ううん、多分大体柳くんの想像通りだと思うけど…」
「え~!詳しく教えてくださいよ、知りたいじゃないですか、好きな人の昔の話とか」
 そう言うと、槙野さんの顔がパッと赤くなる。いくら好きと言っても慣れない人だ。
「まあ…真面目だったと思う。勉強はできた方だったし、学校も休まなかった。ただ、影が薄くてね。ええと、これ笑い話なんだけど」
「なんですか」
「校外学習の時、バスに置いてかれたんだよね」
「ブフっ」
 俺が思わず吹き出すと、槙野さんは上目遣いで睨んでくる。
「柳くん今笑っただろ」
「だっ、だって。笑い話って言ったの槙野さんじゃないですか」
「はあ…でその後、バスがUターンしてきてね。点呼したらいないのが僕だったって。
その時は謝られたけど…それほど影が薄い子だったよ。」
「そんな悲しい話あったんですね。まあ確かに槙野さん影が薄いですけど」
「うっ!」
「でもそれでよかったなあ、とか勝手に思ってますよ。槙野さんが、他の人に取られてたかもしれないから。」
 槙野さんはレモンサワーの缶をトン、と机に置き、顔を手で覆った。
「もーーー!!柳くん今日なんか変だよ、僕をどうしたいの、、」
 俺は笑って、彼の隣に身を寄せる。
 彼は恥ずかしそうに目元を染めながら、俺に聞いた。
「じゃあさ、今度は柳くんの番だよ。どんな学生だった?」
「俺ですか。…うーん、めちゃくちゃ普通の田舎の学生でしたよ。毎日勉強せずに友達と遊んでばかりでした。」
「はは、なんか想像できる。」
「俺、こう見えても高校の時テニスやってたんですよ。練習キツかったけど楽しかったなあ~。槙野さん何かスポーツできます?
「あ....昔弓道はやってたかな…」
「うっわ。やばい....見たすぎる。写真無いんですか?見せてくださいよ」
「わああ、ないってないって、」
 俺はそう言って、どさくさに紛れて体重をかける。
 見つめると、眼鏡の奥の水晶玉が見えた。
「いいな、学生の時の槙野さんを知ってる人」
「...」
「ずるいよ。その時から出会ってたなら、同じ時間をもっと過ごせたのに」
 槙野さんは俺の頬に手を添えた。
「柳くん。あの日、アパートの猫を見た時、君が声をかけてくれたね。きっと僕らが会うのは、あの日のあの時じゃなきゃだめだったんだ。かっ考えてもみてよ。僕たちは出身も違う。君は広島で、僕は千葉だ。それが、東京の小さなアパートでさ、隣になったってだけで出会えたんだ。奇跡だ。泣きそうなぐらい、嬉しい。」
「槙野さん…」
「恥ずかしい話、僕は君と出会うまで人と付き合ったことがないんだ。僕の初めての恋人が柳くんでよかった」
 焦茶の瞳が滲んでいる。口付けて舌を食む。彼は目を閉じ、感じ入るかのように、小さな声を上げた。

 今だからそう言えるんだ。俺たちはきっと、出会った事自体を喜んで、そのタイミングを後から正当化し、納得しようとしている。だけどそれでも、俺はもっと早く槙野さんと出会いたかった。それは叶わない話。俺たちが過去に戻ることはできない。それこそ、あの最悪な思い出も無くすことはできない。トラウマは彼の心の深い部分に根差し、俺が取り除くことなんてできっこない。いや、俺はそれでもさ。
 彼の綺麗な細い髪が、ぱらぱらと床に広がる。俺が白い肌をなぞると、びく、と腰が跳ねた。眼鏡を外してやると、そこには俺が大好きな瞳があった。それは蛍光灯を反射し、鈍く光っていた。

「光」
大好きな名を呼ぶと、彼は薄い唇の端を上げる。

「愛してる」
俺がそう言うと、光は眉を少し寄せた。彼は愛情を享受するのが苦手だ。自分には幸せがもったいないと思い込んでいる。だからそんなことを思う暇もないくらい、俺が愛してるって言ってあげる。

「圭佑。大丈夫だからね。僕は」
光が唐突に言う。
「圭佑が僕のこといつも見つけてくれるから。僕はそこまで弱くないんだよ」
彼は半身を起こし、俺の首筋に唇を寄せる。ちり、とした痛みが走った。それに火をつけられるように、俺はまた、彼の腰を抱き寄せた。

2人きりの夜は始まったばかり。


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