見出し画像

真野雪人について

 あの男の空気は白かった。まぶたを閉じると、今でも思い出せる。ちがうパズルのピースであるかのように、彼はずれていた。
 真野雪人。彼はクラスで浮いていた。

「俺半分書いたから、真野くん書いて。先生に出しに行くから」
 俺が日直日誌を手渡すと、真野くんは白魚のような手を差し出して微笑んだ。

「ありがとう」
 頬の皮膚の薄い部分が赤くなっている。俺は目を逸らして、彼の前の席に座った。彼はシャープペンシルの芯をカチカチと繰り出し、サラサラ日誌に記入する。他の生徒はおらず、運動場には野球部の練習する声がこだましていた。

 スマホを見るふりをして、彼の様子を観察する。真野くんは、男性とも女性ともとれない見た目をしている。中学を卒業してから一気に体毛が増え、体つきが変わった自分と比べると、まるで作り物のようだった。そんな整った、ある意味人間味のない容姿からか、同級生の男子からは遠巻きにされていた。異様な彼を、幼稚な自分達では扱いあぐねていたのだ。
 女子の方も最初は興味津々で真野くんに話しかけていたが、水のように当たり障りない返答に飽きたのか、やがて彼から離れていった。
 真野くんは多分、俺たちにあまり関心がなかったのだろう。彼は優しく、人によって態度を変えることがない。逆に言えば、親しい人を作らなかった。

 意識はしていなかったが、じっと見過ぎていたようだ。伏せられていた真野くんの濃いまつ毛が震え、茶色の水晶体と目が合う。
「どうしたの?松田くん」
「え、何が」
「ああ、思い違いか。ごめんね」
 薄い桃色をした唇が開閉する。やはり俺はそこから目が離せなかった。手を休めず、真野くんは続ける。

「ねえ、松田くん。松田くんはイマジナリーフレンドって知ってる。」
「聞いたことはあるけど。空想の友達ってやつだよね。」
「うん。実はね、僕にもそういう友達がいたんだ。」
 正直突飛すぎて、頭がついていけない。そこまで話したことのない人間に、変な話だ。もしかして、彼は結構『電波』なのだろうか。俺の反応も気にせずに、真野くんは続ける。

「僕は小さい頃体が弱くてね。入院なんかもしょっちゅうして、友達なんかいなかった。そんな時、イマジナリーフレンドを作ったんだ。」
「そうだったんだ。」
「顔もちゃんと覚えているんだよ。ほら、見る?」
 そう言って彼はプリントの裏を見せようとする。俺は気味悪くなり、席を立つ。そして、この会話を終わらせようと試みた。

「日誌書けた?持って行くから、貸して」
「松田くんを見ていると」
 真野くんの澄んだ声が響く。その瞳はまっすぐに俺を見ていた。
「僕の、彼を思い出す⋯」

 職員室は教室よりもずっと暖かかった。ストーブの上で、やかんがしゅんしゅん沸いている。
 担任は、「ああ、今日の日直は松田君と真野君だったんだね」と言い、細い人差し指で眼鏡のブリッジを上げた。俺は担任の隣の椅子に座り、ため息をつく。
「先生、真野くんなんですけど…」
「うん。ど、どうしたの」
 担任はいつものように文字を詰まらせながら、俺に向き合った。さっき言われたことをぼやこうかと思ったが、うまい言葉が見つからず、またため息をついた。
「なんもないです。」
「はあ、そう…。いつでも良いからね、松田君。悩みがあれば、遠慮なく、言ってくれていいから」
「ああ…」 
 過剰な心配を受けつつ、担任から日誌をもらい、俺は職員室を出た。

 真野くんの言葉に、俺は「へえ~」と当たり障りのない返事をして、教室を出た。あんなことを言われたら、誰でも返事に迷うだろう。なのに、なぜこんなに心がかき乱されているのだろうか。

 真野くんがだいぶいっちゃっていることへの困惑はあるが、それと、ああ、あれだ。彼曰く、俺はそのイマジナリーフレンドってやつに似ているらしい。俺にすがるようなあの目の色は、もはや執着だった。
 唐突に理解した。俺はきっと、真野くんが、自分の好きな人を俺に重ねていることがショックだったのだ。真野くんは俺を見ているようで見ていない。その感覚が嫌だった。それを俺自身に伝えたことが気持ち悪かったのだ。

 やっぱりあの男は変だ。俺たちのパズルからずれている。だけどその意識を少しでも向けてくれたというだけで、胸はひどく高鳴っていた。真野くんのすがるような視線が網膜に焼き付いて、消えてくれそうになかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?