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てきとうに暮らす日記 17

 雨が降る前に近所を歩く。今年は冬がない感じに寒く中ってさくらがめっちゃ早かったけど、ほかの花も全部早くて、いつもの感覚では連休ぐらいに咲く花がもう咲いたり散ったりしていて、部屋から出ないあいだに季節がどんどん進んでて、さびしいような気もするし、人間のことに関係なく季節や天気が変わることに救われる気もする。
 ほんまやったら今日はROVOのライブに難波ベアーズに行ってるはずやって、と書いたとたんにこの「ほんまやったら」ってなんやろうと思う。「ほんま」を「事実」とすると行けなくて東京にいることがほんまで、「ほんま」を「あるべき状態」とするならベアーズでROVOを観てるのがほんまになる。
 難波ベアーズは、山本精一さんがやってはるライブハウスで、大阪でちょっとアンダーグラウンドな(なんて書いたらいいかわからへんなあ。最初に行ったのは高校のときの知り合いの知り合いのラフィンノーズのコピーバンドやったし、いろいろや)音楽をやってる人には特別な場所で、ほんま(この場合は事実)かどうかわからんけど、客だか出演者だかがけんかになったときに周りの人が「ここ山本さんの店やぞ、やめろや」と言ったらすぐやめたという話で、なんかそんなように思い入れのある場所やから、ベアーズで初めてやるROVOは絶対に行きたかった。そもそも、今年の日比谷野音のROVOはオリンピックのためにできへんはずやったのが今年の初めになってからできるってことになって、ROVO20周年やしこれは日比谷野音もベアーズもメトロも全部行かなと意気揚々としてたのが全部行けなくなった。
 開催できなかったことはしかたないにしても、ライブハウスは最初に集団感染があったり槍玉に上がってしまったのもあるし、今どこも営業できなくて危機にある。このあとも存続するために、署名活動や、たくさんのライブハウスが集まってのクラウドファウンディングや音源をダウンロードできる支援とか、個々のライブハウスでの支援をする活動とか、あれこれこの1、2か月のあいだにできてきて、それは独立系の映画館や演劇も同じような状況で、いろんな人がそういう仕組みを作ってくれて、支援できるのはありがたくて、わたしも賛同したり実際参加したりするねんけど、この状況は長く続きそうやし、お客さんの側も仕事とか厳しい状況で、だんだんお互いに難しくなってくるから、ほんとう(これはあるべき状態)は、公的な支援が必要やと思う。それはもちろん、エンターテインメントだけじゃなくて、飲食や観光やこの状況によって休業や影響を余儀なくされている全部の産業に対して必要なこと。
 SNSとかで、政府や行政の対応を批判したり支援を求めたりすると、政治的な発言として敬遠される現象があるけれども、わたしは批判ていうのはよりよい状態を目指すための建設的な行為やと思うし、そういう話をするのは、来週すごい大きい台風があるから対策をしたほうがいいでというのとなんも変わらなくて、さらにいうと明日のごはんなに食べよかというのと同じくらいに特別なことでもないし、誰もが発言するべきというのも違うと思うけど、なんで発言すること自体がよくないって思うのか、とそれは長いこと思ってる(極端な言葉を使わないでほしいとかその話ばかりになると少し気疲れするとかならわかる)。高校のときに休み時間にしゃべってて、わたしは子供のころ喘息で公害認定というのをもらっててそれに関する医療費が無料(確か。子供のころのことなので記憶が曖昧)やったり喘息の子だけの転地療養(山奥の病院に泊まる)とか行けてんけど大気汚染とか公害ってまだまだ解決してなくて、みたいな話をしたら、「しばの話は怖いから聞きたくない。やめて」と同級生に言われてんけど、そんなにおどろおどろしい話をしたのでもなかったし、あのときの「怖い」ってどういう意味やってんやろ、ってそのときもわからなかったし、今も、もっと聞いといたらよかったなと思ったりする。
 それで、わたしは自分の小説の中でライブに行く場面を何回も書いてて、それは「何でもない日常」みたいなことをずっと言われてきたのだけど、わたしは「日常」って思ったことなくて、実際今、ライブを観に行くことは「日常」ではなくてとても難しいことになっている。 
 わたしがそういうのを「当たり前の日常」って思わないのは、その子供のころの喘息で死ぬかもっていうのが今よりもずっと身近にあって明日が来ることが不思議で仕方なく、そしてもう一つ大きな経験は、1989年1月7日のことです。あのとき、予定されていたテレビ番組が全部なくなり、やっぱり「自粛」という言葉があちこちに現れて、朝から晩までテレビを見ててテレビが世界やと思っていた中学3年生のわたしは、自分が普通と思ってるものはある日突然「今日からルール変えました」っていわれるかもしらんもろいものなんやな、って思った。普段は「普通」ってことになってるだけなんやな、って思った。その日の一つのできごとで、それだけ世の中が変わってしまうって、つまり「日常」と呼ばれてるものって「政治」と切り離されへんもんなんやな、って思ったし、めっちゃ謎のいつ崩れるかわからんあやういもんなんやとも思った。そのときどきで経緯や状況は違うから単純に比べたり当てはめたりするのは考えるべきや思う。ただ、少なくとも、「なにげない」なんていうことはない。なにもしなくて当然そこにあるはずのものが「日常」っていうふうには思えない。あのとき、インターネットもなかったし、イベントが中止になった人もいてたはずやけど(その数か月前から「自粛ムード」というのがあったし)、その人たちはどうしてはったのやろう。短期間やったし、今回とはだいぶ状況も違うし、今と違ってバブル期やったからそこまで影響もなかったのやろうか。(この「日常」ってなんや?の話は『わたしがいなかった街で』にちょっと書いた)
 2月の終わりに演劇やライブができなくなって、無観客で配信とか、それぞれに工夫してファンを楽しませてくれようとしていて、わたしもいくつか観て楽しませてもらった。その中で、山本精一さんはベアーズで無観客無配信ライブを一人でやり、ドアも鍵閉めてるから来ても入れないと宣言していて、わたしはたいへんに感銘を受けた。音楽を演奏するってなんやろう、ライブやるってなんやろう、ライブハウスが営業していくことってどれだけ大変なことやろう、って、誰もいないベアーズ、あの地下の狭いところで一人で誰も見ることも聴くこともできない音楽を演奏する山本さんを思い浮かべながら、突きつけられたように思った。
 難波ベアーズは、今、公式サイトで支援をできるようになっていて、「永久フリーパス20万円」「山本精一直筆護符2000円」、そして、上記の無観客無配信ライブの「後売券」を希望者はつけてもらえます。わたしは護符を買いました。あと、「MUSIC UNITES AGAINST COVID-19」といういろんなライブハウスを支援すると限定の音源がダウンロードできるのにも参加しています。

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