今考えていることを書き残しておこうと思う。

最近常々、食の摂り方をどうするかだとか、仕事や生き方をどうするのかなどということを考えている。それは世界に、勝ち負けや優劣が人生を大きく左右するという価値観を根付かせ、また言葉巧みに騙し欺き搾取した挙句に人を支配しようとする人間がいることを知り、その思惑にまんまとハマってきたということを思い知らされたからに他ならない。

もちろん労働をしなければ現状の暮らしを維持することはできない。それに、今の暮らしから離れて生きることの欠片も想像すらつかない。
ここで言う離れるというのは、引っ越して別の場所に住むことだとか、別の仕事に転職するだとかのレベルではない。それは、定住し、雇用され、生きている時間のほとんどすべてを自分以外のところからコントロールされているという面で生き方として全く変化しないことだ。

そうではなく、もっと本質的なところに根ざした生き方を、心が震えるような、命を燃やすようなそんな充足した生き方をしたいと考える。
しかし、それはどんな生き方だろう。自分も、自分以外の周りの人間でも、普遍的な労働のサイクルや思想、生き方から離れて暮らす人を知らない。今は風の時代だとか時代の転換期だとかよく言われていて、これまでの生き方ではもう暮らせなくなるなどとも聞くけれど。

実際問題、今後予想されるような大災害や、IT革命、世界政府樹立などの転換へ向けて私達が出来ることとはなんだろう。正直、仮想空間へ意識が飛ばされるだとか、超監視社会がやってきてあらゆることを管理されるだとか、そんな世界嫌だ!と思うような予想がたくさんたてられているが、、今までの彼らのやり方を考えるに、きっと私たちが気付こうとしていかない限りは、気づかれないような巧みな方法で支配していくはずだ。これまでと同じように。

とはいっても、支配者たちの思惑通りことが進むにしろ進まないにしろ、世界がどうなっていくかなど想像する事しかできない。
であれば、シミュレーションの結果として見えることをやっていくのではなく、世界がどう転ぼうとも自分がどう在りたいのか、何をしたいのか、ということを描いていくことが大事なのではないかと思う。だが、それってどんなことなんだろう……現状、いまいちよくわかっていないのだ。
きっとこの数年で世界は大きく移り変わっていくのではないかと想像する。だから、ここ数カ月~数年で、私も生き方を変えていかなくてはと考えているのだが、、、

こんなことを考える反面、モノややり方など自分の外側の現象ありきで考えて左右されているというのは、根本的に解決にも変化にもならんのではないかと思う。

もちろん自分に取り込んだり接したりして影響を受ける意味では、外側を変えることで内側にも変化が起きるのだとは思うが、
でもそれって、見た目や印象は変わっても肝心なところに一切アプローチできていない感がある。
だから、もっと意識や感覚の部分が変化していくようなプロセスを踏まなければならないのではないか、と切実に考えている。同じ意識や感覚を持ち続ける限り、進化も改革も起きないのだ、と。

結局のところ何故変わりたいのか、変えていきたいのかといえば、生まれてきたからには命を燃やすような生き方をしてみたいと願うからだ。
その願いの一方で、平坦で変わり映えしない毎日を妥協して生きている自分がいる。その選択を当たり前のように繰り返す自分もまた、いる。何故妥協するに至ったのか、を考えたときに、世界の支配構造を知ってしまった。

単に支配者層の人間のやることがけしからんという理由だけではなく、彼等がやってきたことこれからやろうとすることが、これまで選択してきた自分の在り方に繋がっていたのだと理解したとき、自分は社会の底辺でゴミクズ人間だという認識を新たにし変化の可能性を信じられるようになった。


過去の私は唯物論的な考えを、もはや崇拝するくらいのレベルで持ってきてしまったように思う。美しければとか、お金があればだとか、こうなることができるならとか、今それは手に入っていないけれどそれが手に入った暁には理想の姿になれるのだという、一種の宗教のような妄想にも似た考えだ。

あるいは、過去を振り返ってあの時に別の道を選んでいればなどということを想像したりすることも然りで、私に限った話ではなく現代に生きるそのほとんど誰もが、一般的だとか常識だとか呼ばれるそんな恐ろしい妄想を抱いている。

「妄想」という言葉はおかしいと思うだろうか。私はおかしいとは思わない。私達のほとんどが信じていることの大半は、虚像にすぎないからだ。虚像を多数が妄信しているのだから、それは妄想だと呼ばずして何と呼ぶのか。至極真っ当な表現だと考える。ごく一部のキチガイが頭のおかしいことを考えることが妄想だ、という定説さえ、疑っていいレベルの話だ。


さて私達は本当に、何かある物がなければ、ある出来事が起きなければ、あらゆる事象について所有することをしなければ、幸せになれないのだろうか。今、自分が持っている思想や価値観は、果たしてまるっきり自分のものだといえるだろうか。

もし、自分の思想や価値観だと思ってきたものが、誰かの意図することの結果として植え付けられたものなのだとしたら、あるいは、意図せずとも影響を受けた結果として染み付いてしまったに過ぎないものなのだとしたら。
それは、絶対的なものではないのだから捨てたって構わないと思う。
そして、何から影響を受けるかは自分で選択するべきだと、そう思う。
だからこの世界のカラクリに気付いた時点で、私はある程度捨てられる恐怖や戸惑いを捨てることができた。

気付いたとはいっても、表層的な部分だけを見たに過ぎないことは分かっている。それでも、その表層的な部分だけ知れただけでも、自分が捉われていた劣等感や悲しみの呪縛からある程度解放された感があるのだ。
それは、そのことが根本的には私の苦しみすら生み出す元であったのだという理解をしたからだ。


私は20代のほとんどの時間、過去の後悔や悲しみに縛られ怒りを湛えながら、上手く生きられない自分の性を呪い、容姿の醜さに強い劣等感を感じ続けてきた。
私の苦しみとは何か。それは人生を上手く生きられない事だった。そして醜い、ということで、情緒不安定で人と上手く付き合えないことだった。そんなあらゆる劣等感を抱え続けることだった。
なぜ、人生を上手く生きられないなどと考えてしまったのかといえば、うまく生きる人の手本のようなものが、見た目から意識や言葉、価値観に至るまでスタンダードとして設定されていて、そう生きることやそう在ることが素晴らしく、それ以外はまったくダメなんだということを、これまでの人生においてイメージとして根深く刷り込まれてきたからだ。

私だけではない、周りの親や親戚、過去に関わったあらゆる人達の中にそれが刷り込まれていた。結果的に自分でそれが事実だと受け入れた結果だと言えるが、自分以外の人間からもそうした刷り込みによる私への判断や発言が数多くあったように思う。周りからの評価が人生において多大な影響を及ぼすことは誰もが理解できることと思う。美醜についての捉われも、まったく同じカラクリである。

だとするならば、私は一体何に対して、そしてなぜこんなにも苦しんできたのか。と思わざるを得なかった。
だって私自身がダメだったのではなかったのだ。誰かの作った設定が素晴らしく唯一尊いものだと信じ込んだがゆえに、勝手に苦しんでいただけだった。
勉強が出来なければいけない、「健常者」でなければならない、学歴がないとダメだ、ブスは愛されない、デブは自己管理ができないクズだ、目は大きくて二重が美しい、友達がいないボッチは社会不適合者だ、貧乏は不幸だ、、、書き出せばキリがないほど出てくると思う。
苦しさも、悲しみも、全てはこれらの「当たり前」「一般常識」のような妄言を、自分で信じると決めた結果にすぎない。



だから、今私は自分のことを醜いとは思わない。染み付いてしまった美しさの基準値みたいなものはなかなか拭えなくても、それと比較して卑下するようなことはしなくなった。
これから私が自分に対してどんな認識をすることが望ましいのかといえば、どんな見た目や状態であっても、私は尊くて美しいのだと心から信じることができるという境地に立つことだ。そして、心から自分自身を愛しているということ。

そうやって自分を見たり思ったり感じたりすることができたとき、私は一体どんな人間であるのだろう。想像したら涙が出てくる。

それでも、ずっと持ち続けてきた、美しさや賞賛に値する者像の力は強い。
美しければ、強ければ、賢ければ、たくさんの中から勝つことができ、周りから評価され褒められ良い待遇を受けることが出来るのだということ。そして何者にもならず何処にもよらない中庸がいて、
不細工で、弱くて、馬鹿な人間には価値がなく、そいつらは落ちこぼれなのだと、何度も何度も刷り込まれ思い知らされてきたのだ。

こんな概念的なことが万人に同じ感覚として伝わるわけもないのに、そう見えるわけもないのに、文字通りそれぞれ刷り込まれた上で自分の思う「勝ち組」の姿と比較して、それにとらわれ続けて生きてしまう。
だからこれからもっと、少しずつで構わないから、脱していければ良いと思う。




まだある。彼らが行なっているのは「当たり前」「一般常識」の絶対的な刷り込みだけではない。政治を、金融を、食を、水を、エネルギー産業を、私たちの生活の根幹を成すあらゆることを手中に収めて操作している。

根拠を出せ!とかそういうヒステリックな言葉を言われても私は説明する気はない。そういうことを言う人はマウントをとりたいだけだからだ。端から嘘だと決めつけて、まともな証拠を提示されたとしてもいちゃもんをつけるに違いない(偏見)

まあそうはしないとしても、真偽を知りたいなら自分で調べれば良い話だ。ここでは、今私が考えていることを書き残しているだけである。もちろん、嘘だという前提で調べれば、嘘を立証するための調べものの仕方になるだろうから、私が見たものとは違うものを多数見ることにもなるだろうけれど。

何だかこれって、コロナ禍で二極化する意見に関して言えることと同じだな。
極端な話ではあるが、エビデンス!科学的見地!ばかりに依って、偉い人の言うことは正しい!公式が言うからホントだ!ということを妄信する人、
あるいは、トランプ最高!緊急放送!〇〇は光側で■▼は闇側だ!などという偏った妄信をする人と、
自分の感覚をきちんと信じて多角的な考え方見方をしようとする人に分かれる。またあるいは、そのどちらにも属さない、考えることを放棄する人々も多く存在している。周りや時代の流れに身を任せて浮草のように生きるのだという考えの人たちだ。
※偏った妄信をする人たちも偏屈すぎて近づきたくないと思うが、私はこの他人任せな層の人達のことが一番理解できないししたくない。


ともすれば私たちは、人生に起きる様々な出来事について、またそれに伴う感情について、自分以外のところからやってくるコントロールのできない代物だと考えがちである。私もそう考えてきたように思う。というか今でもしばしばそう考えてしまう。

けれど事実はそうではなかった。周りからコントロールされているのだとすれば、私はその現実を選んだし、コントロールされているという認識を選んだのだ。
自分は醜くて社会の底辺であり価値の低い人間だ、と思っていた過去の私も、その世界を見ようと決めたからそれを見てきたにすぎない。

誰も他人と同じ世界を見ることはできない。これが、多世界解釈(パラレルワールド)の話だと思っているが、とにかく意識の数だけ、選択の数だけ世界が存在している。
例えば今会社の椅子に座っているこの地点から、仕事をボイコットして、暮らしている部屋を引き払って、海外へ逃避行する私。という現実も存在している。想像できるあらゆることは、現実化することができる。
今から何を選ぶか、何を思い描くか、何を意識して考えるかだけが、現実がどう存在するかを決定づけている。
そしてそれらのイメージがリアルであればあるほど、現実はより鮮明に分かりやすく具現化していくのだということ。

とりあえず、科学的見解も知った上で、この真理のざっくりとしたこのような理解だけはできた。問題は、この真理に対してどうやってそれを自分の意識や思考の上に現実に具現化するのかというところ。
難儀しそうにも思える反面、今自分が見ている現実も同じ仕組みで具現化されているのだということを考えれば、不可能ではないということが分かる。

そして、やり方や自分の外側に固執している段階では、うまくいかなそうであるということも何となくわかる。
だって、逆だからだ。さっき述べたように、外側が現実に影響しているのではなく、どう意識して考えるかだけが現実になっているのだから、外側に捉われて意識や思考をコントロールされてしまう間は、上手くいかないであろうと思うのだ。


ということで、まとめ。
・時代の転換期において自分の人生の生き方について、選択を迫られている
・支配者層の思惑通りに生きる奴隷のままではいけない
・すべての現実に起こる現象や感情は、自分の意識や思考の結果具現化されるものである


何にせよ、気づく前も後も変わらず漠然と思っていることは、私の人生は右肩上がりにどんどん上がっていくということ。根拠のない自信ってすごい笑えるけど、最近理解したその真理に基づいて考えれば、それを鮮明に描き続けることで間違いなく現実のものとなるということ。

おわり。

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