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千葉雅也「デッドライン」---「僕が君だとしたら?」


私の心の支えとなっていている哲学者・國分功一郎先生の盟友、千葉雅也さんについて、最初は「よくツイッターをやっている人だ」「ギャル男の髪型を維持することで文化を継いでいるらしい」くらいの印象しかなかったが、その後現代思想入門、勉強の哲学、アメリカ紀行、意味のない無意味...と読み進めていくうちにそのリベラルさに感嘆とするようになった。どこまでもわかりやすく、哲学や概念の「型」が分かり、日常生活に応用が効く。料理を作ったことがない人に料理を教えるように、運動をしたことがない人に運動を教えるように、哲学を知らない人に哲学を教えるように。デッドラインはそんな千葉さんの小説の第一弾で、「私小説の脱構築三部作」の一部目だと言う。現代思想入門の中で習った「脱構築」の概念を思い出す。二項対立の枠組みを解体し、新たな構築を試みる方法...

解説については末尾にある「ズラされつづける「身体性」 千葉雅也『デッドライン』論」(町屋良平)がとても優秀なので私が解説できることはないが、2点書き留めておきたいことがあったので書いておく。

一つ目。私は今大学生生活を営んでいるが、どの程度のお金を使っていいのかがずっと分からないままでいる。
たとえば、友達は大学に通い、バイトをし、サークルで積極的に活動しながら、ディズニーランドに行ったり旅行に行ったり居酒屋に行ったり高そうなものを食べたりをインスタのストーリーに載せていて、毎日キラキラしているように見える。流石に私は今年25歳になるので「羨ましいな〜」と言う気持ちは以前より少なくなってきたが、私の最近の一日---昼に起きて洗濯して中国語検定の勉強をしてご飯を作って少し読書して眠る---よりも密度が濃く、速度が速いような気がする。まるで若さというものの有限性を知っているかのように。でも、年下の友達たちはお金をみんなはどこから捻出しているのか?実家暮らしじゃない人は全員親から家賃をもらっているのか?バイトだけでそんなに遊べるのか?ずっと分からない。

そして私は奨学金をフルで借りてその上バイトをしていて、なのにギリギリの生活というのは何に使っているんだろうか?毎日自炊だけどこだわってしまうからだろうか。外食をするときや物を買うときに頭の中で鳴るブザーがある。危険信号。もし病気とかに突然なったら来月の家賃どうするのか?というブザー。

デッドラインの「僕」は大学院生で、昼に起きてドトールに行きジャーマンドックとコーヒー、そこで一服、それから読書や論文を書き、夜ご飯を外で食べ、夜中に友達を誘って自分の車でドライブをして、大学の授業は午後からしか取ってない。大学生と違って、大学院生は「有限性」から少し遠い気がする。論文という大きい目標に向かって長距離走をする。毎日机に向かっても毎日何かが生まれるわけではない。その繰り返しが日常なのはもちろん理解しているけど、文章で読むとお金持ちの道楽みたいにも見える。有限性の上で遊ぶ学部生よりも、大義名分を得て夕方起きることができる院生の方が、なんだか焦ってる感じがしなくていいなあとさえ思ってしまう。

私が読んでて怖かったのは、その「僕」の生活がある日突然変わることを余儀なくされること。実家が破産申請をし、自分は家を引っ越さなければならず、車も手放し、スピーカーも父に返し、大学院にもう一年いることすらできないと決断しなければならなくなる、日常が急に非日常になるのではなく、非日常が日常を急に塗り替えるという可能性について。

「あまり現実味がない」ことよりもより鮮明なことが現実に起こったのが「僕」なのか。実家が自己破産するとなるとどういう気持ちなのだろう。物理的だけでなく心理的な影響もあるだろうし、親との接し方も変わるだろう。そのリアルじゃないことへの「もし」が、頭で鳴っていたブザーをより鮮明な体感に変えた。
二つ目は、中学生の時に「好きな人いるの?」と女子グループに聞かれて、「僕」が「君だとしたら?」と答えた後にある「僕」の考察。


男と女が、越えられない距離を挟んで相手を対象として愛する。それが普通なのだった。その中で強いられて答えた「君だとしたら」から、強いられた男女の距離を削除し、男と女が互いに「なる」ような近さえと入るならば、その台詞の本来の意味は、「僕が君だとしたら?」であるはずだ。

(デッドライン 引用)


この「君だとしたら?」という文にある軽快さは、村上春樹を彷彿とさせると感じた。だけど、この種の自意識を私は常に感じてしまう、ということをここで白状しようと思う。「好きな人いるの?」と聞く時も、「君だとしたら?」という返答を待っているような気がするし、逆に「君だとしたら?」と言う時、「君も僕のことが好きだ」と仮定してしまうような気がする。この自意識についての明瞭さ。そしてその後の「僕が君だとしたら?」と言う問い。

僕は君であるはずがない。だがしかし、誰かと付き合うと言うこと、そしてそれが往々にして男女と言う性別を超えていると言うこと---を加味すると、確かにそれは「距離」の問題なのかもしれない。そしてその距離の近さは距離を「超える」、別の言い方で言うと「なる」---のだろうか。私は異性と同じになったことがないと思う。それは距離が遠いからなのか?

ミツメの大好きな曲、「クラゲ」に、「ゆらゆらクラゲだってさ とけてひとつになるね」「君のこと 飽きるほど 溶け合いたい くらげみたいにさ」と言う歌詞がある。

この曲がずっと好きで、お守りのように聞いている。が、もしかしたらこれは距離のことを言っている曲なのかもしれない。「クラゲ」の歌詞は「そんな日は稀だから」とも書いてある。稀に距離がなくなるような日があるのか、距離をなくしたいと思うような日があるのか。そんな日に出会えたら素敵だなと思う。
いつか、「私が君だとしたら?」と言ってみたらあまりにキザすぎて笑ってしまいそうであるが。




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